アンチ-ロマンチシズムと文学との幸福な共存を謀ります。当面、「炭鉱のカナリア」になる決意をしました。第二次安倍政権の発足以来、国民は墨を塗られるだろうと予測していましたが、嫌な予感が現実になりつつあります。日本人の心性や「日本国憲法」の問題などを取り上げながら、自分の明日は自分で決めることの大切さを、訴えていきたいと思います。
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

昭和18年(1943年)、堀辰雄は、『大和路・信濃路』と題した連作を『婦人公論』に掲載した。
『花あしび』(昭和21年3月、青磁社)とは、そのうちの「十月」・「古墳」・「浄瑠璃寺の春」・「死者の書」に、昭和19年発表の「樹下」を加えて一冊にしたものである。

現在『花あしび』は、比較的高価な限定再生本という形でしか販売されていない。
が、新潮文庫の『大和路・信濃路』で読むなら、新品でも452円だ。青空文庫でも、堀辰雄はかなり充実している。

堀辰雄は、昭和14年から数回にわたり奈良を旅行している。連作はその記録である。
堀は海龍王寺の前に立ち、廃墟の美を見出したりする。(昨今の廃墟ブームの先駆けか。)
この多分に感傷的な一連の文章に、現代の日本人は、豊かな蓄積をみるか、それとも妖しい衰弱をみるか?

馬酔木+白_convert_20120207142155

遠藤周作の『花あしび』論(『堀辰雄覚書』)では、堀辰雄の‘汎神的’傾向について、表現を変えながら同じ様な説明が繰り返される。
ちなみに、‘汎’という字が“あまねく”という意味をもっていることから分かるように、汎神論とは“万物に神性が宿る”とする立場である。
その定義は、遠藤流に言えば次の如くである。

神的なものを人間的なものを基体として、その人間的なものの純化、拡大したものと考え、神的なものと人間的なものの間に如何なる存在の超絶(transcendance)も認めない

汎神世界は神的なるものは人間的なるものの拡大延長である故に、人間的なるものは神的なるものに、直接的に吸収されることを願い、何らの反抗も異質的なものの克服のための戦いもない。汎神論者は自己と存在同質的な神的なるものに反抗する必要をみとめない。
[『堀辰雄覚書』,花あしび論(汎神の世界)]

一神教と多神教の違いを説明するのは、案外難しい。
この両者に、さらに‘汎神論’(これは自ずと多神的状態になる)が絡んでくると……。もう、3者がどういう関係になっているのやら、色々資料を読んでもスッキリしない。
敵前逃亡してしまいたくなる。

馬酔木ピンク_小

しかし、遠藤がウルサく繰りかえす説明を読むうちに、ああそうか、神の数が1か多かという点に拘泥する以前に、着眼すべきは、神と人間との間に‘超絶’があるか否かなのだと、気付かされた。(さすがカトリック作家!)

で、その‘超絶(transcendance)’とは? 平たく言えるか?

人間は、“自然的存在”である。物理学で説明できる時間・空間の縛りの中に在る、という事。
これに対しキリスト教などの神は、物理的時間・空間を元々‘超絶’した存在、“超自然的存在”である。
それゆえ一神教では、人間と神の間には、決して超えられない断絶がある、とする。

一方の汎神論的宗教では、人間が‘純化・拡大’すれば神になれるとし、神もまた、自然的であり人間的である。
仏教で、人間は修行を積めば菩薩になり、ひいては仏になれると説くわけである。

だから、世間でよく言われ本のタイトル等にもなっている、“一神教と多神教”というのは、見た目の印象ほどに対義語ではない。
‘一神教’の対義語は“汎神論(的宗教)”である。


こう考えると、一神教・多神教・汎神論の3者の関係を把握しやすいだろう。

‘汎神論’だと、人間的なものが次々と神になり、世界は神仏だらけとなる。
仏教では、釈迦如来・大日如来・薬師如来、などと様々な仏が出現し、神道の八百万の神もまします。結果として多神教となる
‘一神教’だと、物理的時間・空間を‘超絶’した神様に、バリエーションは生じない。時間・空間という人間の感性を超えた神様は、人間の観念でとらえがたい。人間がとらえられないものに、どうやってバリエーションをつけるのか? つけようがないから、結果として神は一つである。

どさんこ君と3kids

なんだか、堀辰雄の『花あしび』はどこに行ったのか? という感じだが…。
今日はもう少し、遠藤がなぜ‘汎神論’に目くじらを立てるのか、考えておきたい。


日本人の一般的な宗教感覚では、神仏と人間との間に‘超絶’がない。だから、多くの日本人は心地よく神仏と融和し、神仏に食ってかかったりしないだろう。
堀の『花あしび』には、幸福そうな例が色々あるので、一つ引用しよう。

 月光菩薩像。そのまえにじっと立っていると、いましがたまで木の葉のように散らばっていたさまざまな思念ごとそっくり、その白みがかった光の中に吸いこまれてゆくような気もちがせられてくる。何んという慈しみの深さ。だが、この目をほそめて合掌をしている無心そうな菩薩の像には、どこか一抹の哀愁のようなものが漂っており、それがこんなにも素直にわれわれを此の像に親しませるのだという気のするのは、僕だけの感じであろうか。……
(「十月」,三月堂の金堂にて)

何とも幸せそうだ。これでいいじゃないか、神仏に食ってかからなくても、と思ったりする。
『堀辰雄覚書』を読んでいると、カトリックというのは強くないと続けられないのだ、と感じる。
延々、神とのバトルを続けるには、気力体力が要る。

それにしても……。疲労困憊しながら神に反抗するメリットとは何なのか???(なぜ、反抗したほうが良いと、遠藤は考えるのか?)

(ーー;).。oO (今回の記事、何時にも増してコムズカシイ!)

遠藤は、汎神的態度に‘異質的なものの克服のための戦い’が無いと言っている(上の「花あしび論」の引用)。
そういう事をひっくるめて、考えると…。
絶対的な超越者に反抗することは、“普遍的概念”の形成をうながす、強力な契機なのだろう。
神に盾突くほどの大きなエネルギーが、答を呼ぶのだ。


この世界は何故あるのか?
人間は何故いるのか?
人間はどう生きるべきか?
この社会はどうあるべきか?

こういう普遍的な問題に対するビジョンは、“形而下”の議論(例えば物理学など)をやっていても出てこない。
いわゆる“形而上”的議論において、日本人は総体として、鍛えられていない。揉まれてこなかったのだ。月光菩薩にスーッと癒やされてしまう人々だから。


国会議員たちがビジョンを持っていない事を、我々は嘆く。
しかし、絶対神に「なぜなんだ!!!」と激しく食ってかかる事がマレだった国民から、急にビジョンが出てくるだろうか?
遠藤が言いたかったのは、きっと、そういう事だろう。

スポンサーサイト

[2012/03/01 06:30] | 遠藤周作の文学
トラックバック:(0) |
コメント:
この記事へのコメント:
コメント:を投稿
URL:

パスワード:
非公開コメント: 管理者にだけ表示を許可
 
トラックバック:
この記事のトラックバック URL
この記事へのトラックバック:
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。