アンチ-ロマンチシズムと文学との幸福な共存を謀ります。当面、「炭鉱のカナリア」になる決意をしました。第二次安倍政権の発足以来、国民は墨を塗られるだろうと予測していましたが、嫌な予感が現実になりつつあります。日本人の心性や「日本国憲法」の問題などを取り上げながら、自分の明日は自分で決めることの大切さを、訴えていきたいと思います。
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家族は、社会の自然かつ基礎的な単位として、尊重される。家族は、互いに助け合わなければならない。
(自民党「日本国憲法改正草案」第24条)

草案は、「個人」の尊重を「人」の尊重に変える一方で、「家族」という集団を「人」と同程度に尊重しています。憲法の窮極の価値は「個人」の尊重であるはずなのに、草案が尊重するのは、個性を失った「人」であり、集団である「家族」です。個の自立(自律)は徹底的に排除されています。
(『憲法は誰のもの?』伊藤真,岩波ブックレット,p41)

どうも自民党の代議士達というのは、「集団」の中に埋没するのが好きな人たちであり、そういう自分達の好みを全員が受け入れれば社会が良くなる、と安易に思っている様だ。
家族は、社会の極めて重要な存在ですが、昨今、家族の絆が薄くなってきていると言われています。
(「日本国憲法改正草案Q&A」,Q19の回答より/p16,PDFの22枚目)
それで、(日本の心を失った自己中な)国民に、(尊い伝統を取り戻したい)代議士が「家族は、互いに助け合わなければならない」と教えを垂れるのだそうだ。

確かに「」によって救われることもあるが、「絆」が人間を抑圧する時、「絆」の強要ほど恐ろしい行為はない。
家族は、互いに助け合わなければならない」と、憲法に書かれてしまえば、そうでなくても家族の頸木を自分から進んで首に掛けがちな日本人は、どうなってしまうか??
日本の「伝統」として、中国由来の「儒教」道徳も、日本人の心に深く浸透している・・・。家族・血族の絆を重視せよ、家族は「無条件に」尊重せよ、という脅迫的な声に屈している日本人は少なくない。
すでに十分に、地縁血縁に縛られすぎの日本人である。親の介護のためなら、転勤を断って退職し、無収入にさえなる人々もいる・・・。彼らは将来、年金減額か無年金になるだろう。
その上に憲法が書き換えられれば、日本人は、取り替えのきかない「個人」であることを、完全に諦めるしかなかろう。各人は、一度きりの「人生」を、「絆」の美名で放棄させられる。
そうやって「個人」を放棄し、家族のためなら満足だ、という外ヅラをしながらも、押さえ込んだ恨みは「江戸の敵を長崎で討つ」といった形で噴き出し、マスコミはまた愚かしく、「心の闇」だと首を傾げるのだろう。
しかし、飼い犬を殺処分された「子」が、保健所に連れて行った「親」ではなく、元官僚を襲ったのは、「江戸の敵を長崎で討」ったのだ。
「集団」の価値によって「個人」を押さえ込む社会は、そういう歪んだ形で反撃を受けるということを、知っておくべきだ。押さえ込み表面を整えて得られる安心、のなんと危ういことか・・・。


行き過ぎた個人主義によって、社会が悪くなったと、自民党は主張する。しかし戦後の日本が、どれ程「個人」を大切にしてきただろう?
むしろ「個人」主義が徹底されないから、あちこちで「恨み」が噴出していると、私には見える。
日本の家族は、過度に抑圧的だからこそ、各人が潰されまいと、家族を大きく解体してしまうのだ。
逆に、家族が緩やかな「個人」のつながりなら、家族解体の方向には進まないんじゃないか。国家が上から目線で教えを垂れるまでもなく、「個人」は家族のつながりを有り難く思うだろう。

