アンチ-ロマンチシズムと文学との幸福な共存を謀ります。当面、「炭鉱のカナリア」になる決意をしました。第二次安倍政権の発足以来、国民は墨を塗られるだろうと予測していましたが、嫌な予感が現実になりつつあります。日本人の心性や「日本国憲法」の問題などを取り上げながら、自分の明日は自分で決めることの大切さを、訴えていきたいと思います。
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

山上憶良はそもそも、律令国家・日本の優秀な官吏だった。

憶良の父祖はおそらく無位で、憶良は大学寮の入学資格を持たなかったと考えられる。
しかし、養老5(721)年、62歳の時には、東宮(後の聖武天皇)の侍講を仰せつかっている。
これは、憶良が、当代の学問の大家の列に加えられていたことを示す。
皇太子の教育の中心には、経義(儒学の経典の解釈)や律令格式(今の刑法・行政法と、その改正や施行細則)を講ずることがあった。

山上憶良は、『万葉集』の社会派詩人と目される。
里長(さとおさ・50戸の長)が人民から利息を取り立てるのに、笞を持って威嚇する没義道が、「貧窮問答」に描き出されている。

玉蜀黍_convert_20120628141809

里長やその上に立つ郡司らは、律令制が敷かれる以前から、その土地の伝統的支配者としてあり、いわゆる既得権を維持したがったわけである。
朝廷から派遣された国司が、その土地の郡司らと結託して農民を苦しめる例は、憶良の時代にざらにあったらしい。

6年にわたって筑前守を勤めた山上憶良は、郡司や里長が私利をはかる様を、しばしば眼にしたと思われる。
そういう非道を諫める意図が「貧窮問答」にはあったのだろう。

彼(註─憶良)の民生思想は、儒教を国是とする国家の官僚としての合法的・合理的な支配行為=倫理的行為であり、それは官僚としての義務の観念に裏づけられている。
(山本健吉,『詩の自覚の歴史』,第十一章「山上憶良の「貧窮問答」」)

山本健吉によれば、憶良は‘行政行為を窮極には倫理行為として生かそうとした理想家’であり、極めて稀な存在だった。
しかも、‘その理想に文学表現を与えようとした’のが憶良であった。

富良野3010067_convert_20120718183341

しかし、国司の任を離れた後、最晩年の天平5(733)年に憶良が作った3篇の詩は、とても重苦しい。
第十二章「山上憶良の最晩年」で、山本が明らかにしている憶良の動揺とは、つまりは‘死生観’を巡ってのものである。
長い官吏生活を打ち切って都に帰って来たとき、それまで憶良を支えてきた‘イデオロギー’なども、すべて空しく思われだしたのだろう。

すべもなく苦しくあれば出で奔(はし)り去(い)ななと思へど子等に障(さや)りぬ
(山上憶良,『万葉集』巻五,899)

これは「老いたる身の重き病に年を経て辛苦(たしな)み、及(また)児等を思ふ歌七首」と題された、長歌1首反歌6首のうちの一つである。

いよいよ自分一人の死を死ななければならないと気付いた時、取り乱さずにいられるだろうか?
人間には、“魂のこと”、形而上学が、切実に必要とされることが、あるに違いない。

憶良の上の歌を見て、沈痛な気分になっていたとき。
「さようなら原発10万人集会」で話す大江健三郎の姿がテレビに映っていた。
“政治と文学”の難しいところを経て、“魂のこと”をしたいと言う人物を書き始めた大江が、77歳になってまた、反原発集会を先導している。

巨大隕石でも衝突してこない限り、地球は青く、人間の世界は続き、グロテスクな事が繰り返されるのだろう。
天才も凡人も、等しく自分一人の死に備えなければならないが。
この奇怪な形而下の世界は、自分一人の思いに専念することを、なかなか許してくれない。

スポンサーサイト

[2012/07/19 01:10] | 古典と現代文学
トラックバック:(0) |
コメント:
この記事へのコメント:
コメント:を投稿
URL:

パスワード:
非公開コメント: 管理者にだけ表示を許可
 
トラックバック:
この記事のトラックバック URL
この記事へのトラックバック:
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。