アンチ-ロマンチシズムと文学との幸福な共存を謀ります。当面、「炭鉱のカナリア」になる決意をしました。第二次安倍政権の発足以来、国民は墨を塗られるだろうと予測していましたが、嫌な予感が現実になりつつあります。日本人の心性や「日本国憲法」の問題などを取り上げながら、自分の明日は自分で決めることの大切さを、訴えていきたいと思います。
【今回の記事は、一連の文学エッセイに交えて、かなり個人的な思いを書いています。いつもそうですって? 
いえ! いつもと違うのは、やや具体的な苦情のような内容を交えている点です。牛の涎のように長い上に、見苦しいかもしれませんが、悪しからずご了承下さい。】
****************************************************

‘隠者文学’とは、山本健吉によれば、‘自分の身分を離れて、自由な生活を営んでいる社会外の存在、言わばアウトロウの文学’であり、平安末から元禄ごろまでの長い期間が隠者文学の時代だとされる。

歌林苑での俊恵法師の歌の集いに端を発し、藤原俊成・西行・鴨長明・兼好・頓阿・正徹・心敬・宗祇・宗鑑等を経て、西鶴・芭蕉・近松・契沖等にまで及ぶ、長い文学の流れである。
(『古典と現代文学』,「隠者文学」)

この、質・量共に膨大な‘隠者文学’は、日本文学のさらに長大な流れのなかで、どんな意味をもっているか?
山本いわく、‘隠者たちの最大の功績は、文学を宮廷女流の感傷から解放したことだ’。
アカガエル_convert_20120105024608

感傷…。
辞書的に言えば、感じて心をいためること。
心にうけた大小の傷は、文学の種子であり、感傷的な要素を全く含まない文学があるとすれば、それは喰えない代物だろう。
しかし逆に、感傷によって全体が統括されているような、センチメンタルな文学というのも、私にはちょっと、喰えない…。
そもそも私は、なぜセンチメンタリズムが苦手なのか? 山本健吉の「隠者文学」を4・5回、繰り返し読んでいるうちに、ふっと気付いたことがある。

感情を発露することは、文学に限らず創作では、必要欠くべからざる、好ましい態度と受けとめられる場合が多いだろう。
でも感情を重視するということは、案外、不自由への道まっしぐら! だったりするのだ。

感情とは、割合に単純・類型的なものであり、誰でも同じような感情を抱きうる非個性的なものだから。
書き手にとってその傷が如何に切実なものであっても……。
書き手が気付かないうちに、感傷はいとも簡単に“先入見”に転じ、作品のタガと化す。
その結果として、他愛ない袋小路の文学が再生産される。

けれども、感傷したがるのが、人間の哀しい習性なのだろう。
‘感傷の文学’は、創りやすく、また受容しやすい。だから、メジャーになることも多い。
その点、現代文学でも古典文学でも、状況は同じである。
そういう‘感傷の文学’に対立するものとして、山本が位置づけているのが、‘隠者文学’なのである。
西行法師の位置づけ。
‘没感傷’という意味での「心なき」という観念を、文学のなかに導き入れた代表者である、という風に。

如何なる機会にも、感傷しようと構えている心を脱却して、先入観念のない自由無礙の状態を、心のなかに設定しようとした。
(『古典と現代文学』,「隠者文学」)
犀_convert_20120105024514

センチメンタリズムの他愛なさを突破するためには、“批評精神”が不可欠である。
批評とは、この現世に対する批判でもあるが、無闇に他人を否認することではない。

(この現実世界に生きている個々人には、皆それぞれの事情や思いがある。
それが見えないのはお互い様だ。
アナタが理解してもらえないからと、毒づいている相手。
その相手もやっぱり、アナタの想像が及ばない状況下で苦しんでいる、そういうことがあるかもしれない、と何故、書く前に思い留まれないのだろう?
満たされない自己承認欲求が裏返って、ほとんど何も知らないに等しい人間を否認するのか???
ネット上で不特定多数を否認する言葉。
それらの粗雑な言葉が、否認しているアナタ自身とアナタに否認されている人間を共に、袋小路に追いこんでいるのに。

