アンチ-ロマンチシズムと文学との幸福な共存を謀ります。当面、「炭鉱のカナリア」になる決意をしました。第二次安倍政権の発足以来、国民は墨を塗られるだろうと予測していましたが、嫌な予感が現実になりつつあります。日本人の心性や「日本国憲法」の問題などを取り上げながら、自分の明日は自分で決めることの大切さを、訴えていきたいと思います。
小林多喜二「下女と循環小数」の電子テキストです。
『新樹』,1926年(昭和元年)5月号に掲載
底本は『小林多喜二全集』第5巻(新日本出版社,1992)

家の中を掃除していて、この随筆のことを思い出しました。

また少し前、歯科に行けない大阪の子供達の事を、ニュース23が特集していました。富の再分配という事を真剣に考える必要があると感じました。(政治のポピュリズムに警戒しつつ。)
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  下女と循環小数
小林多喜二

「世界意識」という神聖な病気がある。
 彼はあるカフェーでビフテキーを食うとする。その瞬間、然し彼は寒空に飢えている人を思う。だから彼はそのビフテキーをソット側の塵箱に投げなければならない。彼は笑うと思う。然し笑えない多くの人の存在が、彼の顔を引きゆがめてしまう。彼は日向を歩いてゆく……しかし日の光を一日も見ず土の底にうごめいている多くのものを考える。彼は日陰を歩まなければならない。
 ――若しも人達がこの彼の態度を笑うか?
 ビフテキを塵箱に捨てるのをよして彼が食べたら、その佳美な味を味うた「幸福者」が世界に一人だけ殖えた筈だ。彼が若し笑ったら、世の中に心から笑えた人が一人だけ多くなったわけだ。そして彼が日の光の中を朗かに闊歩したら、それだけ世界が明るくされてあった筈だ。(これこそ彼が望んでいた事であったのだのに!)――そこで彼は嘲笑われるのか? 然し彼がこんな事を皆んな知っていたとしたら?(知っているのだ)
 四を三で割ると一、三三三……となる。この循環小数を人はいくら迄続けてゆく根気があるであろう。これを一生涯せっせとつゞけ得るものがあったら、その人こそ社会改造家であり得る人である。そしてその人はキット下女[注-下女に傍点(••)]を侮蔑しないであろう。何故なら下女は、今朝すっかり家の中を掃除しても、又次の朝掃除しなければならない事を知って居り、恐らく一生涯その事を「平気」で続けることをも理解しているからである。(自分はこのことをシーリヤスな気持で云うのだ。)

「資本主義的社会は一つの歴史過程である。だからこれが円熟すれば、それ自身が崩壊することに依って次の過程に入って行く」とマルクスが云った。そしてこれは人間の「意志」では如何ともすることが出来ない、と唯物史観の原理を押したてた。然し我可愛いマルクスは「共産党宣言」の最後でこう云った――「万国の労働者よ団結せよ!」だから可愛い。
 彼等にして栄光の日を信じ得る者は幸福である。而して栄光の日を信じ得ないものは利口である。「下女」「循環小数」……。

 腹が減った時にある事を感じる、腹が一杯の時にその同じことに対して或る事を感じる、この二つの感じの内容は同じものだろうか? 寝不足の朝のときの感ずる気持、寝足りた後で感ずる気持、これはどうだろう。――然し、と云ってプロレタリアが待ち望んでいた革命が来、社会組織の改変が行われると、彼等もブルジョワらしい気持に変って行くのではないか、と云う意味ではない。――然し考えて見たらどうだろう、第四階級の解放は何も彼等をブルジョワのレヴェルにまで高めるためのものでない、と云っている人達もいる事だから!

 然し人が幸福[注-幸福に傍点(◦◦)]になるにはどうすればいゝんだろう、この事が考えられる。これだけが!

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[2011/12/17 10:11] | 電子テキスト
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