アンチ-ロマンチシズムと文学との幸福な共存を謀ります。当面、「炭鉱のカナリア」になる決意をしました。第二次安倍政権の発足以来、国民は墨を塗られるだろうと予測していましたが、嫌な予感が現実になりつつあります。日本人の心性や「日本国憲法」の問題などを取り上げながら、自分の明日は自分で決めることの大切さを、訴えていきたいと思います。
4月から消費税が上がるというので、今のうちに買い置きをしておこうと、スーパーなどでカートに山積みしている人が目につく。
私も、公共事業頼みの放漫財政への反感があるし、つられて若干の買い置きをしたが、カートに山積みする様な買い方はしてない。
4月以降、売り上げが落ちれば、小売業はまたセールを打つなどして、値引きせざるを得ないと予想しているからだ。
いずれにせよ、「官製春闘」で一部の賃上げが演出されるのみで、一般の生活者は「インフレ」を迷惑がっている状況下、「デフレ克服」は成し遂げられないと、私は思っている。

どんな学問分野にも「いかがわしい」学者はいるものだが、リフレ論者のいかがわしさは、社会の広範に深刻な影響を及ぼす点で、特に罪深い。

現日銀副総裁の岩田規久男は、「デフレを止めなければ何も始まらない」として、今の不況も需要不足も、問題はことごとくデフレに起因していると主張する。
そのデフレは何によって起こるのか、という問いに対し岩田は、「みんながデフレを予想するからです」、「みんなが同じ予想をすると、それが実現します」と回答する。

リフレは正しい_convert_20140328010412

インフレ・ターゲット派の「学説」は、金融政策によって「みんな」の「デフレ予想」を切りかえられればデフレは退治できる、というものだ。
この「学説」の胡散臭さが「学問」の根幹に関わっていることを、二宮厚美は極めて的確に述べている。
(傍線は私が引きました。)

予想とは、いうまでもなく、将来にかかわる一種の主観である。したがって、事実・実態にもとづいて客観的に確かめることのできない代物である。予想と結果は同じ場合もあれば、違う場合もある。このことをわきまえたうえで、予想と結果の関連を解明するのが、およそ社会科学一般の使命というべきであるが、岩田の「学説」は、のっけから、この要件を欠いたものにすぎない。
(二宮厚美『安倍政権の末路』p68,2013年7月10日,旬報社)

みんなが「予想」を変えるといっても、「予想と結果の関連」が素人なりに見えなくては、変えられるはずがないのだ。
私達がリフレ派に馬鹿にされているように感じるのは、「予想と結果の関連」が見えないにもかかわらず、「デフレ予想」を変えろ、と迫られているからだ。

素人の「直感」に対して、それを放棄させるに十分な説得をできない学者が、表舞台に出たいという欲望に目をくらませているのだろう。
リフレ派は、「異次元金融緩和」によってマネーをジャブジャブにすればインフレになると主張する。
その道筋は、経済学説として誤りだと、二宮は主張する。いわゆる「貨幣数量説」は、理論的に間違いだということだ。
多くの素人は、直感的に、どっちが正しいと思っているか?

「貨幣数量説」に従えば、物価を上げるためには、お金の量を増やせばよい、ということになる。
しかし、マネタリーベース(日銀券・硬貨+当座預金)を増やせば、マネーストック(市場取引が現実に必要とする通貨量を反映する、現金と預金通貨の合計)が増えるわけではない。
「量的金融緩和→マネタリーベースの増大」の理論は成立し、実際に起こることだが、肝心の「マネタリーベースの増大→マネーストックの増加」の流れは成立しない。21世紀に入ってからのデータを元に、マネーストックの増加が不発に終わってきたことが、明らかにされている。(『安倍政権の末路』,p65~84)

アベノミクスが依拠するインフレ・ターゲット論とは、マネタリズム(貨幣数量説)の破綻によって、新自由主義派がひたすら「予想」に賭ける方向に走って到達したイデオロギーだ、ということである。
(『安倍政権の末路』,p75)

伏見+第一鳥居+狐2_convert_20140328033358

「類は友を呼ぶ」というが、危なっかしい「信仰」で世の中を動かそうと考える連中が、結託しているわけだ。

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[2014/03/28 02:55] | 金融政策と日本の行方
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二宮厚美の『安倍政権の末路』を読んでいて、びっくりするような「富豪」についての記述に出会った。

