アンチ-ロマンチシズムと文学との幸福な共存を謀ります。当面、「炭鉱のカナリア」になる決意をしました。第二次安倍政権の発足以来、国民は墨を塗られるだろうと予測していましたが、嫌な予感が現実になりつつあります。日本人の心性や「日本国憲法」の問題などを取り上げながら、自分の明日は自分で決めることの大切さを、訴えていきたいと思います。
『詩の自覚の歴史』は、山本健吉が59歳の時に連載を開始し、13年かけて書き上げられた。
持続、ということは偉大だと熟々思う。

山本のこの大著に触発されて記事を書くのは、今回で7回目。
取りあげることができた内容は極々わずかであるが、締めくくりとして、『万葉集』の編纂にかかわったとされる大伴家持について、触れておきたい。

詩の自覚の歴史付箋

たまきはる寿(いのち)は知らず松が枝(え)を結ぶ情(こころ)は長くとぞ念(おも)ふ
(『万葉集』巻六・1043)

この歌は、歌に添えられた詞書からみて、新春の宴で詠まれたものである。
大伴家持らは、安積皇子(あさかのみこ)の宮殿があった活道(いくぢ)の岡に登り、一本の松の下に集って二次会を開いたのだろう。
そういう宴会では、あるじの寿への言祝ぎを、目にする風景に託して陳べるのが慣わしだった。
松の枝を結ぶことには、命の無事長久を祈る意味があるというから、家持は安積皇子の健康と長寿を願って、この歌を皇子に献上したのである。

安積皇子は聖武天皇の皇子だが、母の身分が高くないので立太子できなかった。光明皇后や外戚藤原氏の勢力を背景にして、皇后が生んだ阿部内親王が皇太子に決まっていた。
その女性皇太子を脅かす存在として、反藤原の諸氏は、安積皇子に期待を寄せていた。
大伴家持も、安積皇子を取り巻くグループの1人だったと考えられている。
しかし、皇子は身体が虚弱で、取り巻きたちの間には、皇子の健康への深い憂慮があった。

家持の歌に「たまきはる寿は知らず」と言ったのは、寿歌にはふさわしくない詞句である。人によっては不吉な印象をもたらすからである。それは命は不定だと言っているので、皇子の死を予見しているようにさえ思う。皇子はそれから一月後、後世の史家に仲麻呂の凶手が伸びたのではないかと思わせる、唐突の死に方で急死した。
(山本健吉『詩の自覚の歴史』,第二十章「鬱悒と悽凋と」)

あるじの寿をことほぐという‘公的動機’から作られる歌に、私的な感情がかぶさるということが、家持のこの歌では起こっている。
山本の『詩の自覚の歴史』が全体として目指しているのは、儀式や宴会といった‘群の世界’で詠まれる歌が、次第に、‘ひとりごころのかなしみの声を胎んでいくさま’(序章一「宴の歌」)を、明らかにすることだった。

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‘万葉の世界が最後に行き着いた到着地点’としての大伴家持について、家持の父である旅人や、旅人の従者達、叔母である坂上郎女からの影響など、山本が明らかにするところはどれも興味深い。
特に、大仏建立という国家目標を達成した後の、家持の倦怠感。
また、詩によらなければ発散できない悲しみを、司馬遷や屈原によって教えられるという、ブッキッシュな態度の近代性。
その一方にある、天皇の親衛隊長としての誇りに生きた、大伴家の嫡流、佐保大納言家の氏上(うじのかみ)としての、古い意識。

家持の古さ、古代は、「海行かば水漬く屍、山行かば草生す屍、大皇(おほきみ)の辺(へ)にこそ死なめ、顧(かへりみ)はせじ」という一節を含む長歌(巻十八・4094)に、あらわに見える。

家持由来の“軍歌”を聞かされて、子供だった私は悪夢にうなされたものだ。
詞・曲・朗々と斉唱した録音、すべて相俟って、あんな怖い歌が出来上がるとは、家持は夢にも思わなかったろう…。

家持の古代性と近代性について記事を書いていると、いつまでも『詩の自覚の歴史』から離れられない…。
私もそろそろ、次に行かないと……。


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[2012/09/01 06:00] | 古典と現代文学
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