今やマスコミではなく「マスゴミ」と呼ばれるものから、私は情報を得ている。
仕方がないのだ。ネット上に、より有益な情報があると思う事が増えてきているが、やっぱり新聞も情報源の一つである事に変わりない。
まったく、猫の手も借りたいほどだから。
1年近く前、2013年1月13日(木)の『朝日新聞』に、高橋源一郎の「オピニオン」が載っていた。
ラップのグループ「ライムスター」のメンバー達が、「大切なのは「インテリジェンス」って、いってる」のだそうだ。
意外に思う人も多いかもしれないね。「80年代のヒップホップはインテリジェンスな部分に成り立っていたところがあったよね。ゲットーで生まれたストリート・ミュージックなんだけど、そこに知的であろうという姿勢があるのが衝撃だった」ってメンバーのひとりもいっているけど(アルバム「ダーティーサイエンス」のプレスリリースから引用)、もともとアメリカの貧しい黒人たちの間で生まれたヒップホップは、生まれながらに社会の矛盾と直面してた。だから音楽なのに、あんた考えな、って、メッセージに溢れてる。
(高橋源一郎「対話するのはキミだ」/『朝日新聞』2013,1,13)
(Sony MusicがYouTube に投稿)
高橋は、続いてこう書いている。
いつごろからなんだろう。「インテリジェンス」とか「知性」ということばを、「現実離れした理想論をギャーギャーいってる学者」とくっつけて、胡散臭いと感じる人たちが増えたのは。でも「インテリジェンス」っていうのは、要するに「対話ができる能力がある」ってことじゃないかな。
(高橋源一郎「対話するのはキミだ」)
私は以前の記事で、「Moving On」というラップとR&Bをくっつけたような曲を、坂本龍一の究極の一曲として、紹介した。(→ブログカテゴリなど見直しました。)
記事をupした後になって、坂本の究極の一曲としては、「東風」とか「千のナイフ」の方がふさわしかったかな?とも思ったのだが、2013年がいやーな困惑のうちに終わろうとしている今だから、「Moving On」という曲が私の頭に浮かんだのだろう。
その「Moving On」で作詞とラップを担当しているのは、J-Me・スミスという黒人女性。
無名だったのを坂本が起用したのだが、J-Meのラップに「知性」を感じて、と坂本がどこかで書いていて、それ以来、「知」ってどういうことなんだろう?とずっと気になっていた。
「知」については分かるような分からぬような、曖昧なまま、J-Meのラップを聴く度に、私が根拠もなく思っていること。それは、ああ、こういう人となら話が通じるかもしれないのに、ということ。
私は、大学入学とともに生まれ育った家を離れるまで、傍目には会話をしているように見えようと、本当の意味で、他者と「会話」が成立したことはなかった、と思っている。
家の中でも、「霊友会」という異常な団体の中でも、高校でも、日本語という言語を共有しているはずなのに、別の言語で話し合っているほどにも、連中とは言葉が通じなかった。
連中とよりも、アメリカ英語しか知らないだろうJ-Meと英語力の乏しい私との方が、話が通じるだろうという妄想は、あながち妄想ではないのかも。
人間が集まって生きる以上、「知性」が本当に目指さなきゃならないことを、高橋源一郎の「オピニオン」は、的確に示している。

「対話」を成立させる能力を、「知性」と呼ぶことにしよう。
歴史上の大きな危機に直面した人間達は、深刻な「知性」欠乏症に悩まされてきたのだし、逆に、その危機を収束させる時には、大きな「知性」が登場したわけだ。
ふり返って今の日本では、「知性」欠乏症が、「ネトウヨ」をイラつかせ、彼らの粗暴な言葉に触れる私たちを、絶望的な気分にさせる。
「日本に原発が必要なのは、分かりきってることだろ?早く再稼働させろ!」
「知性」への不信感がつのっているから、こういう短絡的な言葉が、勢いを増す。
今日と明日の日本を、深刻な「知性」欠乏症が覆っている。
そして気がつくと、「知性」が嫌悪されるような雰囲気が出てきている。
でもそれは、「知性」への愛の裏返しだと、私は思うのだが。
愛の裏返しだから、炎上するんじゃないか?
「対話」を成立させる能力をとしての「知性」を手にするのが、いかに難しいか、私は身をもって知っている。
逃げ出すか、「あれはビョーキだ」として封をするか、打ち倒すか・・・。
ずいぶんナイーブな事を言おう。
安倍晋三と対話することは、やっぱり無理なのだろうか。
この国の総理は、「ネトウヨ」を取り巻きにして安心を得ているらしく、NHKも支配下に置いた。
「対話」を拒否したいからだ。
私は、自伝や伝記を読んでもその人のことが分かると思ってないので、彼の生い立ちについて知る気はないが。
他人を尊重できず侵害する人間とは、その人もまた個人として尊重されてこなかった為に大きなコンプレックスを抱えている、という心理学的考察は、安倍にも当てはまると、私は考えている。
私の見立てが当たっているとしたら、それを解きほぐすのは、本当に、本当に、厄介なのだ。
なぜなら、彼らは、「知性」でもって自分自身と「対話」することを、まず避けているからだ。
「特定秘密保護法」などの問題で、野党やジャーナリストに対して、安倍政権が詭弁でもってあしらうなら、「国民の皆様」の団体が、総理官邸に出向いて懇談をしたらどうなるだろう?
よく勉強した、詭弁では済まさない市民の代表が、ツッコミに行くべきじゃないか?
やっぱり、話が通じないだろうか?
(この項続く)
応援よろしくお願いします。
↓↓

