アンチ-ロマンチシズムと文学との幸福な共存を謀ります。当面、「炭鉱のカナリア」になる決意をしました。第二次安倍政権の発足以来、国民は墨を塗られるだろうと予測していましたが、嫌な予感が現実になりつつあります。日本人の心性や「日本国憲法」の問題などを取り上げながら、自分の明日は自分で決めることの大切さを、訴えていきたいと思います。
つまりは。2014年の今、こういう変な問いを立てねばならない程、大方の日本人は、宗教についてあまり考えてこなかったのだ、と私は思う。

七五三で神社に参り、神父を呼んで結婚式をし、葬式で読経してもらう、と自嘲気味に概括されるとおり、宗教においても、日本人の多くは「何でもあり」でやってきた。
まず土着の神道があった。その自然崇拝に近い信仰や氏神信仰は、現代に至るまで綿々と続いているが、土着の宗教に、4世紀頃からは外来の道教、仏教、キリスト教が次々と加算され、かけ算もされてきた。
江戸の末期に近付いて、本居宣長(1730-1801)らは、他宗教の影響を受ける以前の国粋的な「復古神道」を「復元」(捏造?)してみせた。明治以降には「国家神道」も整備された。
日本人は「聖」なる言葉と向き合うなかで、実に多様な信仰を産みだし、受け入れ、伝えてきた。

一神教の神と人間とを仲介する救世主が地上に顕れてから、二千年以上になる。
しかし、物事を分け隔てるのが苦手な日本人には、そもそも仲介など必要なかった。神と仏と凡人は、時に都合よく境界を行き来し、昇ったり堕ちたりしながら、日本の「我が道」を幸福に歩んだ。

近代化する必要に迫られてからは、欧米に追いついたり対抗したりしているうちに、イビツなものを急ごしらえし、自ら作ったものによって危うく滅びかけた。
その時のショックが余程大きかったのか、自分たちの失敗作を懐かしがって手放そうとしない、「倒錯」した人々が現れた。
彼らが憧れたのは、失敗作である戦前の日本、祭政一致の古神道と欧米の近代的諸制度を接合した、キマイラだった。

彼らは、憧憬に値する古い日本文化を、ろくに知らなかったと見える。
江戸時代までの日本人の精神のなかに、近代への芽、近代化の可能性はあると私は思うが、維新以降の日本を主導してきた人々は、そういう芽を見出し発展させるという面倒くさい手続きを踏まなかった。
一方、失敗作のために酷い目に遭い、心底懲りた庶民は、日本の伝統一般の上澄みだけを手にし、それでよしとした。
欧米の方が魅力的に見えた為か、江戸時代までの文化をやっぱり理解してなかった為か?

やがて現在に至り、欧州の「追い抜かれた」旧大国に、自国が似てきている事に気付いた。
そして、明治維新以降の失敗作を復元して「自信」を取り戻そうとする、おかしな雰囲気が拡がっている。

日本の伝統について述べようとすると、こと宗教に関する事だけでも、かくの如く、かなり大変だ。
私が知っている日本の伝統文化を掻き集めて見て、結局言えるのは、明治維新からあの戦争で荒廃してしまった日本では、それまでの豊かな伝統から見れば、むしろ大きな「エラー」が生じてしまった、ということ。
近代的な軍隊では、量・数・効率を追求するのだから、せっかくの「武士道」もフリーズするか、エログロナンセンスに成り下がるのがオチだ・・・。
そういう「エラー」の象徴として靖国があり、戦後の日本人は、靖国の上空を飛び越して、また靖国のはるか地下深い水脈をたどって、細々と伝統に繋がっているんじゃないか?

