アンチ-ロマンチシズムと文学との幸福な共存を謀ります。当面、「炭鉱のカナリア」になる決意をしました。第二次安倍政権の発足以来、国民は墨を塗られるだろうと予測していましたが、嫌な予感が現実になりつつあります。日本人の心性や「日本国憲法」の問題などを取り上げながら、自分の明日は自分で決めることの大切さを、訴えていきたいと思います。
“自分探し”とは、いつ頃からなされてきたのだろう?

「――いま事務所でおれにあてがわれている仕事なんぞは此のおれでなくったって出来る。そんな誰にだって出来そうな仕事を除いたら、おれの生活に一体何が残る? おれは自分が心からしたいと思った事をこれまでに何ひとつしたか? おれは何度今までにだって、いまの勤めを止め、何か独立の仕事をしたいと思ってそれを云い出しかけては、所長のいかにも自分を信頼しているような人の好さそうな笑顔を見ると、それもつい云いそびれて有耶無耶《うやむや》にしてしまったか分からない。そんな遠慮ばかりしていて一体おれはどうなる? おれはこんどの病気を口実に、しばらく又休暇を貰って、どこか旅にでも出て一人きりになって、自分が本気で求めているものは何か、おれはいま何にこんなに絶望しているのか、それを突き止めて来ることは出来ないものか? おれがこれまでに失ったと思っているものだって、おれは果してそれを本気で求めていたと云えるか? 菜穂子にしろ、早苗にしろ、それからいま去って行ったおよう達にしろ、……」
(「菜穂子」十六)

これは、太平洋戦争の開戦前に堀辰雄が書いたものである。「菜穂子」は、1941年3月の『中央公論』に掲載された。
平成の小説の文章だといっても不自然ではない程に現代的である。
私は、あれっ、(。_゜)、と思って堀辰雄の年譜を確認した。大戦後、堀は病気療養のため床に伏しがちで、代表作は、みな戦前戦中に書かれている。1953年没。
間違いない。

現代人が‘おれ’と同じような思いに襲われることは、珍しくなかろう。
誰にでも出来るような仕事をしている、取り替え可能な、スペアとしての自己…。今の自分は本来のあるべき姿を見失っているという感覚。
こうした感覚は元来、現代というより近代の産物なのだろう。
“実存(個別具体的で主体的存在)”は孤独・不安・絶望につきまとわれ、絶えざる自己超克を強いられている。という、西洋哲学の古くて新しい課題。


それにしても、近代化において大幅に後れを取った日本が、歪んだ悲劇的な道を進もうとしていた状況下。
そんな中で堀辰雄はすでに、物心両面で近代化を果たしていた訳だ。
一人の先駆者である。

上の述懐をしている‘おれ’の名は、都築明。
堀辰雄が立原道造(1914-1939)をモデルとして書いたといわれる作中人物で、黒川菜穂子の幼馴染みという設定である。

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しかし、都築明の“自分探し”の旅は、失敗に終わった。
理由は、遠藤周作が「実存の悲劇(都築明の旅)」で指摘するとおりだ。
明が‘暗黒に向って飛び立つ夕方の蝙蝠のように’、ただやみくもに‘生の衝動’に駆られて飛び出したからである。
(遠藤はこういう‘衝動’を‘悲しき決意性のヒロイズム’と呼んでいる。私は、ヒロイズムほど厄介なものは無いと思っている。

「おれはとうとう自分の求めているものが一体何であるのかすら分らない内に、何もかも失ってしまった見たいだ。そうして恰《あたか》も空っぽになった自分を見る事を怖れるかのように、暗黒に向って飛び立つ夕方の蝙蝠《こうもり》のように、とうとうこんな冬の旅に無我夢中になって飛び出して来てしまったおれは、一体何を此の旅であてにしていたのか? 今までの所では、おれは此の旅では只おれの永久に失ったものを確かめただけではないか。」
(「菜穂子」二十)

‘神を失える’人間、都築明は、どんな方向を選択すればよかったのか?
‘方向と目的’が分かれば誰も苦労しない。或いは、これも身の丈と、目的を小さいところで区切ってしまえるならば…。
小さくまとまるにしても、何が良くて何が悪いかは見極めねば…、まとめようがないではないか。
神も仏も失った私だが。遠藤周作の次の主張には、甘く苦く、胸に染み込んでくるものがある。


悪とは何であるか。聖トマスの形而上学に依れば善は存在の完成に他ならない。樹が成熟し花を咲かせ、果実を結ぶ事、即ち樹そのものの「存在を完成さす」事は樹にとって善である。花にとって善とは何であるか。それはその花にとって最も美しい色と馨りとを果し群がる蜜蜂に蜜を与え果実を結び媒介と職能を終え少女を楽します事である。個々の存在物のその固有の存在フォルムを完成さすことが善である。
(「実存の悲劇(都築明の旅)」,『堀辰雄覚書』)

しかし、しかしですよ。
人間は、樹や花のように単純ではないでしょう? 遠藤先生……。
人間の‘固有の存在フォルム’とは、何なのでしょう? どこまで行けば完成するのでしょうか? 先生。

どさんこ君斜め後ろ

仕事もして、結婚もして、母親にもなって、国会議員になっても金メダル取って、とか……。
そのどこまでが‘固有の存在フォルム’でしょうか?
トマス・アクィナス。中世の神学者ですか……。
近代の病を癒やすためには、やはり先祖返りですか?

悪とは従って、聖トマスに依れば存在者の存在の欠如、存在の下降、フォルムの不毛を意味する。一切の存在をして欠如と下降と不毛に至らしめるものは悪である。従って善とは如何なる社会的契約や人間の日常的契約によっても計られず「存在」そのものによって計られる。
(「実存の悲劇(都築明の旅)」,『堀辰雄覚書』)

‘固有の存在フォルム’の完成を邪魔する連中。沢山おります。
‘欠如と下降と不毛に至らしめる’ために、躍起になっているニセモノの仏教とか。
こういう連中へのウラミは、腹の奥に結石のように、現に在って。どうしようもなく在るのです。どうしようもなく在る、ということは、それは“真実”なのでしょう。

中世の神学者の言葉は、無意識の裡に追いやった“真実”を呼び覚ますだけの力を持っております。
この善と悪についての言葉は、何処かとても暖かい……。

どさんこ君ポーズ

私は、遠藤の次の言葉を支えに、ぼちぼち勉強を続けていこう。‘人間の条件’とは……。

都築明は美と真とを混同する。それはまた堀辰雄氏の欠陥である。この似而非(えせ)プラトニズムの影響は、堀氏が一つの思想家として僕たちの前にあらわれる時、僕たちが考察せねばならぬ事であろう。今日若い僕たち世代にとって、実存者の生に対する無償の犠牲、かなしくも美しい詩人の悲劇性ほど魅力あるものはないであろう。然しそれを乗りこえる為には、まさしく存在者をして存在の条件に則せしめる思考が必要なのである。
(「実存の悲劇(都築明の旅)」,『堀辰雄覚書』)

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[2012/02/16 17:25] | 遠藤周作の文学
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