アンチ-ロマンチシズムと文学との幸福な共存を謀ります。当面、「炭鉱のカナリア」になる決意をしました。第二次安倍政権の発足以来、国民は墨を塗られるだろうと予測していましたが、嫌な予感が現実になりつつあります。日本人の心性や「日本国憲法」の問題などを取り上げながら、自分の明日は自分で決めることの大切さを、訴えていきたいと思います。
現行憲法が国民の人権を制約する根拠は、「公共の福祉」である。

この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によって、これを保持しなければならない。又、国民は、これを濫用してはならないのであって、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ
(「日本国憲法」第12条)

「公共の福祉」とは、“public welfare”であり、“public”とは「人々の集まり」を意味します。ですから、公共の福祉による人権制約とは、あくまでも「多くの人たちの福祉のため」とか、「各々の人の幸せのため」、ある個人が人権を制限されうるという意味です。
(『憲法は誰のもの?』伊藤真,岩波ブックレット,p37)

ところが、自民党の「憲法改正草案」では、この「公共の福祉」が、「公益及び公の秩序」に置き換えられている。

この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力により、保持されなければならない。国民は、これを濫用してはならず、自由及び権利には責任及び義務が伴うことを自覚し、常に公益及び公の秩序に反してはならない
(自民党「日本国憲法改正草案」第12条)

この置き換えについて、自民党は「日本国憲法改正草案Q&A」で、理由を説明をしている。
変更の理由は2つあって、1つには「公共の福祉」という言葉が「曖昧」だから。
もう1つは、これが自民党の真の狙いであるが、人権の制約は、「人権相互の衝突の場合に限られるものではないことを明らかに」したいという理由。
「日本国憲法改正草案Q&A」(p13-14,PDFの19枚目-20枚目)から、少し長くなるが、Q15とその回答の全体を引用すると。
(アンダーラインや色文字は、あとで問題にする部分です。)
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Q15
「公共の福祉」を「公益及び公の秩序」に変えたのは、なぜですか?


従来の「公共の福祉」という表現は、その意味が曖昧で、分かりにくいものです。そのため、学説上は「公共の福祉は、人権相互の衝突の場合に限って、その権利行使を制約するものであって、個々の人権を超えた公益による直接的な権利制約を正当化するものではない」などという解釈が主張されています。しかし、街の美観性道徳の維持などを人権相互の衝突という点だけで説明するのは困難です

今回の改正では、このように意味が曖昧である「公共の福祉」という文言を「公益及び公の秩序」と改正することにより、その曖昧さの解消を図るとともに、憲法によって保障される基本的人権の制約は、人権相互の衝突の場合に限られるものではないことを明らかにしたものです。

(国際人権規約における人権制約の考え方)
我が国も批准している国際人権規約でも、「国の安全、公の秩序又は公衆の健康保護」といった人権制約原理が明示されているところです。また、諸外国の憲法にも、公共の利益や公の秩序の観点から人権が制約され得ることを定めたものが見られます

(公の秩序の意味)
なお、「公の秩序」と規定したのは、「反国家的な行動を取り締まる」ことを意図したものではありません。「公の秩序」とは「社会秩序」のことであり、平穏な社会生活のことを意味します。個人が人権を主張する場合に、人々の社会生活に迷惑を掛けてはならないのは、当然のことです。そのことをより明示的に規定しただけであり、これにより人権が大きく制約されるものではありません。
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まず草案は、「公共の福祉」は「人権相互の衝突の場合に限って、その権利行使を制約するもの」という学説が「曖昧」だとする。
しかし、伊藤氏が言うように「公共の福祉」という概念は、「人権への制約を最小限度に抑える発想になじみます。公共の福祉の具体的な内容は個別・具体的に判断される」(p39)という事を前提にすれば、特に「曖昧」とする程ではない。
(むしろ、前回の記事に書いたように、日本の「伝統」などという「曖昧」なものに従って人権を制約しようとしているのを、自民党は反省すべきだろう。)
「街の美観や性道徳の維持」などの問題で、「人権相互の衝突」が生じた場合、現在は「条例」などを設けて対処ができている。
「街の美観」。例えば、マクドナルドの派手な看板が京都の町並みに合うかどうか、といった問題は、企業と市民と都市の各々の権利について、話し合いで決定し、必要なら修正すれば済むことだ。
「性道徳の維持」。これは、いわゆる「児童ポルノ」、漫画の表現規制などを想定しているのだろうか??
それならば、やはり「条例」と、「条例」を議論するなかで決めていくべき事だろう。
ここで「性道徳」を持ち出しているのが、いかにも自民党らしく、怪しい。「性道徳」が、個々人の生き方に関わるところまで含んでいるなら、そんな事を主張するのは、恐ろしい考えを持った人間の集団だ。国民の「性道徳」を、「人権相互の衝突」以外のところで縛る意図があるならば、非人道的な規制に陥るだろう。

このように、「曖昧さの解消」とは、国民を言いくるめる為に取って付けたようなもので、真の狙いは「憲法によって保障される基本的人権の制約は、人権相互の衝突の場合に限られるものではない」とすることだ。
そこで、「人権相互の衝突の場合」以外に、国民の人権を制約するのが、「公益及び公の秩序」なのである。

「公益」は“national interest”であり、伊藤氏が指摘するように「国益」につながる。
国民の「性道徳」という、本来極めて個人的な部分まで、「公益」=「国益」と「公の秩序」に反しない範囲で保障する、と言いたいのだろう。
もう、国民が家畜に見えているんだろう・・・。

