アンチ-ロマンチシズムと文学との幸福な共存を謀ります。当面、「炭鉱のカナリア」になる決意をしました。第二次安倍政権の発足以来、国民は墨を塗られるだろうと予測していましたが、嫌な予感が現実になりつつあります。日本人の心性や「日本国憲法」の問題などを取り上げながら、自分の明日は自分で決めることの大切さを、訴えていきたいと思います。
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雪と氷が溶け、木々の赤い若葉が萌葱に変わると、短い夏を待ち構えていたように、北海道でも小鳥が鳴き始める。
吉野の象山ではないが、まさに「ここだもさわぐ」(たくさんに鳴きさわぐ)という感じだ。

み吉野の象山(きさやま)の際(ま)の木末(こぬれ)にはここだもさわぐ鳥の声かも
                          山部赤人(『万葉集』,巻六・924)

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山部赤人のこの歌を、折口信夫は夜の歌として解釈した。
(この歌の場合、夜の歌とも、昼の歌とも、どちらの解釈も可能だろう。)

夜の静寂の中、よく通る鳥の啼き声を聴くと、“寿ぐ”という行為を理解できた気がするから、不思議だ。

私は、鳥について知識が無く、見分けられるのは、カラス・タンチョウ・ハト・フクロウ・ワシといった大きな鳥と、スズメくらいである。
啼き声となると、何の鳥なのか、いっそう分からない。
家の近くのちょっとした木立で囀っている鳥の姿は、夜陰に紛れて見えない。
小鳥なのだろうが、小さい身体のわりに、大変な声量である。
しかも、どこか陽気だ。饒舌に、この世界を誉めたたえているようだ。

陽気、という感じでなくとも、夜の鳥の声は、世界を違えて見せるのかもしれない。

ぬばたまの夜の更けゆけば楸(ひさぎ)生(お)ふる清き川原に千鳥しば鳴く
                          山部赤人(『万葉集』,巻六・925)

「ぬばたまの」の歌は、『アララギ』派の歌人達によって議論の的になった。
楸(ひさぎ)とは雑木なのか、アカメガシワ等の特定の樹木なのか?
月光が照らしているのか、漆黒の闇なのか?
それらと関連して、「楸生ふる清き川原」とは、眼前の景を写生しているのか、心に浮かんだイメージなのか?
「楸生ふる清き川原」(三、四句)に関して、山本健吉は次のように述べている。

樹種を熟知していたにせよ、見当で言ったにせよ、この三、四句は、あまりにも鮮かで透明なイメージを作り出しすぎている。それを、心を澄ませながら闇の中に甦らせた美しい川原の昼間の印象と取ったところに、迢空(註-折口信夫のこと)説の創意があった。
(『詩の自覚の歴史』,第5章「旅びとの夜の歌─山部赤人─」)

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確かに、「楸生ふる清き川原」とは、どこか現実離れした、硬質な世界をイメージさせる。
望遠鏡でのぞいた、冷たい月面世界にも似た…。そこまで言うと、上代の語感から逸れるかもしれないが…。
この三、四句には、ガラスか水晶のような、緊張度の高い何かを、私も感じ取る。

折口信夫は、赤人のこの歌を、人麻呂・黒人の流れに位置づけ、いわゆる‘夜の鎮魂歌’として解釈する。
こういう‘深読み’をする点が、『アララギ』の他の歌人と折口との違いと言えよう。

「ぬばたまの」を詠んだ赤人は、旅の宿りにあった。
この歌は、鳥の夜声をきっかけに、‘鳥の声を聴き澄ましている静かな心の集中’のうちに、‘現実から昇華された、現実以上に輪郭のくっきりしたイメージを構築’した、‘軽業的な名人藝’(『詩の自覚の歴史』,第5章)なのだ。

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[2012/07/05 00:03] | 古典と現代文学
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2012/07/05(Thu) 23:06:28 |  まとめwoネタ速neo
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