アンチ-ロマンチシズムと文学との幸福な共存を謀ります。当面、「炭鉱のカナリア」になる決意をしました。第二次安倍政権の発足以来、国民は墨を塗られるだろうと予測していましたが、嫌な予感が現実になりつつあります。日本人の心性や「日本国憲法」の問題などを取り上げながら、自分の明日は自分で決めることの大切さを、訴えていきたいと思います。
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暫く、著作権の切れた作品を電子化して発信します。
小林多喜二の電子テキストです。単行本で3ページ半の短文です。横書き表示が残念です。
初出『北方文芸』(小樽商高文芸研究会,1929.6)
底本『小林多喜二全集』第5巻(新日本出版社,1992)
(原文に付された傍点は省略しました。)

気になっている方もいるかもしれませんが、私はマルクス主義者という訳ではありません。
『資本論』は読んだことがありません。従って、マルクスの理論に対し、何の価値判断もできません。
ただ、旧ソ連や現在の中国の様子など伝え聞く限りでは、やはり人間の欲求を国家が管理するのは無理だと思います。
一党独裁の中国より、右肩下がりでも日本の方がましかと思います。民主党を選挙で引きずり下ろすことも出来るのですから。

小林多喜二は‘良心’の体現者として、心ひかれるものがあります。この‘良心’に触れると、気持ちが少し前向きになります。

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 こう変っているのだ。
小林多喜二

 漠然と小説を書くことを「自己完成」のためだ、と考えたことがあった。啄木が自分の歌を、これは自分の「悲しき玩具」だと云ったことがあった。自分にとっては「小説は一日一訓」だと本気に思っていた。
 自分達は実際の生活では、とても大きな誤りを犯すし、かなりのルーズなことをする。然し、かりにそういう実際の経験を小説にするときは、そこでは、厳格な批判と自己苛責をやる。それは別な言葉で云えば、自己の経験の再経験であり、そしてその際に、批判された自己の再経験ということになり、そのことが、次の段階に進む自己の「一日一訓」になるというのである。――こういう風に考えた人は無いだろうか。
 然しこれはどうしたって、その根には「自己」「自己」があることは否めない。自己ということは非常に高く評価された時代の考え方として、これは当然である。絶対個人の自由――自由主義――自由競争――個人主義……皆一脈の関聯をもっている。そしてこれ等のイデオロギーは、その根幹に資本主義的な経済をもっているのである。
 芸術家は他の何物にも拘束されることのない、インスピレエションによって、自由に創作すべきである、とされていた。然し、この自由がどんなものであるか? 資本主義的生産の「無政府状態」が現わしている意味の、勝手さしか、即ち個人主義の自由さしか意味してはいない。だから、他の何物にも拘束されない自由なインスピレエションも結局するところ、資本主義的イデオロギーから自由であり得ないことだ。これは重要である。レーニンは、かゝる自由を非常にはっきり理解していた。

 世界が出来て、人間が一番先きに生じたとき、それが一人であって、それから二人、八人、百人と殖えて行ったのではなくて、一番最初に於て、例えば百人なら百人と存在したのだということは、既に科学者によって、異議なく承諾されている。
 人間は社会的存在としてでなく考えることは、それ自身あり得ないことである。――個人主義、自己完成の行きづまりが、どうしても来なければならないことは、分りきったことである。又、人間が最初から社会的存在である以上、絶対自由な個人のインスピレエションということも亦あり得なくなる。マルクスはフォイエルバッハ論綱の一節で、このことに、実に、実に適切に触れている。
 では、「一日一訓小説」は何処へ行くか。
 ナイーヴな行方がある。――「人類のため」が、それだ。
 我々は分った振りをする前に、どうしても一度よく考えてみることがいゝのだ。
「人類」とは何か。――社会の全員のことだろう。で、社会の全員とは何か。これだけでよく内容が分るだろうか。分らない。全員ということを解剖してみようではないか。色々な人間が、色々に組み合わさっている。では、どういうように組み合っているか。一つの組織によって組み合っている。その組織は? それは勿論社会の最も根本的な組織でなければならない。根本的な組織とは、では何か。社会の全員が生命を保持し、そして活動して行くもの、それなくしては、かゝることの不可能となるもの、それは生産組織だ。だが、これだけでは、まだ足りない。社会の全員がどういうように、その生産組織によって組み合わされているか。――搾取階級と被搾取階級と。では、この二つはどう異っているか。絶対に利害が一致することなく、相反しているということだ。――経済学的に、このことは説明さるべきだ。
 では、それを一色にひっくるめて「人類のため」なんて云うのは、如何に馬鹿々々しいナンセンスであるかということが、ハッキリするわけである。
 で、こゝで、我々の小説は二つに、必然に別れなければならない。――ブルジョワ文学とプロレタリア文学と。この二つに同時に役立つような文学など、金の草鞋をはいて、探がしたって、ありッこはないのだ。自分達は、このイロハをハッキリつかんで置かねばならない。
 我々は、だから、もう漠然と小説を書くことをやめよう。単に書きたいから書くことをやめよう。社会から切り離した個人の「自己完成」のための教訓もやめよう。いわんや、「人類のため」の誇大妄想もやめよう。それより我々は一体どの階級のために書くのだかということを考えよう。――昔の文学青年の型を、こゝでハッキリかなぐり捨てることにしないか。

 そういう意味で、――そういうように、芸術に対する考え方が変ってきたので、従って「文学青年」というものゝ内容も変ってきていることは分りきったことだ、と思う。
「文学青年」は二つに分れてしまった。ブルジョワ的とプロレタリア的と。且つては単に、社会関係から遊離した関係に於ける芸術だけのことを、いじくりまわすのが文学青年だったのが、このように経済的、政治的立場の上での芸術についてものを云うようになり、ものを「行う」ようになったのである。
 このことは「恐ろしい」程の変化であると思われる。
 この変化をハッキリもつかまず、社会の根底的な把握――経済的、政治的把握もせず、女学生が喜ぶだろう位の、この手際はどうだい位の、このモダン振りを見てくれい位の、それだけの理由で、小説を書くことを、然し自分は小説を書くことだとは思っていない。そんな薄弱な根拠しか求められない小説があるならば、犬に喰われろだ。社会は、生々とした社会的に価値ある内容を求めているのだ。――無雑作に、漠然と、興のおもむくまゝに書くことはやめよう、諸君!
 小説ってソンナものでないのだ。
 小説に「恐ろしき内容」を劇薬のように盛れ! 意識的に、計画的に、そして最後に、最も重大なことだが、
 マルクス主義的に!
(一九二九、六、九)
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[2011/12/09 17:19] | 電子テキスト
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