アンチ-ロマンチシズムと文学との幸福な共存を謀ります。当面、「炭鉱のカナリア」になる決意をしました。第二次安倍政権の発足以来、国民は墨を塗られるだろうと予測していましたが、嫌な予感が現実になりつつあります。日本人の心性や「日本国憲法」の問題などを取り上げながら、自分の明日は自分で決めることの大切さを、訴えていきたいと思います。
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図書館で文学全集を借りるとき、目当ての文章がどの巻に収められているのか分からない事がある。
開架から手に取って見ることが出来る場合、1冊1冊棚から出して目次を見る。
いちいち見るのは面倒だったりする。書庫にあるものを頼んで出してもらう場合は、もっと厄介だ。

最近はネット上に出回っている古書も多いから、全集の内の必要な巻のみを買いたいときもあるが、やはり各巻の内容が分からないことが多い。
そんなことで困っていたとき、全集の目次をデーターベース化し公開しているサイトを見つけた。
↓↓↓
研究余録~全集目次総覧~

私がこのブログで記事を書いている作家については、こういう目次のデーターを自分で作るしかないかな、と思っていたが、世の中には志の篤い人がいるものだ。
図書館で全集を借りることも多い私には、大変有り難い。

私の自宅の6畳間は、本置き場と化している。書斎なんて格好の良いものではない。
窓や入口を塞ぐことは出来ないから、それ以外の壁に目一杯に高い書棚を並べ、腰高窓の下のスペースも無駄にせず低い棚を置いてある。
各棚に収めた本の手前には更に別の本を並べているから、もう奥にどんな本があるのか、自分でも分からない。それでもスペースが足りないので、前後2列に並べた本の上の隙間に、今度は横にして収めて。今は、本棚の前の床に本が積み上げられている。

さすがにこれは何とかせねば、と思った。(私の知り合いに、本の重みで床が抜けて大変だった人がいる。古い家だったからか?)
それで、図書館に頼れるものは頼ることにした。
伊藤整の『日本文壇史』を買いたいのだが、文庫本でも全18巻だと結構なスペースが要るので、近くの図書館に揃っているのを、必要に応じて借りたり返したりしている。
困るのは、図書館の本には書き込みが出来ない事。それで仕方なく、付箋を貼っておいて、返却前に付箋を剥がしながら、気になる本文を読書ノートに書き写している。
これで本が増えるスピードが少し緩んだ。

ただ、図書館にだって、費用やスペースの限界がある。図書館も、収蔵書の定期的廃棄や、電子化を迫られている。公立の比較的規模が小さい図書館では、商業文芸誌などは2、3年で廃棄されることが多いようだ。そうやってスペースを工面しても、新規に収蔵できる本は限られている。

それでまた仕方なく、道立図書館にも北大図書館にも入ってない本を、悩みながら買う羽目に陥る。
それがまた、大いにハズレだったりするので、泣きたくなる。
ここ最近、そうして買った本3冊が立て続けに、有っても無くてもいいようなものだった。

偶然だろうか?
どうも、図書館というのは、本を選択するにあたって、特殊な嗅覚でも駆使しているのではないか、と思ってしまう。
例えば、名著と認めていい或る本を書いている著者の、別の本で、実績と信用のある出版社から出ている本が、実際読んでみると案外詰まらなかったりする。そして、そういう本は図書館に入っていない、という事がよくある。私が、公立図書館と大学図書館をハシゴしていた若い頃から、何となく感じていたことだ。
実際に読んでから収蔵を決める訳ではない以上、本選びのプロの嗅覚(しかも商品価値に左右されない)ということがあるのだろうか? あるいは、新聞の書評なんかより格段に信用できる、何か情報源でもあるのか?(それにしても、朝日に載った斎藤環の『1Q84』評は、茫然とするほどひどかった…。)

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そんな頼りになる図書館にも限界がある以上、自分で工夫するしかない。
最近は、はやりの‘自炊’も少しやっている。せっかくの本を解体して、スキャンし、あとは資源ゴミに出す。ぎゅうぎゅう詰めの棚は、見事に空く。
そこに、検討に検討を重ねて、新しい本を買い入れる。

本が出版されても、うっかりしていると品切れになってしまう。しかも、再版予定無し、という実質的絶版状態に。
それが怖くて、将来読みそうな本は取りあえず買っておく、ということを以前はやって来たが、スペースと財力の問題から今は出来ない。在野の身になると、全部が私費だし。
時間の問題も出てきた。古今東西の星の数ほどある本のなかから、私はあと、どのくらい読むことができるだろう。
健康で平均寿命くらい生きられれば相当読めるサ! 、と楽観的にもなれない。
1冊読むと、それに伴って、読みたい本のリストに新たな何冊かが加わってしまうから。ひどいときは、1冊こなすと10冊以上加わる。
また私には、そういう、芋づる式に次の本に誘導されるような本を好んで読む癖があるので。

本を解体するのは思い切りが要るが、電子化してでも手元に置きたい本なら、まだ可能性があるということ。
次を読むにしても、次に書くにしても、次の言葉を呼ぶ本を選びたい。

そういうことでここ数日、書棚を点検中。電子化さえせずに、ブックオフに送る本を選んでいる。
オウムの問題を予見できなかった(というか、助長した側面が疑われる)、日本のニューアカデミズムの著者については、迷わず段ボール箱へ。
ニューアカの本家達(ポスト構造主義)については、脱構築も軽やかな‘逃走’も、1つの通過点に過ぎない気がするので、やはり段ボール箱へ。これらの本には、手放すことを予感してか、書き込みもしてない。

多彩な構造主義の著作には、保留したいものもある。ソシュールは現代思想の祖として相変わらず重要だと思うので、置いておこうか。そもそも、書き込みをしてあるので買ってもらえない。
フッサールやメルロ・ポンティの現象学は? きりがないので、図書館の収蔵状況をチェックして、借りられるものは売り払う。

そうして残ったものを見ると、なんだか古色蒼然としている。十字架の聖ヨハネだの、パスカルだの…。
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[2011/10/17 19:43] | 情報の発信・蓄積・管理
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2011/10/17(Mon) 20:33 |   |  #[ 編集]
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