アンチ-ロマンチシズムと文学との幸福な共存を謀ります。当面、「炭鉱のカナリア」になる決意をしました。第二次安倍政権の発足以来、国民は墨を塗られるだろうと予測していましたが、嫌な予感が現実になりつつあります。日本人の心性や「日本国憲法」の問題などを取り上げながら、自分の明日は自分で決めることの大切さを、訴えていきたいと思います。
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「キンドル」のサービス開始に向けて、アマゾンと日本の出版社各社との交渉が、難航しているようだ。販売価格決定権を握りたいアマゾン(流通側)に対し、出版社側が反発しているらしい。(11月8日,『朝日新聞』朝刊)

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私は釣られて(?)、青空文庫からダウンロードした小林多喜二の『党生活者』(1932年,昭和7年 生前未発表)を、「smoopy」というソフトで開いてみた。

まず、「smoopy」のウィンドウの大きさを、読みやすさを考えて調節する。
1ウィンドウに表示される文字数が、文庫本1頁ぶんくらいになるようにしてみる。
縦書きで、1行が36字、1頁が16行程度になるように合わせると、『党生活者』は全部で130ページ余である。いわゆる中編小説である。

しかし、モニタ上で130ページというのは、なんとなく気が重い。
そこで、「smoopy」のウィンドウをディスプレイ一杯に広げてみると、40ページほどになった。しかしこれはこれで、読む気が削がれる。

電子書籍の読みにくさ・読みやすさとは、どういうことなのだろう?

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いま私が考えているのは、モニタが液晶バックライトか電子ペーパーか、という問題ではない。
現在の電子書籍の根本的問題は、量を直感的に把握できないということだ。

例えば、「smoopy」のウィンドウの下には、水平スクロールバーと1頁ずつ前後に送るためのボタンがある。
スクロールバーのノブ(つまみ)の位置を見ると、小説全体のどの辺りを読んでいるのかが分かる。同様に、ページ数で今43ページを読んでいるのであれば、全部で130頁の43ページだから、全体の3分の1あたりを読んでいるのだと見当をつけられる。

しかし、そういう風に見当をつける事は、紙の本を手にして分量を把握する事とは、異質である。
縦書きの本だと、本を読み進めるにつれ、開いた本の右側の厚みが増し、左側が薄くなっていく。
こういう量感は、1冊の本を受容する場合に、実は大切な情報だと私は考えている。分量というのは、その本文の調子とか呼吸などと関わっていて、内容の理解に間接的にせよ役立っているはずだ。


電子書籍で原稿用紙100枚以上もの小説を読むとなると、私はその量感のなさのために、しばしば挫折する。
スクロールバーのノブを見て、“今3分の1あたりだから、あとは今まで読んだ量の倍くらい読むと終わるのね”と思うことはできる。ただ、それが有効なのは一気に読み切る場合だろう。途中で置いて、その3分の1の量感を忘れたら…。そこでアウトである。分量と内容の関連について、どこかで勘を働かせていたのが、もう効かない。

電子書籍の今後の課題(技術面)は、デジタル情報の‘擬アナログ化’だと思う。
‘擬アナログ化’とは、例えばディスプレイ上で時間表示をする時、10:22 という風に表示せず、わざわざアナログ時計の短針長針を描いてみせるようなものだ。

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段ボール箱みたいだったパソコンが、そう長くない年月の間にマナ板よりも薄くなった事を考えれば、そういうことも何時か実現するのだろう。

SINさんのブログで、3D映像の仮想物体を手でつかんだり動かしたりできる技術「Holodesk」が紹介されている。
↓↓↓
【触れられる立体映像】最近のホログラムの技術が凄すぎる!

私が待ち望んでいるのは、分量についての情報を直感的に得られる電子書籍端末であるらしい。
論理的・実用的な文章ならともかく、小説のような美的なものは、今のソフトや端末では私には少しきつい。特に、小説で中編以上の長さのものは、今の電子書籍では辛い。結局、多喜二の『党生活者』を紙の本で読んだ。

日本の技術者の皆様! ユーザーはアップルの模倣よりアップルそのものを選ぶでしょう。本当に使える電子書籍関連の技術を生み出して、日本の主導権を回復して下さい!! 聞こえますかぁー。
聞こえないだろうな。(- -;*)

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『党生活者』を読むと、地下に潜行した多喜二らがどんな風に活動していたのか、想像される。「個人生活」を捨てた人間が、どういう理由で雨を喜び、どういう理由で夏が過ぎ去るのを望むか。

私にはちょんびりもの個人生活も残らなくなった。今では季節々々さえ、党生活のなかの一部でしかなくなった。四季の草花の眺めや青空や雨も、それは独立したものとして映らない。私は雨が降れば喜ぶ。然しそれは連絡に出掛けるのに傘をさして行くので、顔を他人(ひと)に見られることが少ないからである。私は早く夏が行ってくれゝばいゝと考える。夏が嫌だからではない、夏が来れば着物が薄くなり、私の特徴のある身体つき(こんなものは犬にでも喰われろ!)がそのまゝ分るからである。早く冬がくれば、私は「さ、もう一年寿命が延びて、活動が出来るぞ!」と考えた。たゞ東京の冬は、明る過ぎるので都合が悪かったが。

私は、以前の記事で、追いつめられた多喜二の頭を‘転向’という考えがよぎったかもしれない、と書いた。しかし『党生活者』の次の箇所を読むと、この人は本当に不退転だったのではないか、と思えて、少し怖くなる。

若しも犠牲というならば、私にしろ自分の殆(ほと)んど全部の生涯を犠牲にしている。須山や伊藤などゝ会合して、帰り際になると、彼等が普通の世界の、普通の自由な生活に帰ってゆくのに、自分には依然として少しの油断もならない、くつろぎのない生活のところへ帰って行かなければならないと、感慨さえ浮かぶことがある。そして一旦(いったん)つかまったら四年五年という牢獄が待ちかまえているわけだ。然しながら、これらの犠牲と云っても、幾百万の労働者や貧農が日々の生活で行われている犠牲に比らべたら、それはものゝ数でもない。私はそれを二十何年間も水呑(みずのみ)百姓をして苦しみ抜いてきた父や母の生活からもジカに知ることが出来る。だから私は自分の犠牲も、この幾百万という大きな犠牲を解放するための不可欠な犠牲であると考えている。
(『党生活者』)

イエス・キリストみたいな人間が何人もいる、という風には、私はあまり考えたくないのだけれど。


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[2011/11/12 14:08] | 情報の発信・蓄積・管理
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