アンチ-ロマンチシズムと文学との幸福な共存を謀ります。当面、「炭鉱のカナリア」になる決意をしました。第二次安倍政権の発足以来、国民は墨を塗られるだろうと予測していましたが、嫌な予感が現実になりつつあります。日本人の心性や「日本国憲法」の問題などを取り上げながら、自分の明日は自分で決めることの大切さを、訴えていきたいと思います。
小林多喜二「一九二八年三月十五日」(エッセイ)の電子テキストです。
単行本で4ページ程の短文です。

このエッセイとは別に、同じタイトルで、1928年(昭和3年)11月発行の中編小説があります。小説の方は、青空文庫で読めます。
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小説「一九二八年三月十五日」

初出は『若草』,1931年(昭和6年)9月号
底本は『小林多喜二全集』第5巻(新日本出版社,1992)
(原文に付された傍点は省略しました。くの字点は表示困難の為、「われわれ」という様に表記しました。)
(目印として、途中にカットを入れました。)

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一九二八年三月十五日
小林多喜二

 処女作というものが、どういう意味かよく分らないが、初めて書いたものと云えば、大抵の人は十五、六から何か書いている。然しある時に何か書き、それで「所謂」初めて認められた作品という意味なら――どうもそうらしいが――私の処女作というのは「一九二八年三月十五日」になるわけである。
 この作品は何度出版しても、いくら伏字にして出しても、この国では発禁になるので、あまり広く読まれていないのではないかと思う。(われわれは一日も早く、たッた一字の伏字もなくこうした本が読める日を来させるために働かなければならない)
 今、処女作を書いた頃を思い出せと云うのであるが、私はその頃のことを詳しく「東倶知安行」という小説の中に書いている。この作品はその芸術的価値は別として、私には忘れられない意義を持っている。それはたゞ単に「私自身」のことを書いているという理由からではなしに、当時の(一九二七――一九二八年頃)の日本のプロレタリア運動が通ってきた一つの面がその中に描かれているからである。日本に於ける最初の普選をモメントとして、勿論労働者農民が己れ自らの活動舞台へ登場してきたのではあるが、それにもまして、何処の国でもその運動の初期に最も著しくあらわれる急進的な知識階級のホウハイとした合流であった。その一端にふれているのだ。だから、成る程その作品は私自身のことを書いたのではあったが、その私自身のことを通して一つの歴史的事実を示しているという意味で、個人的な経験範囲を越えていると考えられる。
 この作品――一「東倶知安行」にも書いたように、その頃私は銀行の勤めが終ってから、毎日組合の方へ廻って選挙の仕事の手伝をやっていた。私にはそこで運動している色々な「タイプ」の人達――一例えば、角(かど)がなくて皆に好きがられている親分肌の委員長の源さん、鉄みたいに冷静な組織部の渡、情熱家で演説のうまい争議部のY、学校出だが、すっかり組合のものになりきっているZ、鳥打帽でやってくる小樽高商の社会科学研究会の連中、市内の若い新聞記者……工場からくるもの、港の積荷人夫の一人々々……それ等がすべて全く新しい「驚異」をもって迫ってきた。われわれはそう何時でも、個々の経験に対して「驚異」という言葉を使える打ち当り方をするものではない。――一謂わばこの刻まれた驚異とも云うべきものが処女作「一九二八年三月十五日」の中に出ているのだ。
 この作品が発表されたとき、沢山の批評家によって、当時の所謂目的意識的な概念的な傾向に対して「具体的な生きた人間を描いた」最初のプロレタリア的作品であるという風に云われたが、そういう事も必然に以上のようなところから来ているのではないかと思われる。
 あの時、普選が終ると、直後「三・一五」の弾圧がやってきた。今迄私には色々な意味から深い印象で刻みこまれていた人達が、何より私の手のとゞく直ぐ側からつぎつぎと引ッこ抜かれて行く。私はそれを自分の眼で見せつけられた。これはその衝撃の強さから云っても、私にとっては只事ではなかった。雪に埋もれた人口十五万に満たない北の国の小さい街から、二百人近くの労働者、学生、組合員が警察にくゝり込まれる。この街にとっても、それは又只事ではなかった。
 しかも、警察の中でそれらの同志に加えられている半植民地的な拷問が、如何に残忍極まるものであるか、その事細かな一つ一つを私は煮えくりかえる憎悪をもって知ることが出来た。私はその時何かの顕示をうけたように、一つの義務を感じた。この事こそ書かなければならない。書いて、彼奴等の前にたゝきつけ、あらゆる大衆を憤激にかり立てなければならないと思った。
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 私は勤めていたので、ものを書くと云ってもそんなに時間はなかった。何時でも紙片と鉛筆を持って歩いていて、朝仕事の始まる前とか、仕事が終って皆が支配人のところで追従笑いをしているときとか、又友達を待ち合せている時間などを使って、五行十行と書いていった。そうやって置いて、暇な時に書き集めた――「一九二八年三月十五日」は六月初めから書き出して、七月一杯かゝったように覚えている。枚数にして、百二三十枚だった。私は前に云ったような理由から、この作品を書くために二時間と続けて机に坐ったことは無かったようである。次に書いた「蟹工船」の場合でも、そういう仕事の仕方ではちっとも変っていなかった。
 この作品の後半になると、私は一字一句を書くのにウン、ウン声を出し、力を入れた。そこは警察内の場面だった。書き出してからスラスラ書けてくると、私はその比類(!)ない内容に対して上ッすべりするような気がし、そこで筆をおくことにした。(葛西善蔵もこれと似たことを云っていたようである)いよいよ出来上ったとき、私はこの作品には濫(みだ)りな題をつけてはならぬと考えた。そして「一九二八年三月十五日」とその題が決まったとき、私はこれは恥かしくない立派な題だと思った。――私がすべてこんな風に「思い上がった」云い方をするのに対して不愉快を感ずる人があるだろうと思うが、当時私は本当のことを云って、尊い血を流している同志達の、云おうとして云い得ずにいる憤怒を、たゞその代りになって書いているに過ぎない、従ってそれは私自身と雖も何か粗末にしてはならないものだと考えていたからである。今もその当時のそういう気持を、私はアリアリと思い出すことが、出来る。
「一九二八年三月十五日」が出来上った夜、私は一人で家にジッとしていることが出来なくなり、何にも知らない友だちを誘って、ビフテキとコーヒーをおごってやった。こういう気持はものを書いたことのない人には、或いは分らない気持かも知れない。理由を話してないので、友だちは分らない、くすぐったい顔をしていた。しばらくして、私は小説の出来たことを話した。
「いゝ題だ、それに大きな題だ」
 と、友だちは題をきくと云った。
 私は「いゝ小説だと云え」と云った。すると、友だちは「読んでも見ないのに無理だよ」と笑った。――私も笑いながら、
「この小説は日本の『一週間』だよ」
 と押しつけて云った。
 この頃日本で初めてリベジンスキーの『一週間』が読まれていた……。

 最後に――「一九二八年三月十五日」と云えば、私は直ちに、この作品を初めて認めてくれた蔵原惟人を思い出す。――私はこの優れた指導者が今も尚変ることのない健康と「健闘」を続けていてくれることを、たゞ願っている。
(一九三一・七・一七)


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[2012/01/06 06:30] | 電子テキスト
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