しかし、アメリカ大使館に文句を言っている人々は、どうも、あの「キマイラ」こそが日本の伝統文化だと思っているらしい・・・。

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総理大臣が靖国神社に参拝して、それを支持する日本人が結構いるらしいと聞くと、私なんぞは、どうしても引っかかりを覚えてしまう。
日本の伝統的な「死生観」とは、どんなものだったのか?
換言すると、日本人は、人間が死んだらどうなると考えてきたのだろうか?
その死生観は、靖国と折り合いがつけられるのかな?と落ち着かない。


そもそも死後の魂なんて無い、と考える人あり。
クリスチャンならば、イエス・キリストの再臨と最後の審判を待つことになる。
日本の仏教の死生観だと、どうなるか。
他力本願の浄土真宗なら、たとえ殺生していようが割と簡単に、極楽浄土へ行く。
自力本願の日蓮宗なら、浮かばれるためには相当の修業が要る。
曹洞宗などの禅宗では、「自力」の度合いは一層大きく、「お題目」によって「他力」めく余地もないのだろう。

死後に魂が残ると考える場合、皆それぞれに、魂が「彼岸」の価値観に合うように変化することで、その魂が「救済」されると考えるのだ。

「神道」の「救済」はどんなものなのか。
教義らしい教義が無いともいわれる「神道」だからか、仏教の「成仏」に相当する「道筋」が有るのかどうか、どうも分からない。最初から無いのなら、いくら探しても見つかる訳がないが・・・。
古い「神道」にも、「かくりよ」と「うつしよ」という、「彼岸」と「此岸」に相当する世界観はある。
死者の魂は、「隠世」で、どんな状態なのだろう。
「神」になるというからには、超越的な状態になっているのか?
無条件に現世から超越できるとすれば、浄土真宗などなら、かろうじて摩擦はないか。
クリスチャンだった魂は、1人の「神」の審判を待っているのだから、自分を「神」と呼ばれるのは拷問だろう。
法華経を奉じていた魂は、「悟り」を得られなければ、現世への執着から解放されない。これも、大変恐ろしいことだ。
その人の「死生観」を尊重せずに、弔いが出来るのだろうか?
自問自答する人々の問いかけを深化させていけば、足下からの近代化はあり得ると、私は思う。
「当然だ!」という主張への違和感。そこから、胸に手を当てて考えていけば、動きだすと思う。


それで。大臣が靖国に参拝すると、「英霊」はどうなるのだろう?

大臣は、「聖」なる力を持たない、あくまで「世俗」の人である。「俗」世間の権力者だ。
大臣が霊を崇敬すれば、「俗」世の権威をもって、生前の行為に「お墨付き」を与えることは出来る。
魂が、「悔しい、無念だ」、と思っているなら、エライ人に認めてもらったと、溜飲が下がるのだろうか。
(遺族は「此岸」に居るのだから、溜飲が下がって幾らか楽になるだろう。)
しかしそれでは、どこまで行っても「此岸」の範囲に留まることになる。
こんなことなら、無宗教の施設で戦死者を追悼するのと、違わないのではないか?
戦死者の魂に対して、私達はナニをドーするべきなのか?


私の祖父と大叔父二人も、戦死した。
三人の魂には、「此岸」を超えて、「彼岸」に到達して欲しい。魂は、次のステージに移行すべきだ。
子孫がそれぞれの幸福を得て、戦没者のことを忘れたら、嘆き悲しむって、その魂は「此岸」に執着して離れられない訳だ。
祖父等の魂がそんな状態で、残された者は喜べるのだろうか。
靖国では、死者も生者も、みんなが「此岸」から離れず、もたれ合っている。
それで、ナニをやっているつもりなのだろう?「供養」?「追悼」?アリバイ作り?


死者の魂は、めいめいの「彼岸」にたどり着き、軍人墓は何時かガランドーになる。それが、魂の救済というものだろう。
生者は「世俗」の言葉で戦没者を悼み、軍人墓も社もガランドーであり続けるよう、誓う。
それが、これからの日本人の努めじゃないか?
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[2014/01/12 09:32] | 右翼・戦争・カルト
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