アンチ-ロマンチシズムと文学との幸福な共存を謀ります。当面、「炭鉱のカナリア」になる決意をしました。第二次安倍政権の発足以来、国民は墨を塗られるだろうと予測していましたが、嫌な予感が現実になりつつあります。日本人の心性や「日本国憲法」の問題などを取り上げながら、自分の明日は自分で決めることの大切さを、訴えていきたいと思います。
小林多喜二「無題」の電子テキストです。

題名の付されてないノート稿です。『小林多喜二全集』の「解題」によると、1926年(昭和元年)6月10日の日記に、「『ジュードとアリョーシャ』のホヾ大体の骨組だけを書いた。」と記されています。
稿末に、「あゝ苦しかった。」との記入があります。

単行本で6ページちょっとの長さになると、電子書籍にした方が読みやすいようなので、これらのテキストをまとめて「パブー」でも公開する予定です。(2月に予定)
【参照~前の記事】紫芋と「一太郎」のNewバージョン

底本は『小林多喜二全集』第5巻(新日本出版社,1992)
(原文に付された傍点は省略しました。くの字点は表示困難の為、「とうとう」という様に表記しました。)

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無題
小林多喜二

 ドストエフスキは必ずその作品に一人のアリョーシャ(カラマーゾフ)を作る。が、又きまって一人のジュードを主人公とせずにはいられないハアディがいる。(人生という被告に対してはジュードは検事であり、アリョーシャは弁護士である。)
 ――これだけのことが、ある日の感想として、自分のノートの端にかきつけてある。
 自分は世界の文学のなかで、ドストエフスキーのもの位「明るい」ものはない、と思っている。あまりに無条件に明る過ぎる。自分はだからドストのものを随分浅薄だとさえ思って、一向感服していない。(然しカラマーゾフ兄弟が完成されてあったら、問題は別だが。)そして、ハアディ位、その反対のものはないと思う。全く暗い――無条件に(これが重大)暗過ぎる。明るさがちっとも予定されていない。
 この現実に自分たちが沈潜して行って、何等わずらわされない眼をもってみれば、アリョーシャが「うそ」であると同様、ジュードは大嘘である。(自分たちは過大に評価された過去の偶像にしばられ勝ちだけれど。)アリョーシャはその傑作とされている小説「カラマーゾフの兄弟」を見れば、堂々と「生きて行けている」然し、アリョーシャが今この世にいた、として、三日生きてゆけたら、自分は首をやる、とでも云いたい。これは実感の根拠をもって云うのである。(実にその小説では、万事アリョーシャに都合よく出来ているから可愛い!)
 ジュ-ドと同じ、そっくり同じ事件を自分たちが、若し経験したとしても、自分たちは、決してあんなに惨めでは「断じて」ない。何故ハァーディはジュードがアハヽヽヽヽと心から笑えた日のことを省いたのだ。然し、若しジュードにそんな日がなかった、とでも云う人があったら自分はその人を軽蔑する。(実にその小説では、万事ジュードに都合わるく出来ているから愉快だ!)
 裁判所へ行ってみると、この事がよく分かる筈だ。

 人生に対するこの二つの態度――色眼鏡だ。眼鏡は実に奇麗にみがかれている。然し、片方の眼鏡はおかまいなしにどんなものでも「赤」に、他の一つは何がなんでも「青」にしか。然し自分は、この事を大きな欠点だとして論議しようとしているのではない。
 自分は二度ほどベエトオベンの第九シンフォニイをきいて、あの最後の歓喜はうそだと思った。「桜の園」「三人姉妹」「叔父ワーニャ」で、とうとうチェホフはうそをついてしまっている。若し多くの人がチェホフのこの三つのものを限りなく愛しているとすれば(愛しているのだ。実際多くの人はその最後のシーンを読んで涙をポロポロ出している。)自分はその人達を女学生位に浅薄だと思う。キリストは「神の国は近づけり」と云った。神の時間の単位はどの位か分らないが、そう云ってから、もう二千年になる。キリストもうそをついたのだ、自分はそう考えている。「資本主義は円熟すれば必然的に崩壊することによって、社会主義組織へ移ってゆく」とマルクスが云っている。然し、自分はこゝでマルクスという人は随分お目出度く出来ていると思った。何故って、とうとう「万国の労働者よ、団結せよ」と云っているではないか。
 現実な人生を考えるとき、自分達はそんなお目出度い要求を人生に対して持つ人々を軽蔑したくなる。然し、そう云って、自分はジュードの作者を尊敬する気持になれないことは、前者におとらない。(手際よく、書く位のことはヴァイオリンを稽古するのと同じで、四、五十年もやっていれば、皆相当になるのだ。)間違った「ゆがみ」で人生から、自分に都合のいゝような材料しか拾いあげないハアディなのだ。「頸飾」の作者モウパッサンも自分はそう考えている。勿論事実に於て、人生はたえざる循環小数である、四を三で割ってゆくと、永久に一、三三三……だ、然し人間は何時でもいつか四でも立つんではないか、と思ってゆくものだ。この気持! これさえハアディが知っていてくれたら。モウパッサンよ、「人生は本来として絶望的なものだ」かもしれない、然し、そこを生きてゆく人間自身にとって、そうとばかしは感じられないのだ。このことを知っていてくれたら! そして如何なる人も、御身達の小説の主人公のように惨めでないのだ。

