アンチ-ロマンチシズムと文学との幸福な共存を謀ります。当面、「炭鉱のカナリア」になる決意をしました。第二次安倍政権の発足以来、国民は墨を塗られるだろうと予測していましたが、嫌な予感が現実になりつつあります。日本人の心性や「日本国憲法」の問題などを取り上げながら、自分の明日は自分で決めることの大切さを、訴えていきたいと思います。
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伊藤整は、大正14年20歳の時に、新設の小樽市中学校教諭となった。そこに、熊本の県立第一高等女学校長から新校長として転任してきたのが、吉田惟孝であった。

この広島高等師範卒の「ダルトン・プラン」の理論家は、生徒の家を毎日2,3軒ずつ訪問してまわった。
当時、家庭訪問というのは小学校の教師のすることだったらしい。中学校のまして校長が生徒の家庭を訪問するというのは、聞いたことがないと伊藤は書いている。

吉田校長は、昼の弁当を教師たちが毎日一緒のテーブルについて食べるよう取り計らい、その際、自分が続けている家庭訪問の結果を教師たちに話した。校長は、生徒一人一人の家庭の様子や、土地の人々の気風や特色を語り、教師たちは「完全にこの校長に支配されてしまったことを感じた」。

「この校長は、教育の方法があることを信じ、他人の子を教育してゆく自信を持っている、と私は感じた。教育ということを自信をもってやる人間のいることが私には意外だった。」(『若い詩人の肖像』 4「職業の中で」)

中島公園セピア

伊藤整が中学校の勤務と並行して、最初の詩集『雪明りの路』の校正と大学受験のための勉強を進めていた頃、校長の吉田惟孝は、長年抱いていた「ダルトン・プラン」の実践に取りかかった。

その教育理論は、現在でいうところの、習熟度別クラス編成・授業、に相当するようだ。
具体的には、50人ずつ2組に分けていた2年生を、成績別に30人ずつの3組に分ける。そして、成績の最も低いクラスには教科書を普通よりも緩慢に繰り返し教え、真ん中のクラスには普通の速度で教え、最も成績のよいクラスには教科書以外の内容も教える、というものだった。

「私は、以前のようにどこかに分からない子がおり、どこかに退屈している子がいる、といういやな気持ちから抜け出すことが出来た。」 (『若い詩人の肖像』)

伊藤は、「ダルトン・プラン」の効果をそのように認めている。
しかし、その試みのせいで「教師の労働は加重された」。
教師は3分の1ずつ持ち時間が増え、当時の一般的な週に18時間から、週に23時間も授業しなければならなくなった。
時間数だけではない。
出来ないクラスでの、緩慢な、繰り返しの説明は苦労であった。また出来るクラスでの早い進め方や補助の教科書を使うのも苦労であった。

中島公園

何時の時代にも同じ問題がある。習熟度別クラス編成については、効果と同時に色々な弊害もあろう。今、そこには立ち入れない。
さしあたって私が言いたい事は、教育効果と効率の問題。要は財政・お金の問題を、日本の公教育はどうにも出来なかったという事だ。

最近は少子化の為もあって、小学校では1クラスの人数が減少傾向にあるようだ。しかし、高校となると別で、1クラスに40人かそれ以上もの生徒を詰め込んでいる。教師の目が行き届くはずもないが、クラス数を増やして教師を多く雇う事は、財政上の問題で出来ない。財政を遣繰りしようと、本気になっていたようにも見えない。

黒雲ソラリ

私は20代の頃、ある県の新任教員研修で、お偉方が口にした不思議な言葉を聞いた。

「私は、育ちの良い先生に、生徒達の教育に当たってもらいたいんです。育ちの良い先生というのは、生徒達の悩みを受け止めて、自分の事のようにその解決にあたる事が出来ます。」

新任研修だから、採用の辞令は既に出ている。‘育ちの良くない’新人教師が混じっていた場合、ではどうすればいいのか?
採用選考で「育ちの良さ」を探る事は、人権上の問題などから難しいはずだ。もっと言えば、「育ち」というのは経済状態や家族構成で決まるような単純な事ではないから、探りたくても出来ないというのが実際だろう。
そのお偉方は、よほど歯痒かったと思われる。彼の奇っ怪な主張は、何度も未練がましく繰り返された。私は、その度に、自分が小さくなるような気がした。

そのお偉方の持論は、たぶんこうだ。
「育ちの良い」人間は、精神的・物理的ストレスに耐性を持ち、家族などからのストレスへの支援も得やすい。そして、そういう教師個人の‘自前の資産’に頼らなければ、教育現場の困難には対処できない。

しかし、「育ちの良い」ということは‘身分’みたいなものだ。育てられる側の子供には、選ぶ事も変える事も難しい。
そういう事柄を敢えて取りあげ、「育ちの良さ」による教員の力量を期待するという、公教育のお粗末さは、今の日本の停滞とつながっている。
教員養成課程とは、そういう‘資産’を持ち合わせない者に、力量を与えるためのものじゃなかったのか。

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[2011/09/11 00:30] | 伊藤整をめぐる冒険
[tag] 能力別クラス 授業時間数 効率
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kenkenkids
人としての本質は、育ちの良さでは測れませんよね。
教育者ともなれば、求められるの見識の深さと振り幅広さのように感じます。
それにはやはり、労して得たものが大きいのではないかと。

リンクの件、有難うございました。
こちらも貼らせて頂きましたので、今後とも宜しくお願い致します。

Re: kenkenkidsさんへ
小谷予志銘
”人としての本質は、育ちの良さでは測れませんよね。”
そう思います。「育ちの悪い」人間だからこそ逆に、という事もあるでしょうし。
そもそも「育ちの良い」の定義もあいまい。

だから、「育ちの良い」という事をワザワザ持ち出す人の考えが、私にはどうも分からないのです。
某県のお偉方だけではなく、大江健三郎も「育ち」のいい人間が好きみたいで(?)、読んでいるとよく出てくるのが前から気になってます。ノーベル賞作家への疑いが、ふと芽生えた瞬間でした。
彼が何を言いたいのか、いつか再読して考えてみたいですが、大江健三郎の小説、長い・・・・。



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この記事へのコメント:
人としての本質は、育ちの良さでは測れませんよね。
教育者ともなれば、求められるの見識の深さと振り幅広さのように感じます。
それにはやはり、労して得たものが大きいのではないかと。

リンクの件、有難うございました。
こちらも貼らせて頂きましたので、今後とも宜しくお願い致します。
2011/09/12(Mon) 15:33 | URL  | kenkenkids #mQop/nM.[ 編集]
Re: kenkenkidsさんへ
”人としての本質は、育ちの良さでは測れませんよね。”
そう思います。「育ちの悪い」人間だからこそ逆に、という事もあるでしょうし。
そもそも「育ちの良い」の定義もあいまい。

だから、「育ちの良い」という事をワザワザ持ち出す人の考えが、私にはどうも分からないのです。
某県のお偉方だけではなく、大江健三郎も「育ち」のいい人間が好きみたいで(?)、読んでいるとよく出てくるのが前から気になってます。ノーベル賞作家への疑いが、ふと芽生えた瞬間でした。
彼が何を言いたいのか、いつか再読して考えてみたいですが、大江健三郎の小説、長い・・・・。

2011/09/12(Mon) 19:55 | URL  | 小谷予志銘 #-[ 編集]
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