アンチ-ロマンチシズムと文学との幸福な共存を謀ります。当面、「炭鉱のカナリア」になる決意をしました。第二次安倍政権の発足以来、国民は墨を塗られるだろうと予測していましたが、嫌な予感が現実になりつつあります。日本人の心性や「日本国憲法」の問題などを取り上げながら、自分の明日は自分で決めることの大切さを、訴えていきたいと思います。
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『風立ちぬ』(1938年)の‘私’は、節子を亡くして一人、3年半ぶりに雪に埋もれた‘K…村’を訪れた。そして、その村からすこし北へはいった谷にある小屋を借りて、やもめ暮らしを始める。
‘私’は、節子とよく絵を描きにいった一本の白樺の立った原へも行って見て、その木に懐しそうに手をかけてみたりするが、結局、満たされない思いで小屋に帰ってくる。

 そうしてはあはあと息を切らしながら、思わずヴェランダの床板に腰を下ろしていると、そのとき不意とそんなむしゃくしゃした私に寄り添ってくるお前が感じられた。が、私はそれにも知らん顔をして、ぼんやりと頬杖をついていた。その癖、そういうお前をこれまでになく生き生きと――まるでお前の手が私の肩にさわっていはしまいかと思われる位、生き生きと感じながら……
(『風立ちぬ』第5章「死のかげの谷」)

これじゃあ、トカゲの尻尾ではないか……。

これだから堀辰雄は苦手だったのだ…、と私は、‘昭和六十二年九月十日九十刷’とある新潮文庫の奥付を見た。
90刷……。古典的名著である。本歌取りされるほどの。

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逝ってしまった人間を、生者の如く感じ取るという行為。
堀の‘私’と同じ境涯に立たされたら、私はこう冷淡でいられるかどうか、断言出来ないけれど。
何事もなかったかのように、死者が此岸によみがえる。
切れたトカゲの尻尾が生え、プラナリアの頭が生える。
なんとも羨ましい壊れにくいものたち。
しかし、何事もなかったかのようには出来ない事があるハズだ。
死者を弔う理由の一つ。残った者の人間性を守るために、きちんと弔いをするのであろう。

堀辰雄の美とは、遠巻きに見る者に、羨望と嫌悪の混じった溜め息をつかせるような美だ。
デパ地下でひと玉が一万円を超えるような、マスクメロン。しかも完熟の…。

あぶないなあ! と食傷しそうだった私は、小説の最後から4ページ目に入った所で気を取り直した。やはり、25年も前に90刷に達しているだけのことはあるか?

小説の最後あたり、堀辰雄の‘私’は、‘背後に確かに自分のではない、もう一つの足音がするような’気がしながら、雪の深い林を抜けて行く。節子の足音…。

 私はそれを一度も振り向こうとはしないで、ずんずん林を下りて行った。そうして私は何か胸をしめつけられるような気持になりながら、きのう読み畢《お》えたリルケの「レクイエム」の最後の数行が自分の口を衝いて出るがままに任せていた。

  帰っていらっしゃるな。そうしてもしお前に我慢できたら、
  死者達の間に死んでお出《いで》。死者にもたんと仕事はある。
(『風立ちぬ』第5章「死のかげの谷」)

これは、おそらく正しい人間の言葉である。――節子よ、‘帰っていらっしゃるな。

函館ロープウェイ2_convert_20120209185848

キリスト教文学におけるリルケの位置は、今の私には判らない。
それこそ遠藤周作の足跡をチマチマと辿って行くしかない。
ただ、堀の‘私’が「レクイエム」によって目覚めた事から分かるように、『風立ちぬ』では、カトリックのモチーフが‘私’を危険な淵から救っている。
堀の‘私’がカトリックをどう思っているかは関係なく!!!


カトリックのモチーフとは。
小さなカトリック教会が‘私’の知らない間に村に建っていたこと。『詩篇』の文句。ドイツ人の神父と‘私’のやりとり。教会で見た喪服の婦人。それからリルケの「レクイエム」。村の娘の家でクリスマスを送ったこと。である。

このドイツ人神父は、‘私’を信者にしたいらしい。‘私’の小屋を訪ねてきたり、‘私’が教会に出向いたりする。日本語が十分理解出来ない神父との会話は、ちぐはぐになりがちだが、『風立ちぬ』の主題と交錯する、こんな会話もなされる。

そうして私達はいつか黙り合ったまま、熱過ぎるくらいの煖炉の傍で、窓硝子ごしに、小さな雲がちぎれちぎれになって飛ぶように過ぎる、風の強そうなしかし冬らしく明るい空を眺めていた。
「こんな美しい空は、こういう風のある寒い日でなければ見られませんですね」神父がいかにも何気なさそうに口をきいた。
「本当に、こういう風のある、寒い日でなければ……」と私は鸚鵡《おうむ》がえしに返事をしながら、神父のいま何気なく言ったその言葉だけは妙に私の心にも触れてくるのを感じていた……
(『風立ちぬ』第5章「死のかげの谷」)