自民党は、人間認識と状況分析を決定的に誤っている。

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家族間で相互の助け合いが出来ている場合、そういう家族の一員である人は、幸福である。
がしかし、家族が互いに助け合うのは、「・・・ねばならない」と言われて出来るほど容易でなく、むしろ絶望的なまでに難しい場合が多い。
「密室」である家族は、「不正」の種さえ育み、搾取や「共依存」など、「個人」の恨みの温床でもある。
親子兄弟に限らず、祖父と孫、叔父と甥等まで広げれば、「不正」のために音信不通にならざるを得ないような、困難を抱えている人は、案外多いのではないか。
親戚を見渡せば、平穏な日常の「破壊者」が一人くらい居たりするものだ。
他人であれば犯罪として裁かれる「マフィア」的言動でも、家族間では「独裁者」の天国である現実さえあり、身を守るためには関わらないことが唯一の方法である場合も多い。

近年ようやく、家族の「密室」を第三者に開くことで、児童や老人への虐待に対応しようという動きが出てきた。家庭内暴力に限らず、「密室」を開いていくことは、社会改良に欠かせない、現代の潮流だ。
家庭で高齢者を虐待した人のうち、6割が「孤立介護」をしていたという、「日本高齢者虐待防止学会」などによる調査結果がある。(『朝日新聞』,2013.4.7)
「介護の社会化」も遅々として進まない中、「密室」へ逆進させる価値観を、むしろ取り除いていくべき時に、自民党は何をしようとしているのか?
憲法で「・・・なければならない」と義務づければ、家族の中だけで抱え込んでしまう人が、確実に増えるだろう。
ただでさえ、第三者に救助を求めるのは、その「密室」性ゆえに難しいのだから。

こんな甚だしい問題のある、家族助け合い義務を、25条の「生存権保障条項」のすぐ前に置いたことには意味があると、伊藤氏は言う(p41)。要は、福祉を切り捨てる為の地ならしだということ。そうして、浮いたお金は軍事費に使うという狙い。
安倍自民がやろうとしているのは、「富国強兵」という単なる時代錯誤な政策ではなく、「富国家強兵棄国民」というタチの悪い企みなのだ。

憲法や民法で規定されるまでもなく、家族相互が助け合えた方が、「個人」にとって寧ろラクなのだ。精神的支援でもあれば、格段生きやすい。それが不可能な家族には、そうなるだけの理由があって、しんどい思いをしている。
だから、憲法の義務規定は、既に出来ている家族には意味がなく、何時までも出来ない家族を標的にし、一種の「社会的弱者」抑圧にさえなるだろう。
各家族の状況については、「個人」の努力では改善できない、選択さえ出来ないことがある。
自民党は一口に「家族」というが、親子関係が夫婦関係よりも重視されがちな日本では一層、どんな「家族」の下に生まれたかが、「身分差別」と同じように機能することを、為政者は認識すべきだ。

これは、価値観の違いなどという生易しい問題ではない。
最高法規である憲法が、家族扶養の義務を唱えるようになれば、「民法」もそれに合わせて書き換えられ、私達の生活の現場は、強烈に抑圧されるようになるだろう。
良くも悪くも一生ついて回る「家族」を最高法規に持ち込み、反論する疚しさや痛みで個人を黙らせ、「天賦の」苦労だと思わせれば、為政者への批判をかわすことが出来る。
安倍自民というのは、なんと冷酷なのだろう。そして、なんとやり方が汚いのだろう。


(坂本龍一のミスタッチまで再現する、投稿者の「東風」への愛!)

世の中には様々な人間がいるものだが、こんなにも違うものか・・・。
気力も体力も尽きたかと思うところに、新芽が吹くような感覚を呼び起こしてくれる人間。
かたや、芽を出そう、次へ行こうとしている人間を、差し出がましく芽を摘む人間。
そう。人間は本来、次の段階へ移行しようとするものなのに。そうして、自立(自律)するのが自然なのに。

舛添要一氏は、自民党の改憲案を批判して、個人の対極には国家権力があるが、「人」の対極にあるのは動物だと言っている。
その他の政策はともかく、この点に限っては、舛添氏はマトモだ。
「個人」の「個」を除いて残るのは、「類」や「種」としての「人」である。
「個」を失ったどの「人」にも共通するのは何か?
生まれて、食べて、排泄して、寝て、・・・死んで、という動物的な部分である。自民党によって「尊重」してもらえるのは、こんな部分であり(改正草案13条)、他の人間らしい部分がどう扱われるかは、他の酷い条文に書かれてある。

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[2014/02/24 16:45] | 憲法問題
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