人を否認する言葉なんて、そんな安直なものをバラまく暇があったら、外にすることがあるだろう。
私も不特定多数の一人である。正直言って、数日に亘り、強烈な不快感に囚われた。
私もまた、罵倒されている対象なのか? そう思えなくもない表現を前に、仮にそうなら黙っているべきではないと思ったが、どうすべきかずっと考えていた……。
黙って通り過ぎるのが賢明だろう…。私の側には微塵も借りはないし…。
不特定多数をバカにする方法を取っているのだから、私も、不特定多数に発信する形をとることに決めて、こうして今、思うところを書いているのである。
ネットの世界には、ネットの世界なりの流儀がある。
読むというより、見るのに向いているメディアを使っているのだから、私だって、wwwと笑うことはあるが……。
私がネット上で交流している潔い彼女もまた、wwwと笑うが……。)
亀_convert_20120105024441

なんとなく予感していた失望を感じながら、私のモヤモヤとした思いの中から、ようやく纏まってきた考え。
やはり、“批評”とは、そのジャンルの先行する作品に向けて行うべきことだ。
創作する人間が、理解してくれそうにない受け手に、傷を負わせてどうするのか?

(文学に於けるアウトロウとは? 実生活の無頼的態度とは次元が異なっている、既存の文学作品に対する態度である。)
(人をアホ呼ばわりして、‘交差点で拡声器を使って人々を中傷するようなことは止めなさい’、とたしなめられ。また懲りずに。今度は、バカ呼ばわり。理解できないおまえは程度が低いんだろ? と、なぶる言葉を連ねて受け手を萎縮さる。ディスプレイに向かう読者の脳裏では、アナタの言葉は、チラつかせている棍棒と変わりないが…。私の養育者も、言葉を棍棒と同じに使っていたが……。そんな風に言葉を用いて、後に苦いものは残らないか?)

『千載集』から『新古今集』への時代にかけて、つまり、藤原俊成・定家の時代になってはじめて‘自分たちの創作の与えられた前提として’、詩人たちは『古今集』以来の作品の堆積を受け取るようになった。

自分たちが用いようとする詩語が、数百年の使用を経て、日常的秩序の外に、種々の連想と雰囲気とを伴ない、同時に時代々々に愛玩された手擦れの跡を濃厚に残しながら、一つの詩的秩序を形成している場合、まずそのことが、詩人にとって絶大な負い目となり、抵抗となり、また拠り所ともなるものだ
(『古典と現代文学』,「隠者文学」)

散文と韻文とでは、事情は違うが。膨大な堆積が存在しているのは同じである。
明治・昭和・平成と、詩人・小説家・批評家の負うハンデ、山本の言う‘負い目’は大きくなる一方だ。平成の人間が力量上位とは限らないのに……。

しかし、先行作品が‘絶大な負い目となり、抵抗となり、また拠り所ともなる’という厳しい事態を回避し続けて、偶然のような成功を期待するか?
商品として消費されてお終いといった作品のレベルを、超えられる作品がそんなに出て来るだろうか?


○○賞受賞のインタビューなどで、作家の口から、新戯作派の作家達の名前が出るのは、よくあることだ。
しかも、その新戯作派に‘負い目’や‘抵抗’を感じているとは、外目には感じられないことも……。
新戯作派は膨大な堆積のなかでは一つの点に過ぎないが、一点主義でも‘負い目’が無いよりマシだ。
太宰なり安吾なりの全集を読み尽くして、再読、再々読しつつ、自分を打ち出していくのならば。
太宰でも安吾でも、再読すればその度に、ますます重くなるはずである。
重い先行者達を重いと認め、その壁を叩き続けていると、詩も小説も、批評を内に含むようになってくる。
そういう批評の味を知ってしまった読者が、自覚が不足している様に見える現行作家の作品に、ちやほや言わないのは、当たり前の話ではないか?