やはり、‘風立ちぬ、いざ生きめやも。’である。
小説の結びの一文では、静寂にひたる‘私’の足もとに‘風の余り’がやって来る。

又、どうかするとそんな風の余りらしいものが、私の足もとでも二つ三つの落葉を他の落葉の上にさらさらと弱い音を立てながら移している……。
(『風立ちぬ』第5章「死のかげの谷」)

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遠藤周作が『風立ちぬ』第5章に‘汎神的方面の発芽を認める’というのは、根拠の薄いことである。
そのことを言うために遠藤は、『風立ちぬ』以外の作品に多く頼って、論を構築しているから。

また、遠藤が『堀辰雄覚書』で“死の微光”と呼んだ、‘幽かにぽつんと落ちている’小さな光。
前の記事で書いたように、それを私は、死者の領域と一線を画した此岸の光、世俗の光と読みたい。
【前の記事→→遠藤周作の『風立ちぬ』論-‘力みかえった弟’(その1)

小さな光のくだり。第5章「死のかげの谷」の本文を少し、追記に出しておきます。(青空文庫からのコピペw)


[追記]

 十二月二十四日
 夜、村の娘の家に招《よ》ばれて行って、寂しいクリスマスを送った。こんな冬は人けの絶えた山間の村だけれど、夏なんぞ外人達が沢山はいり込んでくるような土地柄ゆえ、普通の村人の家でもそんな真似事をして楽しむものと見える。
 九時頃、私はその村から雪明りのした谷陰をひとりで帰って来た。そうして最後の枯木林に差しかかりながら、私はふとその道傍に雪をかぶって一塊りに塊っている枯藪《かれやぶ》の上に、何処からともなく、小さな光が幽《かす》かにぽつんと落ちているのに気がついた。こんなところにこんな光が、どうして射しているのだろうと訝《いぶか》りながら、そのどっか別荘の散らばった狭い谷じゅうを見まわして見ると、明りのついているのは、たった一軒、確かに私の小屋らしいのが、ずっとその谷の上方に認められるきりだった。……「おれはまあ、あんな谷の上に一人っきりで住んでいるのだなあ」と私は思いながら、その谷をゆっくりと登り出した。「そうしてこれまでは、おれの小屋の明りがこんな下の方の林の中にまで射し込んでいようなどとはちっとも気がつかずに。御覧……」と私は自分自身に向って言うように、「ほら、あっちにもこっちにも、殆どこの谷じゅうを掩《おお》うように、雪の上に点々と小さな光の散らばっているのは、どれもみんなおれの小屋の明りなのだからな。……」
 漸《や》っとその小屋まで登りつめると、私はそのままヴェランダに立って、一体この小屋の明りは谷のどの位を明るませているのか、もう一度見て見ようとした。が、そうやって見ると、その明りは小屋のまわりにほんの僅かな光を投げているに過ぎなかった。そうしてその僅かな光も小屋を離れるにつれてだんだん幽かになりながら、谷間の雪明りとひとつになっていた。
「なあんだ、あれほどたんとに見えていた光が、此処で見ると、たったこれっきりなのか」と私はなんだか気の抜けたように一人ごちながら、それでもまだぼんやりとその明りの影を見つめているうちに、ふとこんな考えが浮んで来た。「――だが、この明りの影の工合なんか、まるでおれの人生にそっくりじゃあないか。おれは、おれの人生のまわりの明るさなんぞ、たったこれっ許《ばか》りだと思っているが、本当はこのおれの小屋の明りと同様に、おれの思っているよりかもっともっと沢山あるのだ。そうしてそいつ達がおれの意識なんぞ意識しないで、こうやって何気なくおれを生かして置いてくれているのかも知れないのだ……」
 そんな思いがけない考えが、私をいつまでもその雪明りのしている寒いヴェランダの上に立たせていた。

【十二月三十日の途中から『風立ちぬ』の最後まで】
 そんな事を考え続けているうちに、私はふと何か思い立ったように立ち上りながら、小屋のそとへ出て行った。そうしていつものようにヴェランダに立つと、丁度この谷と背中合せになっているかと思われるようなあたりでもって、風がしきりにざわめいているのが、非常に遠くからのように聞えて来る。それから私はそのままヴェランダに、恰《あたか》もそんな遠くでしている風の音をわざわざ聞きに出でもしたかのように、それに耳を傾けながら立ち続けていた。私の前方に横わっているこの谷のすべてのものは、最初のうちはただ雪明りにうっすらと明るんだまま一塊りになってしか見えずにいたが、そうやってしばらく私が見るともなく見ているうちに、それがだんだん目に慣れて来たのか、それとも私が知《し》らず識《し》らずに自分の記憶でもってそれを補い出していたのか、いつの間にか一つ一つの線や形を徐《おもむ》ろに浮き上がらせていた。それほど私にはその何もかもが親しくなっている、この人々の謂《い》うところの幸福の谷[#「幸福の谷」に傍点]――そう、なるほどこうやって住み慣れてしまえば、私だってそう人々と一しょになって呼んでも好いような気のする位だが、……此処だけは、谷の向う側はあんなにも風がざわめいているというのに、本当に静かだこと。まあ、ときおり私の小屋のすぐ裏の方で何かが小さな音を軋《き》しらせているようだけれど、あれは恐らくそんな遠くからやっと届いた風のために枯れ切った木の枝と枝とが触れ合っているのだろう。又、どうかするとそんな風の余りらしいものが、私の足もとでも二つ三つの落葉を他の落葉の上にさらさらと弱い音を立てながら移している……。