スーザン・ジョージは「一%」のウオール街住人を語って、彼らは貧困になろうとしても、もはや決して貧困になることのできない人々である、と形容している。この世に生きているかぎり、どうあがいても、決して貧困になることができない人々-これが富豪の定義だというのである。なぜ、彼らは貧しくなろうとしても、なることができないのか。彼女はこう説明する。ウオール街の富豪は、毎日毎日およそ一三・七万ドル(一ドル=九〇円換算で約一二〇〇万円)以上使わないと、自動的にますます金持ちになってしまう人びとのことである。
(『安倍政権の末路』p50,2013年7月10日,旬報社)

これは、スーザン・ジョージの著書『これは誰の危機か、未来は誰のものか』(2011年,岩波書店)からの引用ということだ。
それにしても、一年365日、毎日1200万円以上使う生活なんて、可能かどうかも分からないし、私でなくとも普通の人なら、その様子を想像してみる意欲さえ湧かないだろう。
お金はいくらあっても邪魔にならないという人もいるが、このくらいになると、なにかしら邪魔になるのではないかと思うのは、貧乏人の僻みだろうか?
彼ら「富豪」から見て、ものの数にも入らない低賃金労働者の僻み・・・。
しかし私は、彼らの仲間に入れてもらえなくても、一向に構わないという気がする。
「利他」ということを考えないで生きるのは、私は恐ろしくて嫌だからだ。
「情けは人のためならず」ということわざだってある。

あの世にいかねばならぬ間際には、使い切れないほどの財産で豪奢な生活をした事なんて、支えになるとは思えない。

日本の「一流」企業を評価する物差しとして、「社会的貢献」ということが捨て去られたのは、いつのことだろう?
リーマンショックの頃からか?それほど昔の事ではないはずだ。
企業への好感度が、日本国内の「雇用」や社員の「厚生」、地域経済への寄与、等によって左右されていた時代には、もう決して戻らないのだろうか?
「チョコレートディスコ」のピアノバージョンと「美しい日本」の風景を取り合わせたCMも、ひねくれ者の私には日本を「利用」しているようにしか受け止められない。
ハイブリッド車の開発にしても、日本の「工学部」が養成した技術者たちが中心にやっているはずだ。
工学士一人養成するのに、日本人の税金がどれだけ投じられているか?
学生から授業料を集めただけで、大学教育が立ち行くはずないじゃないか!特に、医学部だの工学部だのは。
グローバル化で欧米の大学卒の技術者たちが主になってる訳でもないのだろうから、「トヨタ」は先頭に立って、日本に還元すべきなのに、日本から取りたい一方のようだ。
今やもう、あれらを「ハゲタカ」企業と呼ぶのが、実態に合っているのではないか?

二宮の著書では、「貨幣数量説」への批判が面白い。「マネタリーベース」と「マネーストック」の問題が、素人にも分かるように書かれている。
→→旬報社ホームページ
次の記事で、少し紹介できればと思う。

今、「SOHO」と呼べば聞こえはいいが、要するに請負の仕事を薄利でやっていて、手一杯である。
それで、記事を書くにも資料を読む時間がない。この記事も、どうにか書いた・・・。
以前なら、正社員が社内でやっていた仕事が、非正規雇用でさえないネット上のフリーランスに、雀の涙ほどの報酬と引き替えに回されている。
日本の企業は、こんな事をやっていていいのだろうか?
私が体験しているのは、日本が衰退していく具体的な過程かもしれない。


[2014/03/20 06:30] | 金融政策と日本の行方
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破壊的な状況を(我知らず)待ち望む、という大変恐ろしいことが、人間の心の中では起こる場合がある。
アンネ・フランクの本を破損したり、戦争に前のめりになったり、とは最近の日本に限ったことではない。

私は、私の人間性を疑われかねないのだが、恥を忍んで自分の経験を明かそうと思う。そして、「右翼化」しているというより「暴力的なもの」が悪びれもせず表を歩いている今の日本の風潮に、ちっぽけな歯止めを掛けたいと願う。

