アンチ-ロマンチシズムと文学との幸福な共存を謀ります。当面、「炭鉱のカナリア」になる決意をしました。第二次安倍政権の発足以来、国民は墨を塗られるだろうと予測していましたが、嫌な予感が現実になりつつあります。日本人の心性や「日本国憲法」の問題などを取り上げながら、自分の明日は自分で決めることの大切さを、訴えていきたいと思います。
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大塚英志の『多重人格探偵サイコ--小林洋介の最後の事件』(小説版,2002年,講談社)をパラパラめくりながら、私は、軽いめまいに襲われた。

奇数ページの柱、つまり章名に、大江健三郎の小説・エッセイのタイトルが、印刷されているではないか!

第1章 遅れてきた青年
第2章 壊れものとしての人間
第3章 案内人
第4章 個人的な体験
第5章 洪水はわが魂に及び
第6章 生け贄男は必要か
第7章 治療塔
第8章 身代わり山羊の反撃

なお、第3章の「案内人」は、大江の短編連作『静かな生活』に収められた、3番目の短編のタイトル。大江はこれに、「ストーカー」とルビを付けている。

『サイコ』を読みながら、ページを繰っても繰っても、左上に刻印されている大江健三郎が気になって、なんだか落ち着かない読書になってしまった。

サイコ小説版

まったく、大塚英志という作り手を、カワイイと評すべきか? 底意地が悪いと評すべきか?

大塚がなんでこんな仕掛けをしたのか? 大江の文学をどう評価しているのか?
私は、大塚の考えを以前に読んだ気がするが、忘れてしまった。
しかし、私なりの大江への評価を重ね合わせてみれば、案外、大塚の気持ちも分かるような気がする。
たぶん、愛憎が入り交じっているのだろう。
ロマンチック文学の王道を行くOeへの憎悪と、小説というものを破壊していくアバンギャルドなOeへの愛着。


『多重人格探偵サイコ』などと、いかにも軽薄そうなタイトルを付した漫画のノベライズを手にした読者が、あたかも、大江の重厚な本を手にしているような、不思議な感覚に悩まされる…。
とりわけ悩ましいのが、第5章の「洪水はわが魂に及び」という文字列。
私は、奇数ページ上方を見ながら、パラパラ漫画の要領で『サイコ』をパラパラさせる。
『サイコ』の語り手‘ぼく’は、大江公彦(おおえきみひこ)と名乗る……。

サイコ表紙

大江健三郎が『洪水はわが魂に及び』(1973年)を執筆していた最中に、「浅間山荘事件」は起こった。
それで、大江の小説世界と外界が符合してしまった。
人間の内部の小さな空洞が膨らんで、ついに私刑が行われる、という事が、小説の内と外で同時に起こった。
その空洞の周りには、ヒッピー・ムーブメントだの、ニューエイジ思想だの、様々なものがまとわりついている。

『「雨の木」を聴く女たち』(1982年,新潮社)は、その辺りの不可思議な状況を取り込んで仕立て上げられた、大江文学の最高峰(だと、私は思っている)。

洪水はわが魂

『洪水はわが魂に及び』から『「雨の木」を聴く女たち』にかけて、充実の極みにあった大江健三郎の文学。
その世界を掠めるようにして、『サイコ』の物語は、第2巻、第3巻と展開していく。

そんなわけで私は、『サイコ』について(2巻・3巻も含めて)、次回も記事を書きたい誘惑に駆られている。(また寄り道か!?!)
漫画版も気になるが、時間・金・少しの勇気、の全てが私に欠けているので、漫画版は後回しにしよう。
あちこちの県で「有害図書」に指定されている漫画版である。(T_T)
小説版でも、第1巻の第7章、‘長い絶望の咆哮’が小林洋介の口から発せられるくだりは、ちょっと動悸がした。
その‘オブジェ’の破壊力は、絵にすると、増すのか減るのか?
少なくとも、大塚英志が、その知力と情念を尽くしてケンカを売っていることは、私にもよく分かった。

平成のある種の小説家たちに対して…。www


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[2012/05/15 16:30] | 大塚英志の仕事
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