アンチ-ロマンチシズムと文学との幸福な共存を謀ります。当面、「炭鉱のカナリア」になる決意をしました。第二次安倍政権の発足以来、国民は墨を塗られるだろうと予測していましたが、嫌な予感が現実になりつつあります。日本人の心性や「日本国憲法」の問題などを取り上げながら、自分の明日は自分で決めることの大切さを、訴えていきたいと思います。
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これまで、ネットと言えば見ることが専門だった私が、この7月から文章をブログで発信し始めた。それと同時に、プラグインって何? 等といちいち右往左往する事になった。

気付くと、未だ読んでない新聞が、うず高く山になっている。ほぼ4ヶ月分…。
お正月を迎えるまでに、なんとか目を通して、資源回収に出してしまいたい。

ウチでは『朝日新聞』を購読している。といっても、『朝日』が特に良いと思っているわけではない。
『朝日新聞』どうかしてるよ! とムカツクこともある。
以前の記事にもチョコッと書いたが、『1Q84』book3 の書評など、私は激怒して『北海道新聞』に変えようかと思ったくらいである。
(それでも朝日を購読しているのは、記事の内容が悪いばかりでもないのと、本の広告が『道新』より多いからだ。)

今さら改めて言うまでもない、マスコミ不信。新聞社だって出版社だって、結局は資本だから。経営不振、倒産の危機の前では、何をするか分からない。『朝日』が‘不買運動’に遭って、戦争反対の主張を引っ込めたのは、歴史上の汚点だ。
大新聞にも、著名人のネームバリューに頼らざるを得ない、苦しい事情があるのだろう。
こんな事を書いていいのか? これは一般人に対する精神的暴力じゃないのか? と絶句するような内容でも、ノーベル賞作家が書いたものを突き返す事が出来ない。(具体的な事は書かない。これ以上、検索結果表示に追加がない方がいい。)

暴力という程の事ではないが、『1Q84』book3 の書評についても、マスメディアにある人達の感覚が疑われる。村上春樹と読者との間に、‘評論家’が割り込んできて、読む楽しみを台無しにする権利なんて、一体何によって保障されるのか?

ノーザンホースパーク3

春樹の長編は、多くの読者にとって待望の出来事である。もちろん評価は読み手によって様々だ。私など、『ノルウェイの森』や『海辺のカフカ』は、読むのに少し忍耐が要る。苦手だ。逆に、『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』は、再読でも、気付くと夜が明けている。
春樹の同時代、しかも同言語を生きて、新刊の長編小説を開くという希有な巡り合わせ。読者は、それを大切にしたい、と当たり前の事を願っているだけだ。

斎藤環には、相当数の苦情が寄せられた事だろう。かく言う私も、『朝日』にメールで抗議した。

新聞というのは、各購読者の手元に日々届けられるもので、わざわざ書店に出向いて、わざわざ開いて見る本や雑誌とは違うのだ。選択するまでもなく、何気なく開いて見る物である。購読者は、家の中で新聞を開くのにも警戒せねばならないのか、と。

その後も斎藤は、やはり『朝日』書評欄で“この国の読者は物語しか求めない”と、相も変わらず鈍感きわまりないことを書いている。(#`-_ゝ-)ピキ。
先日、古新聞の山にその発言を見つけて、私はイヤになってしまった。
そもそも‘物語’を求めて何が悪いのか?
‘ストーリーを追う読み方は、低級な読み方であり、日本には低級な読者が多い’と括ってしまう事で、‘評論家’は、自らの無能ぶりに蓋をしている。

書評で筋が露わになるのを避ける為なら、いくらでもやり方はある。
書評中に出てしまったストーリーラインを一度切断して、前後を組み替えるとか、曖昧にぼやかす語に置き換えるとか…。
そうすると、書評の主張自体は伝わりにくくなる。しかし、書評を読んでいる側は、話題の本の価値がどの辺りにあるかを前もって測りたいだけである。よく解らないが話題の本を読んでみよう、という気になって、読んでみて評者の言っていたことに合点がいく、というので十分ではないのか。


新聞を読んでいると、心穏やかではいられない事が多い。でも、情報源として新聞を無視できない。
こと永田町や霞ヶ関の事に限っては、‘素人’のブロガーがどんなに頑張っても、新聞記者に追いつけないだろう。原理的に無理だ。

雪と木_convert_20111202192847

マスメディアに腹が立つ一方で、最近‘素人’の発言に感心する事も多い。
数年前から、Amazonのカスタマーレビューの質の高さに気付き、本を買う時の参考にしている。
“以下、ネタバレ注意”などと、断り書きがあったりして、自分勝手な‘評論家’よりモラルがある。受容ぶりをみても、日本の読者層はかなり成熟しているぞ、と私は思う。

玉石混淆の膨大な情報がネット上にあふれていて、価値のあるものが見つけにくい、などと言われている。
でも、‘玉’が見落とされる例は昔から多く、校閲と編集を経たはずのマスメディアに‘石’がごろついている例も、沢山あるのだ。



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[2011/12/03 08:19] | 情報の発信・蓄積・管理
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