(公の秩序の意味)という項で、「「反国家的な行動を取り締まる」ことを意図したものではありません」と明言されても、「Q&A」は「憲法」ではないから。
「特定秘密保護法」の場合と同じで、自民党が丁寧な「説明」をしても何の意味もなく、あくまでも「条文」がどうなっているかが問題なのだ。

たとえば、インターネットで与党を批判したり、原発情報を調査することは、今よりも制限されるでしょう。政府の政策を批判すれば、それを政府は国益に反する発言と判断して規制できます。原発の安全性への疑念を抱かせる情報は、国民に不安を与えたり、国策としての原発推進を妨げるため、社会的混乱を招くと判断されるでしょう。また、漫画やアニメも、〈お上〉の判断で残虐だとかわいせつだという理由をつけられれば、即座に規制されます。特に、クリエイティブな仕事をしている人たちが受ける打撃は大きいでしょう。芸術などの世界では、既存の価値観に批判的であったり、理解しにくいものが最先端の表現であることも多いものです。当初は顔をしかめられる表現が、後に文化や芸術を進歩させることはよくあることです。(後略)
(『憲法は誰のもの?』,p38-39)

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ここで、いつもながらゴチャついた記事を、もっとゴチャつかせる写真を1枚。
北海道斜里郡清里町(オホーツク総合振興局内)にある「神の子池」。憲法についての一連の記事で、「神の子池」とその周辺の写真をupしてます。池の水は、本当にこういう神秘的な青色です。池にたどり着くのは、秘境探索の如く、けっこう大変です。

神の子池+青い_convert_20140217200436

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今日の最後に、(国際人権規約における人権制約の考え方)の項について。
「Q&A」のこの項では、「国際人権規約」や「諸外国の憲法」でも、人権が制約されているのだから、自民党が「改憲」して人権を制約するのは正当だ、と主張したいらしい。
「諸外国の憲法」とは、具体的にどこの憲法のことを言っているのか、自民党に確かめる必要があるが、それにしても私達は、発展途上のものに合わせる必要があるだろうか?
言い換えると、レベルの低いところへ降りていくべきだろうか???
誰が好きこのんで、管理され搾取される家畜に近付きたいかw。


それに、「国際人権規約」といった、厳格に「普遍的」である立場と比較すると、「国連の規約人権委員会」と「日本政府」との間では、人権を「制約」する基本的な態度に、そもそもズレが生じているのだ。
どういうことかと言うと、「国際人権規約」の条文の英語“public”を、日本政府が「公(おおやけ)」と翻訳する際に、「日本語的な権力性」が入り込んでしまう、ということだ。
「浦部法穂の憲法時評」(→→「憲法の言葉」シリーズ②「公共」または「公」)は、「国際人権規約自由権規約第18条」の英語の正文とその日本語訳(日本政府訳)を比べて、興味深い論を展開している。

“Freedom to manifest one's religion or beliefs may be subject only to such limitations as are prescribed by law and are necessary to protect public safety, order, health, or morals or the fundamental rights and freedoms of others.”

「宗教又は信念を表明する自由については、法律で定める制限であって公共の安全、公の秩序、公衆の健康若しくは道徳又は他の者の基本的な権利及び自由を保護するために必要なもののみを課することができる。」

詳しい議論は「憲法の言葉」シリーズ②を読んでいただくとして、要点を抜き出してみると。

日本語の「公(おおやけ)」とは。
朝廷による支配が確立していく段階で、「おおやけ」は朝廷そのものを指す言葉として使われるようになり、天皇を頂点とする権力機構としての「おおやけ」が形成されていくことになる。その「おおやけ」は「わたくし」の入り込むことのできない領域であり、「わたくし」に優位する権力としての「おおやけ」というものが観念されることになるのである。

現代日本語の「公」という言葉は。
英語の「public」の「みんな」という意味合い、中国語の「公」の倫理性をもった意味合い、そして日本語の「おおやけ」の「権力性」という意味合いが、渾然一体となった形のものとなっている。(中略)
日本語の「おおやけ」は「わたくし」が入り込むことの許されない「わたくし」に優位するものであるから、「わたくし」の権利は「おおやけ」の利益よりも当然一段下に置かれることになる。しかも、そこには「公」の中国語的な意味合いも入り込むから、それが倫理的にも正しいことだ、とするニュアンスさえ込められることになる。


つまり、日本政府が「国際人権規約」に沿っていると主張しても、「公共」から「公」 に書き換える事で、「日本語的な権力性」が強く入り込み、「権力側の都合や利益」が拡大すると言える。
おまけに、現行憲法の「公共」でさえ、「日本語の「おおやけ」のニュアンス」が「渾然一体となっている」。だから、
「公共の福祉」も、「みんなの福祉」という意味にとどまらず、そこに「権力性」が当然のように入り込み、権力側の利益が「公共の福祉」の内容として認められるのは当然のこととされる。
そういう「公共の福祉」という言葉に対し、「国連の規約人権委員会はこれまで再三にわたり、日本政府に対して、そのようなあいまいで抽象的な規定による人権制限は国際人権規約に適合しないという趣旨の勧告をしている。」と、浦部氏は述べている。

自民党「草案」では、「曖昧」という点だけは当たっているのだが、悪いことに「国際人権規約」から一層外れる方向に変えようとしているのだ。

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[2014/02/17 20:25] | 憲法問題
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