読者を批評するなんて勘違い、私は許容できません。
アナタ、『伊藤整全集』読んだ?
読んだら、理解されない理由を受け手に押っ被せて暴言を並べるなんて、できなくなりますよ。

私らそんなバカじゃないしwww
ナメないで下さい。私らの審美眼を。


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[2012/04/24 19:00] | 古典と現代文学
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しげちゃん
凄く参考になることばかり・・。
ありがとうございます。

Re: しげちゃんさんへ
小谷予志銘
口をひらけば 嫉みあり 筆を握れば 譏りあり
友を諌めて 泣かせても 猶(なお)ゆくべきや 絞首台

という与謝野鉄幹の言葉が、今、頭の中をぐるぐる回っております。

ブログの緩やかな繋がりが、連歌・俳諧の付合(つけあい)の様になると、面白いですね。


二次元も悪くないけど・・・
ふじょ
二次元も悪くはないんだけど・・・
やっぱ、三次元っしょ

Re: 二次元も悪くないけど・・・
小谷予志銘
ふじょさんへ

二次元は本やブログ、三次元は私らが呼吸しているこの空間、といった意味でしょうか?

三次元を変えるための二次元ですが、二次元が三次元を危うくする様な関わり方をするのは、舵取りが誤っているんでしょうね。

人を批判する事のしんどさ故、凹んでましたが、もう切り替えます。

コメント、ありがとうございました。



keneknkids
なにがあったかは存じませんが、もう大丈夫ならよかったです。

他人を批判することでしか自分を表現できないというか、
そもそもそれでは独立した自己を成し得ていないというか。
攻撃するほどにその内は空洞であるのでしょう。
なにかで満たすには幸福は最もハードルが高く、
感謝の気持ちなくしては得難いものですから、
それ以外となると、、、黒いほうへと落ちていくほうが楽ですからね。

よくは解りませんけども、かまってちゃん・・なだけなのでは?www



Re: 神聖かまってちゃん
小谷予志銘
kenkenkidsさんへ

かまってちゃん…。("▽"*) 。ひょっとして……。
「神聖かまってちゃん」というバンドの「友だちを殺してまで」という歌がありますが…。

‘黒いほう’へ…。私も、そこそこ許容できるつもりですが。
若い頃の遠藤なんて、真っ黒ですよね。真っ黒な「フォンスの井戸」に惹かれます。
遠藤は、サド侯爵、ユイスマンスの『彼方』まで読んでる。
初期の遠藤が、そういう黒いものを、批評のフィルターを通すことで芸術にしているから、むしろ魅惑されるんですね。
黒いもの。批評を通さなかったら、暴力以外の何物でもない。無芸です。

私の育った家は、黒い家でした。自分が理解されないのは相手の器が小さいから、という同類の言葉を、何十年も聞かされてましたから。
大人の粗暴な「かまってちゃん」から、子供がオバサンになってやっと自由になった。ここ一年ほどです。
でも、潜在的に脅威は続いていて、私は、悪くすると今後10年20年、故郷の地は踏めないです。
そこに、例の毒々しい、かつて聞かされていた言葉の群れ。アレルギー反応が起こりました。

今度の記事は、そういう個人的な事情を抑制していたことで溜まっていたストレスが、はみ出した訳です。黒い家について、自由に書いたら良いと言ってくれる読者もいるんですけど。

だから今後は、少しだけ、黒い家について書くかもしれません。
軍隊や銃後がキレイなものではないことも含めて。
その黒い家では、海軍・陸軍あわせて、三人も戦死しています。私の祖父と祖父の兄弟。
あくまで、ダムを決壊させない放水の範囲で。私は露悪趣味を憎みますから、努めてフィルタリングしますが。

暴言とは、センチメンタルな態度やノスタルジーと別物だけど、親戚関係にある。
それが見えてきたのは収穫でした。


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コメント:
この記事へのコメント:
凄く参考になることばかり・・。
ありがとうございます。
2012/04/25(Wed) 18:31 | URL  | しげちゃん #-[ 編集]
Re: しげちゃんさんへ
口をひらけば 嫉みあり 筆を握れば 譏りあり
友を諌めて 泣かせても 猶(なお)ゆくべきや 絞首台

