アンチ-ロマンチシズムと文学との幸福な共存を謀ります。当面、「炭鉱のカナリア」になる決意をしました。第二次安倍政権の発足以来、国民は墨を塗られるだろうと予測していましたが、嫌な予感が現実になりつつあります。日本人の心性や「日本国憲法」の問題などを取り上げながら、自分の明日は自分で決めることの大切さを、訴えていきたいと思います。
『キリストの誕生』(1978年,昭和53年,新潮社)は、遠藤周作自身の「あとがき」にあるように、「イエスがキリストになるまで」(『新潮』に連載)を加筆訂正したものである。

‘イエス’とは、人名(当時のパレスチナではごくありふれた名だった)。‘キリスト’とは‘救世主’のことであるから、この本は、一人のパレスチナ人‘イエス’が、どの様にして‘救世主’として高められていったのか、という問題を、当時の人々の心に分け入るようにして明らかにしたものだ。

11月も下旬となると、クリスマスケーキの予約にいざなう広告を手に、今年はどうしようかと迷う。キリスト教徒でない私がクリスマス商戦に乗せられるのもどうか、と我ながら興ざめな考えが、毎年のように頭に浮かぶ。それで、適度に消費行動をすることも社会貢献になる、とか目新しくもない言い訳を捻り出したりする。
やっぱり今年も、美しくデコレーションされたケーキを、目で楽しみ味わうのがよかろう。まだ切り分けてない丸ごと一台のケーキがテーブルに載るのは、クリスマス以外では、やっぱり人の誕生日くらいなのだし。

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それにしても、クリスチャンではない私にとって、キリスト教とは何とも理解しづらいものだ。しかも、日本的風土で生活してきた人間には、余計に解りにくいかもしれない。
遠藤の功績の1つは、そもそもキリスト教のどこが日本人にとって解りにくいのかを、食卓に珍味を1個1個並べるようにして、示してくれたことだろう。
何かを理解できないという際、どこが理解できないのかさえ理解できない場合がある。これはかなりの重症である。どこが解らないのかを理解することこそ、理解のための第一歩だ。

キリスト教が解りにくいのは、何よりまず、その‘落差’の為であろう。
祭壇に祀られているのは、十字架に架けられ頭を垂れている、ガリガリに痩せた神様の像である。(カトリック以外の事はややこしくなるので、今は考えない。)
とても崇拝の対象になりそうではない神様を信仰するという、‘落差’。(これを、私が以前の記事で書いた‘逆説’と言ってみてもいい。)

イエス像とは対照的に、日本人になじみ深い仏像の場合、みな割合にふくよかである。如何にも苦難を超越している様子だ。如来像などは、もう豊満と形容する以外にない、はち切れんばかりの福々しさだったりする。
そういう福徳の象徴のような神仏を崇拝する時、そこに‘落差’はない。人間の願いは、信仰の対象に向けてストレートに伸びて行き、引っ掛かってつまずくことがない。

とはいえ、イエスが十字架刑に処せられたという事実に躓くのは、日本人に限ったことでもない。イエスの直弟子でさえ、その事実につまずいて苦しんだ。そのことを、遠藤は『イエスの生涯』にも書いている。弟子達は皆、恐怖と保身のためにイエスを見捨てて逃げ出し、隠れていたのだという。
要するに、イエス亡き後の弟子達がその躓きから如何にして体勢を立て直したか、という事がキリスト教を理解する時の鍵になるのだ。

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そこで、革命的重要性を帯びてくるのが、使徒パウロ(西暦六〇年代に殉教)の神学である。パウロの「犠牲と生贄」の神学がどう生み出されたか、という問題が、『キリストの誕生』で叙述の中心になっているわけだ。(なお、遠藤はパウロをポーロと表記している。)

このパウロの神学について、私がここで生半可な理解を述べるのは良心が咎める。ただ、パウロの神学は、ユダヤ教の“律法”(『旧約聖書』)を越えようとする動機から生まれた。遠藤は次のようなパウロの言葉を引用している。

「律法がなければ、私は罪を知らなかった。律法が『むさぼるな』と命じなかったなら、私はむさぼりという罪を知らなかっただろう。だがその戒律ゆえに罪は私の心に浮かび、あらゆるむさぼりの心を起させた」(「ローマ人への手紙」七 - 七~八)

私は以前、これと似たような言葉に、哲学者の著書で出会ったことがあるが、著者も書名も忘れてしまった。こういう人間認識は、古く『新約聖書』にまで遡れるということだろう。
ユダヤ教に限らず、善く生きようとして“戒律”を守っていると、逆に自分の罪深さに気付いてしまう。“戒律”を守って神仏に近づこうとすると、かえって人間が神仏から遠い存在である事に気付く。(自分を誤魔化せば、自分は神だと思えるかもしれないが。)
ユダヤ教以外の古今東西の宗教でも、この『旧約聖書』的な限界に落ち込んで、一歩も出られないままの宗教も多い。

長崎ちゃんぽん

そこで、『旧約』を越えるためにパウロは、どう考えたのか。
「この時、ポーロは人間のどうにもならぬ神との分離に終止符をうったのが、キリストだと考えたのである。」(『キリストの誕生』)

さらに遠藤は、パウロの独自性を次のようにとらえてみせる。
「彼(パウロ)の独自性は人間が神の怒りをなだめるためだけの従来の生贄の意味を百八十度、転換させて、神が人間の罪をゆるすために、わが子「キリスト」を地上に送り人間の罪をすべて担わせたと主張した点にある。」