(人の性は善か悪か。物の価値は主観によってか、客観によってか?……この事について絶えざる論議がされてきている。人はある一つのものを解決するのに必ず「白」と云わなければならない。そしたら他の一人は必ず「黒」と云わなければならない。然し誰かゞ「白と黒」と云ったら、その人は「妥協」したとか「折衷者」だとか云われる。経済価値論上のリカードとマルクス、そして「鉄の両刃」のマーシャル。学者は、真理を発見するために苦心する、と云うよりは、誰かゞ「白」と云ったから、自分はどうしても「黒」と云わなければならない、どうしたら、……とそれを考えるためのものなのだ。そうとしか考えられない。そしてこの事はジュードとアリョーシャにぴったり同じ型を見るのである。)

 人生が愉快ならざる存在であると見たことに於てはドストとハアディは同じであった(かも知れない。)然し、その次にはもう二人はまるっきり違っている。「だから……」(この「だから」は二様の重大な意味をもっている。)だから、そこに何物かを――よりよき存在を創造するためにアリョーシャをもって来なければならない、と考える。(そして又)だから、どうせこの世はどうにもならない、救のないものなのだ、ということを知らせるために、ジュードを作らなければならないと思う――この二つなのだ。「光と闇の文学」が生れる。ハアディがドストを見たら、「お目出度い奴だ!」と笑う。ドストがハアディを見たら、じっとその顔をみて、それから悲しそうに眉をひそめて、その前を立ち去るであろう。ハアディは利口者だ、そしてドストはどんなことをしでかすかも知れない「大馬鹿者」だ。

 然し、ジュウドとアリョーシャを頂点として、外の道を歩んだ人を自分は考えよう。自分は、長い長い受難の旅のあとで、こうつぶやいた一人の詩人を知っている。
 ――暗は何処から。
 ――光そのものから……でなければ私は分らない。
 ――それは、じゃ多分ほんの影であったのだ。影には光がつきものだから。しかし暗には光が必要でない。
 ――もうお止め、いつまで経ってもきりがない。
(ストリンドベルク)  
 そして、その詩人は道を「ダマスクスへ」選んだのだ。
「もうお止め、いつまで経っても切がない」。自分はその詩人の「山猫」のような額に始めて「あきらめ」の深い皺がよったのを見ることが出来るのである。

 が、更に、自分は「第九シンフォニー」の第四楽章の初めの、あの荘重にひゞくコントラバスの如く、イヤもっと強く、高くひゞく一つの言葉を知っている。
 ――幸福は不幸を必要とする。吾々が存在するのは影のお影です。吾々は絶対の幸福を夢みるような、馬鹿げた抽象事について夢見てはならない。(そして)、「人間はそれぞれ一つの全真理である」真理を有するという事は然し悲哀を変じない。悲哀は歓喜と同じく絶対である。(そして)、生の狂熱をのぞいて地獄もなく煉獄もない。
「地獄(インフェルノー)」の作者は、だから「光明(クラルテ)」の作者に当然なって行かなければならない。けれどもその前に、自分達は一人の辿った道をふりかえってみなければならないであろう。その社会改造家は社会のために働いた、然しそのために一人の不幸者も減らなかったことを見た。一人は一人の肩に足をかける。と他の一人はその一人の肩に足をかける。それで今度は絶望のふちに沈まんとしているたった一人の者を助けようとする。それも駄目。そしてその生涯の最後にその老社会改造家はこう考えている――
 凡ての賢い連中がやってくる。夢想者よ、と彼等は云う。夢想者に現実は分らない。論より証拠ではないか。
 信仰! 信仰は我等を救う。しかし何を信ずるのか。全能全智でありながら世界をこんな風に放任している支配者たる神をか。あゝ然し偉人は曾つて生きていた。彼が生きていたという事実は汝にとって一つの慰安にならないか。お前は刃と血と金銭と背信とをもっているユダの族のみを今まで見ていたのだ。
 ――勿論その偉人達は夢想家だった、しかし今日地上に常闇のないのは彼等の賜物だったのだ。
 ……(ポーヤー)

 自分はこの実人生に生活してゆく度に自身ジュウドであることを感ずる。それは、複雑な色彩のニュアンスから出来ている人生をジュウドという一色に思い切って塗りつぶしたものであるだけ自分達にはグザッとくる。けれども、自分達はきまって、その苦しさから、キットその心はひそかに(或いははっきりと)アリョーシャを望むのである。自分はこの心理的事実を知っている。こゝに流動してやまない人生の諸相が端的に示される。自分は、前に「夢想家」を侮辱した。それは、その夢想が冷然たる現実に対して浅薄だからの故であった。(且つて、自分はこんな事を本気になって考えたことがあった――世の中が始まって以来、如何に多くの小説なり、戯曲なりが出たが、然し、そうかと云って人殺しも、夫婦喧嘩も、互の憎悪も不信も詐欺も、絶望も一つとして減らないのはどうしたことか。とすれば人はなんで小説などを書くのだろう、何んのために作るのだろう。単なる表現欲求のためか、自分の名を知られるためにか、そんな為にか?)然し、人間がジュウドであるとき「本能的」にアリョーシャへ転化しようとする必然さを理解してみれば、この極めて人間的な心理的事実からして、その「夢想家」は始めて自分の胸にぴたりと是認されるのである。(それ以外ではない。ポーヤーが考えた如くに迄自分は思っていない。)だから、「テス」を書いて、又「ジュウド」を書いたハアディは人間を知らなかった、と云わねばならない。(けれどもジュウドが常に大学にあこがれていたことは興味ある問題を暗示している。)
 然し人が幸福になるにはどうすればいゝだろう、この事が考えられる、これだけが。(が、自分は未だにそれを知ることが出来ずに、こうした彷徨をやっているのである。)
(一九二六・六・一七)

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[2012/01/18 18:00] | 電子テキスト
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