という与謝野鉄幹の言葉が、今、頭の中をぐるぐる回っております。

ブログの緩やかな繋がりが、連歌・俳諧の付合(つけあい)の様になると、面白いですね。
2012/04/25(Wed) 19:29 | URL  | 小谷予志銘 #-[ 編集]
二次元も悪くないけど・・・
二次元も悪くはないんだけど・・・
やっぱ、三次元っしょ
2012/04/26(Thu) 09:23 | URL  | ふじょ #-[ 編集]
Re: 二次元も悪くないけど・・・
ふじょさんへ

二次元は本やブログ、三次元は私らが呼吸しているこの空間、といった意味でしょうか?

三次元を変えるための二次元ですが、二次元が三次元を危うくする様な関わり方をするのは、舵取りが誤っているんでしょうね。

人を批判する事のしんどさ故、凹んでましたが、もう切り替えます。

コメント、ありがとうございました。
2012/04/26(Thu) 09:38 | URL  | 小谷予志銘 #-[ 編集]
なにがあったかは存じませんが、もう大丈夫ならよかったです。

他人を批判することでしか自分を表現できないというか、
そもそもそれでは独立した自己を成し得ていないというか。
攻撃するほどにその内は空洞であるのでしょう。
なにかで満たすには幸福は最もハードルが高く、
感謝の気持ちなくしては得難いものですから、
それ以外となると、、、黒いほうへと落ちていくほうが楽ですからね。

よくは解りませんけども、かまってちゃん・・なだけなのでは?www

2012/04/26(Thu) 18:00 | URL  | keneknkids #mQop/nM.[ 編集]
Re: 神聖かまってちゃん
kenkenkidsさんへ

かまってちゃん…。("▽"*) 。ひょっとして……。
「神聖かまってちゃん」というバンドの「友だちを殺してまで」という歌がありますが…。

‘黒いほう’へ…。私も、そこそこ許容できるつもりですが。
若い頃の遠藤なんて、真っ黒ですよね。真っ黒な「フォンスの井戸」に惹かれます。
遠藤は、サド侯爵、ユイスマンスの『彼方』まで読んでる。
初期の遠藤が、そういう黒いものを、批評のフィルターを通すことで芸術にしているから、むしろ魅惑されるんですね。
黒いもの。批評を通さなかったら、暴力以外の何物でもない。無芸です。

私の育った家は、黒い家でした。自分が理解されないのは相手の器が小さいから、という同類の言葉を、何十年も聞かされてましたから。
大人の粗暴な「かまってちゃん」から、子供がオバサンになってやっと自由になった。ここ一年ほどです。
でも、潜在的に脅威は続いていて、私は、悪くすると今後10年20年、故郷の地は踏めないです。
そこに、例の毒々しい、かつて聞かされていた言葉の群れ。アレルギー反応が起こりました。

今度の記事は、そういう個人的な事情を抑制していたことで溜まっていたストレスが、はみ出した訳です。黒い家について、自由に書いたら良いと言ってくれる読者もいるんですけど。

だから今後は、少しだけ、黒い家について書くかもしれません。
軍隊や銃後がキレイなものではないことも含めて。
その黒い家では、海軍・陸軍あわせて、三人も戦死しています。私の祖父と祖父の兄弟。
あくまで、ダムを決壊させない放水の範囲で。私は露悪趣味を憎みますから、努めてフィルタリングしますが。

暴言とは、センチメンタルな態度やノスタルジーと別物だけど、親戚関係にある。
それが見えてきたのは収穫でした。
2012/04/27(Fri) 11:29 | URL  | 小谷予志銘 #-[ 編集]
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2012/04/27(Fri) 19:49 |   |  #[ 編集]
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2012/04/28(Sat) 08:53 |   |  #[ 編集]
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