ここでまた、多くの日本人はつまずくだろう。
遠藤曰わく、
「我々日本人の宗教には生きた者の生命を生贄に捧げることを求めるような、すさまじい神はほとんどいなかったからである。」
「我々は客をもてなすように、神に初穂や食べものを捧げる民族である。」
(『キリストの誕生』)

この「客をもてなすように」というのは、面白い。日本人論として面白い。

ただ、○○論というものが、○○の全てをカバーできず、必ずこぼれ落ちるものがあるように、「すさまじい神」を求める日本人も相当に存在するのではないか、とも私は思う。
○○論を展開する時、それが○○の何割程度に当てはまっていれば、論としてOKなのか?
どんな目利きにも、見えない部分があり、想像力で補えない部分がある。○○論を受けとめる側にも、同様に死角がある。
要は、○○論を‘仮設’する事によって、問題の本質に切り込んでいければOKだろう。

「客をもてなすように」神仏に接している部分と、神仏との峻烈な関係を欲する部分と。人間は本来、その両方を持っていると思われる。
歴史的・社会的諸条件によって、どの部分が表に出るかが変わってくるのだ。現代の日本人は、「すさまじい神」を求めたくなるような、厳しい状況に入りつつあるのかもしれない。
これまでのところ、日本人が祝うクリスマスとは、「客」達の中に混じったキリストが大人しく末席に座っている、という感じだろうか。


現代日本人は、『旧約聖書』をどういう風に越えればいいのだろう。
クリスマスケーキでも食べて、ゆっくり考えるとしよう。

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[2011/11/20 09:00] | 遠藤周作の文学
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西洋・東洋の枠組みをなぜ‘仮設’するか
小谷予志銘
遠藤が言う、東洋・西洋の枠組みへの疑問。また、私がその枠組みに単純に乗っかっているかのように受けとめたコメントがありましたので、補足しておきます。

確かに、聖母信仰などを取りあげれば、西洋人の宗教観にも、日本人の観音信仰とか土着神への信仰に近いものを見出す事ができます。遠藤の日本人論を、そういう指摘により覆すのは、実は簡単です。
しかし、○○論には必ず該当しない例もある事を認めた上で、あえて○○論を‘仮設’しているという、私の記事の趣旨をご理解下さい。

西洋・東洋の枠組みで簡単に論じられない、という指摘に対しては、例えば、岡田温司の『キリストの身体』(中公新書)を参照できます。

この本には、「美しいキリスト、醜いキリスト」という章があって、“キリストの「醜さ」のうちにこそむしろ、神の恩寵はあらわれる”という概念が指摘されてます。
この概念は、異教やユダヤ教には存在しない、“おそらくキリスト教に特有の感受性であるといえる”と、岡田は書いてます。
いわゆる「神性放棄」という概念で、イエスがへりくだり人間と同じものになったという考え方だそうで、やはり使徒パウロに由来するものだという事です。
とはいえ、キリスト教内部でも、初期の教父達以来、キリストが美しいか否かで議論が続いていたとのこと。特に、イタリア美術では、十字架上のキリストも含めて、「醜い」キリストが主流となることはなかったそうです。
この事例と共に、ルネサンスやマニエリスムの画家達が受難のキリストを美しく画いたことに対し、カトリックの聖職者達が批判していた例も、岡田温司は紹介しています。

要するに、「すさまじい神」に対する西洋人の態度も一様ではない事が、うかがえる訳です。

その上で敢えて私は、「我々は客をもてなすように、神に初穂や食べものを捧げる民族である。」という遠藤の日本人論に注目します。
この日本人論から、日本人・日本文化の美質と限界とを、共に考える事ができるからです。


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西洋・東洋の枠組みをなぜ‘仮設’するか
遠藤が言う、東洋・西洋の枠組みへの疑問。また、私がその枠組みに単純に乗っかっているかのように受けとめたコメントがありましたので、補足しておきます。

確かに、聖母信仰などを取りあげれば、西洋人の宗教観にも、日本人の観音信仰とか土着神への信仰に近いものを見出す事ができます。遠藤の日本人論を、そういう指摘により覆すのは、実は簡単です。
しかし、○○論には必ず該当しない例もある事を認めた上で、あえて○○論を‘仮設’しているという、私の記事の趣旨をご理解下さい。

西洋・東洋の枠組みで簡単に論じられない、という指摘に対しては、例えば、岡田温司の『キリストの身体』(中公新書)を参照できます。

この本には、「美しいキリスト、醜いキリスト」という章があって、“キリストの「醜さ」のうちにこそむしろ、神の恩寵はあらわれる”という概念が指摘されてます。
この概念は、異教やユダヤ教には存在しない、“おそらくキリスト教に特有の感受性であるといえる”と、岡田は書いてます。
いわゆる「神性放棄」という概念で、イエスがへりくだり人間と同じものになったという考え方だそうで、やはり使徒パウロに由来するものだという事です。
とはいえ、キリスト教内部でも、初期の教父達以来、キリストが美しいか否かで議論が続いていたとのこと。特に、イタリア美術では、十字架上のキリストも含めて、「醜い」キリストが主流となることはなかったそうです。
この事例と共に、ルネサンスやマニエリスムの画家達が受難のキリストを美しく画いたことに対し、カトリックの聖職者達が批判していた例も、岡田温司は紹介しています。

要するに、「すさまじい神」に対する西洋人の態度も一様ではない事が、うかがえる訳です。

その上で敢えて私は、「我々は客をもてなすように、神に初穂や食べものを捧げる民族である。」という遠藤の日本人論に注目します。
この日本人論から、日本人・日本文化の美質と限界とを、共に考える事ができるからです。
2011/11/29(Tue) 18:25 | URL  | 小谷予志銘 #-[ 編集]
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