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[追記]

 十二月二十四日
 夜、村の娘の家に招《よ》ばれて行って、寂しいクリスマスを送った。こんな冬は人けの絶えた山間の村だけれど、夏なんぞ外人達が沢山はいり込んでくるような土地柄ゆえ、普通の村人の家でもそんな真似事をして楽しむものと見える。
 九時頃、私はその村から雪明りのした谷陰をひとりで帰って来た。そうして最後の枯木林に差しかかりながら、私はふとその道傍に雪をかぶって一塊りに塊っている枯藪《かれやぶ》の上に、何処からともなく、小さな光が幽《かす》かにぽつんと落ちているのに気がついた。こんなところにこんな光が、どうして射しているのだろうと訝《いぶか》りながら、そのどっか別荘の散らばった狭い谷じゅうを見まわして見ると、明りのついているのは、たった一軒、確かに私の小屋らしいのが、ずっとその谷の上方に認められるきりだった。……「おれはまあ、あんな谷の上に一人っきりで住んでいるのだなあ」と私は思いながら、その谷をゆっくりと登り出した。「そうしてこれまでは、おれの小屋の明りがこんな下の方の林の中にまで射し込んでいようなどとはちっとも気がつかずに。御覧……」と私は自分自身に向って言うように、「ほら、あっちにもこっちにも、殆どこの谷じゅうを掩《おお》うように、雪の上に点々と小さな光の散らばっているのは、どれもみんなおれの小屋の明りなのだからな。……」
 漸《や》っとその小屋まで登りつめると、私はそのままヴェランダに立って、一体この小屋の明りは谷のどの位を明るませているのか、もう一度見て見ようとした。が、そうやって見ると、その明りは小屋のまわりにほんの僅かな光を投げているに過ぎなかった。そうしてその僅かな光も小屋を離れるにつれてだんだん幽かになりながら、谷間の雪明りとひとつになっていた。
「なあんだ、あれほどたんとに見えていた光が、此処で見ると、たったこれっきりなのか」と私はなんだか気の抜けたように一人ごちながら、それでもまだぼんやりとその明りの影を見つめているうちに、ふとこんな考えが浮んで来た。「――だが、この明りの影の工合なんか、まるでおれの人生にそっくりじゃあないか。おれは、おれの人生のまわりの明るさなんぞ、たったこれっ許《ばか》りだと思っているが、本当はこのおれの小屋の明りと同様に、おれの思っているよりかもっともっと沢山あるのだ。そうしてそいつ達がおれの意識なんぞ意識しないで、こうやって何気なくおれを生かして置いてくれているのかも知れないのだ……」
 そんな思いがけない考えが、私をいつまでもその雪明りのしている寒いヴェランダの上に立たせていた。

【十二月三十日の途中から『風立ちぬ』の最後まで】
 そんな事を考え続けているうちに、私はふと何か思い立ったように立ち上りながら、小屋のそとへ出て行った。そうしていつものようにヴェランダに立つと、丁度この谷と背中合せになっているかと思われるようなあたりでもって、風がしきりにざわめいているのが、非常に遠くからのように聞えて来る。それから私はそのままヴェランダに、恰《あたか》もそんな遠くでしている風の音をわざわざ聞きに出でもしたかのように、それに耳を傾けながら立ち続けていた。私の前方に横わっているこの谷のすべてのものは、最初のうちはただ雪明りにうっすらと明るんだまま一塊りになってしか見えずにいたが、そうやってしばらく私が見るともなく見ているうちに、それがだんだん目に慣れて来たのか、それとも私が知《し》らず識《し》らずに自分の記憶でもってそれを補い出していたのか、いつの間にか一つ一つの線や形を徐《おもむ》ろに浮き上がらせていた。それほど私にはその何もかもが親しくなっている、この人々の謂《い》うところの幸福の谷[#「幸福の谷」に傍点]――そう、なるほどこうやって住み慣れてしまえば、私だってそう人々と一しょになって呼んでも好いような気のする位だが、……此処だけは、谷の向う側はあんなにも風がざわめいているというのに、本当に静かだこと。まあ、ときおり私の小屋のすぐ裏の方で何かが小さな音を軋《き》しらせているようだけれど、あれは恐らくそんな遠くからやっと届いた風のために枯れ切った木の枝と枝とが触れ合っているのだろう。又、どうかするとそんな風の余りらしいものが、私の足もとでも二つ三つの落葉を他の落葉の上にさらさらと弱い音を立てながら移している……。

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[2012/02/10 19:09] | 遠藤周作の文学
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