仕方がないのだ。ネット上に、より有益な情報があると思う事が増えてきているが、やっぱり新聞も情報源の一つである事に変わりない。
まったく、猫の手も借りたいほどだから。
1年近く前、2013年1月13日(木)の『朝日新聞』に、高橋源一郎の「オピニオン」が載っていた。
ラップのグループ「ライムスター」のメンバー達が、「大切なのは「インテリジェンス」って、いってる」のだそうだ。
意外に思う人も多いかもしれないね。「80年代のヒップホップはインテリジェンスな部分に成り立っていたところがあったよね。ゲットーで生まれたストリート・ミュージックなんだけど、そこに知的であろうという姿勢があるのが衝撃だった」ってメンバーのひとりもいっているけど(アルバム「ダーティーサイエンス」のプレスリリースから引用)、もともとアメリカの貧しい黒人たちの間で生まれたヒップホップは、生まれながらに社会の矛盾と直面してた。だから音楽なのに、あんた考えな、って、メッセージに溢れてる。
(高橋源一郎「対話するのはキミだ」/『朝日新聞』2013,1,13)
(Sony MusicがYouTube に投稿)
高橋は、続いてこう書いている。
いつごろからなんだろう。「インテリジェンス」とか「知性」ということばを、「現実離れした理想論をギャーギャーいってる学者」とくっつけて、胡散臭いと感じる人たちが増えたのは。でも「インテリジェンス」っていうのは、要するに「対話ができる能力がある」ってことじゃないかな。
(高橋源一郎「対話するのはキミだ」)
私は以前の記事で、「Moving On」というラップとR&Bをくっつけたような曲を、坂本龍一の究極の一曲として、紹介した。(→ブログカテゴリなど見直しました。)
記事をupした後になって、坂本の究極の一曲としては、「東風」とか「千のナイフ」の方がふさわしかったかな?とも思ったのだが、2013年がいやーな困惑のうちに終わろうとしている今だから、「Moving On」という曲が私の頭に浮かんだのだろう。
その「Moving On」で作詞とラップを担当しているのは、J-Me・スミスという黒人女性。
無名だったのを坂本が起用したのだが、J-Meのラップに「知性」を感じて、と坂本がどこかで書いていて、それ以来、「知」ってどういうことなんだろう?とずっと気になっていた。
「知」については分かるような分からぬような、曖昧なまま、J-Meのラップを聴く度に、私が根拠もなく思っていること。それは、ああ、こういう人となら話が通じるかもしれないのに、ということ。
私は、大学入学とともに生まれ育った家を離れるまで、傍目には会話をしているように見えようと、本当の意味で、他者と「会話」が成立したことはなかった、と思っている。
家の中でも、「霊友会」という異常な団体の中でも、高校でも、日本語という言語を共有しているはずなのに、別の言語で話し合っているほどにも、連中とは言葉が通じなかった。
連中とよりも、アメリカ英語しか知らないだろうJ-Meと英語力の乏しい私との方が、話が通じるだろうという妄想は、あながち妄想ではないのかも。
人間が集まって生きる以上、「知性」が本当に目指さなきゃならないことを、高橋源一郎の「オピニオン」は、的確に示している。

「対話」を成立させる能力を、「知性」と呼ぶことにしよう。
歴史上の大きな危機に直面した人間達は、深刻な「知性」欠乏症に悩まされてきたのだし、逆に、その危機を収束させる時には、大きな「知性」が登場したわけだ。
ふり返って今の日本では、「知性」欠乏症が、「ネトウヨ」をイラつかせ、彼らの粗暴な言葉に触れる私たちを、絶望的な気分にさせる。
「日本に原発が必要なのは、分かりきってることだろ?早く再稼働させろ!」
「知性」への不信感がつのっているから、こういう短絡的な言葉が、勢いを増す。
今日と明日の日本を、深刻な「知性」欠乏症が覆っている。
そして気がつくと、「知性」が嫌悪されるような雰囲気が出てきている。
でもそれは、「知性」への愛の裏返しだと、私は思うのだが。
愛の裏返しだから、炎上するんじゃないか?
「対話」を成立させる能力をとしての「知性」を手にするのが、いかに難しいか、私は身をもって知っている。
逃げ出すか、「あれはビョーキだ」として封をするか、打ち倒すか・・・。
ずいぶんナイーブな事を言おう。
安倍晋三と対話することは、やっぱり無理なのだろうか。
この国の総理は、「ネトウヨ」を取り巻きにして安心を得ているらしく、NHKも支配下に置いた。
「対話」を拒否したいからだ。
私は、自伝や伝記を読んでもその人のことが分かると思ってないので、彼の生い立ちについて知る気はないが。
他人を尊重できず侵害する人間とは、その人もまた個人として尊重されてこなかった為に大きなコンプレックスを抱えている、という心理学的考察は、安倍にも当てはまると、私は考えている。
私の見立てが当たっているとしたら、それを解きほぐすのは、本当に、本当に、厄介なのだ。
なぜなら、彼らは、「知性」でもって自分自身と「対話」することを、まず避けているからだ。
「特定秘密保護法」などの問題で、野党やジャーナリストに対して、安倍政権が詭弁でもってあしらうなら、「国民の皆様」の団体が、総理官邸に出向いて懇談をしたらどうなるだろう?
よく勉強した、詭弁では済まさない市民の代表が、ツッコミに行くべきじゃないか?
やっぱり、話が通じないだろうか?
(この項続く)
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