私はつい3年くらい前まで、自分の心の中に湧き上がる奇怪な想念に、悩まされていた。
「飛行機が墜ちればいいのに」という考えが、打ち消しても打ち消しても浮かんでくるのだった。
自分の忌まわしい「願望」を否定し去ろうと、日航機墜落の際の報道をあえて思い起こしたりしたが、どうしてもその考えが心に浮かんでしまう。
自分が悪魔のように思えて、人にも相談できず悩んでいたが、以前から折に触れて河合隼雄の本に助けられていたことを思い出し、本家本元のユングを読んでみることにした。

カール・グスタフ・ユングとその高弟ノイマンの著書を何冊も読んだ結果、私が幼少期からタブーとされてきた、次のような考え方・行動をとれるようになった。

(血縁のある)家族を「無条件に」受け入れることは、時として難しいし、受け入れるべきではない場合さえある。

ユングやノイマンがそのように明言しているわけではない。しかし、彼らの「暗い」人間観は、エセ家族への疑いを持つことが反道徳的でも何でもない、むしろ当たり前のことだと、私の背中を押してくれた。
それで私は、母親とその母親(祖母)に対して宣言した。
「これまでの間違った態度を改めるなら話は別だが、あくまで自分たちが正しいと言い張るなら、生きて顔を合わせることは二度とない」と、言うべきことを言い、実際に音信不通となるよう、いろんな手段を執った。
祖母らに押しつけられた「霊友会」なるエセ仏教とも、縁を切った。
このブログを始めた頃のことだ。

それからしばらくして、気づくと、あの悪魔のような想念が一切、私の心に浮かばなくなっていた。
私はどうやら、因果を把握することに成功し、悪い原因を正しく断ち切ったようだ。

親孝行だの、人助けの「菩薩」の行いだの、色んな「作り話」を受け入れるようコントロールされて、自分が何に腹を立てているのかさえ自覚できないようにされれば、人間はあらぬ方向に、その怒りを向けるようになってしまう。
「江戸の敵を長崎で討つ」というやつだ。
街頭で、あらぬ方向を実際に切りつけて、刑罰を受ける人もいる。
しかし私もそうだが、実際に自分の手を下さずに、何か大きな力を持つものに頼って「災厄」を引き起こしてもらおう、と願う人間の方が、多いのだろう。そうすれば自分は汚れずに、罰も受けずに済む。
人間は、他の何かを傷害している時でさえ、自分自身は傷つかない為の「装置」の中にいるものだ。「作り話」とは都合のいい「装置」だ。
だから、自分が「江戸の敵を長崎で討」ちたがっているとは、人はなかなか自覚できない。むしろ、自覚を逃れようとする。

しかし、自覚なしに「災厄」を望み、大勢の人が破壊的な状況に陥ることを是とする心は、それを高みから(?)望んでいる人をも、壊していくだろう。
もっとも、今の日本のように間違った事がまかり通り、引き返し難く見えたりすると、あとは野となれ山となれ、とばかりに、よく考えもせずに悪い方向へ行きたがっている人が増えているのかもしれないが・・・。

私は自分の内なる悪魔の声に悩まされていたが、同じ環境で虐げられていた私の弟は、中学生の頃、ヒトラーに心酔していた。
彼が小学校高学年から中学校にかけてのことだったが、「アウシュビッツ」とか「ハーケンクロイツ」とか「ホロコースト」とか、恐ろしい言葉をわざと口にして、喜んでいるように見えた。ナチスの将校の名前を、ずいぶん聞かされたが、英雄扱いだった。
私は当時、何故そのようなものを弟が崇拝するのか全く理解できず、ひたすら気味が悪かった。
しかし、今思えば、弟もまた、怒りをあらぬ方向へ向けていたのだろう。
母親や祖母のやり方は、外から批判されないよう周到で、陰にこもっていたし、彼女らを非難するのは許されないと、弟もまた思い込まされてきたのだから。
今現在は、弟は、ナチスを崇拝していたことなど、忘れているかもしれない。
私よりもずっと早く彼女らと縁を切り、自分の家族を持っている。自分のライフサイクルを、まっとうに経ようと努力しているようだ。

人は、全ての抑圧からは逃れられないが、それらをできる限り取り除く方向で、いつまでもいつまでも、努力すべきなのだ。



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[2014/03/12 17:00] | 右翼・戦争・カルト
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