家族は、社会の自然かつ基礎的な単位として、尊重される。家族は、互いに助け合わなければならない。
(自民党「日本国憲法改正草案」第24条)
草案は、「個人」の尊重を「人」の尊重に変える一方で、「家族」という集団を「人」と同程度に尊重しています。憲法の窮極の価値は「個人」の尊重であるはずなのに、草案が尊重するのは、個性を失った「人」であり、集団である「家族」です。個の自立(自律)は徹底的に排除されています。
(『憲法は誰のもの?』伊藤真,岩波ブックレット,p41)
どうも自民党の代議士達というのは、「集団」の中に埋没するのが好きな人たちであり、そういう自分達の好みを全員が受け入れれば社会が良くなる、と安易に思っている様だ。
「家族は、社会の極めて重要な存在ですが、昨今、家族の絆が薄くなってきていると言われています。」
(「日本国憲法改正草案Q&A」,Q19の回答より/p16,PDFの22枚目)
それで、(日本の心を失った自己中な)国民に、(尊い伝統を取り戻したい)代議士が「家族は、互いに助け合わなければならない」と教えを垂れるのだそうだ。
確かに「絆」によって救われることもあるが、「絆」が人間を抑圧する時、「絆」の強要ほど恐ろしい行為はない。
「家族は、互いに助け合わなければならない」と、憲法に書かれてしまえば、そうでなくても家族の頸木を自分から進んで首に掛けがちな日本人は、どうなってしまうか??
日本の「伝統」として、中国由来の「儒教」道徳も、日本人の心に深く浸透している・・・。家族・血族の絆を重視せよ、家族は「無条件に」尊重せよ、という脅迫的な声に屈している日本人は少なくない。
すでに十分に、地縁血縁に縛られすぎの日本人である。親の介護のためなら、転勤を断って退職し、無収入にさえなる人々もいる・・・。彼らは将来、年金減額か無年金になるだろう。
その上に憲法が書き換えられれば、日本人は、取り替えのきかない「個人」であることを、完全に諦めるしかなかろう。各人は、一度きりの「人生」を、「絆」の美名で放棄させられる。
そうやって「個人」を放棄し、家族のためなら満足だ、という外ヅラをしながらも、押さえ込んだ恨みは「江戸の敵を長崎で討つ」といった形で噴き出し、マスコミはまた愚かしく、「心の闇」だと首を傾げるのだろう。
しかし、飼い犬を殺処分された「子」が、保健所に連れて行った「親」ではなく、元官僚を襲ったのは、「江戸の敵を長崎で討」ったのだ。
「集団」の価値によって「個人」を押さえ込む社会は、そういう歪んだ形で反撃を受けるということを、知っておくべきだ。押さえ込み表面を整えて得られる安心、のなんと危ういことか・・・。
行き過ぎた個人主義によって、社会が悪くなったと、自民党は主張する。しかし戦後の日本が、どれ程「個人」を大切にしてきただろう?
むしろ「個人」主義が徹底されないから、あちこちで「恨み」が噴出していると、私には見える。
日本の家族は、過度に抑圧的だからこそ、各人が潰されまいと、家族を大きく解体してしまうのだ。
逆に、家族が緩やかな「個人」のつながりなら、家族解体の方向には進まないんじゃないか。国家が上から目線で教えを垂れるまでもなく、「個人」は家族のつながりを有り難く思うだろう。
自民党は、人間認識と状況分析を決定的に誤っている。

家族間で相互の助け合いが出来ている場合、そういう家族の一員である人は、幸福である。
がしかし、家族が互いに助け合うのは、「・・・ねばならない」と言われて出来るほど容易でなく、むしろ絶望的なまでに難しい場合が多い。
「密室」である家族は、「不正」の種さえ育み、搾取や「共依存」など、「個人」の恨みの温床でもある。
親子兄弟に限らず、祖父と孫、叔父と甥等まで広げれば、「不正」のために音信不通にならざるを得ないような、困難を抱えている人は、案外多いのではないか。
親戚を見渡せば、平穏な日常の「破壊者」が一人くらい居たりするものだ。
他人であれば犯罪として裁かれる「マフィア」的言動でも、家族間では「独裁者」の天国である現実さえあり、身を守るためには関わらないことが唯一の方法である場合も多い。
近年ようやく、家族の「密室」を第三者に開くことで、児童や老人への虐待に対応しようという動きが出てきた。家庭内暴力に限らず、「密室」を開いていくことは、社会改良に欠かせない、現代の潮流だ。
家庭で高齢者を虐待した人のうち、6割が「孤立介護」をしていたという、「日本高齢者虐待防止学会」などによる調査結果がある。(『朝日新聞』,2013.4.7)
「介護の社会化」も遅々として進まない中、「密室」へ逆進させる価値観を、むしろ取り除いていくべき時に、自民党は何をしようとしているのか?
憲法で「・・・なければならない」と義務づければ、家族の中だけで抱え込んでしまう人が、確実に増えるだろう。
ただでさえ、第三者に救助を求めるのは、その「密室」性ゆえに難しいのだから。
こんな甚だしい問題のある、家族助け合い義務を、25条の「生存権保障条項」のすぐ前に置いたことには意味があると、伊藤氏は言う(p41)。要は、福祉を切り捨てる為の地ならしだということ。そうして、浮いたお金は軍事費に使うという狙い。
安倍自民がやろうとしているのは、「富国強兵」という単なる時代錯誤な政策ではなく、「富国家強兵棄国民」というタチの悪い企みなのだ。
憲法や民法で規定されるまでもなく、家族相互が助け合えた方が、「個人」にとって寧ろラクなのだ。精神的支援でもあれば、格段生きやすい。それが不可能な家族には、そうなるだけの理由があって、しんどい思いをしている。
だから、憲法の義務規定は、既に出来ている家族には意味がなく、何時までも出来ない家族を標的にし、一種の「社会的弱者」抑圧にさえなるだろう。
各家族の状況については、「個人」の努力では改善できない、選択さえ出来ないことがある。
自民党は一口に「家族」というが、親子関係が夫婦関係よりも重視されがちな日本では一層、どんな「家族」の下に生まれたかが、「身分差別」と同じように機能することを、為政者は認識すべきだ。
これは、価値観の違いなどという生易しい問題ではない。
最高法規である憲法が、家族扶養の義務を唱えるようになれば、「民法」もそれに合わせて書き換えられ、私達の生活の現場は、強烈に抑圧されるようになるだろう。
良くも悪くも一生ついて回る「家族」を最高法規に持ち込み、反論する疚しさや痛みで個人を黙らせ、「天賦の」苦労だと思わせれば、為政者への批判をかわすことが出来る。
安倍自民というのは、なんと冷酷なのだろう。そして、なんとやり方が汚いのだろう。
(坂本龍一のミスタッチまで再現する、投稿者の「東風」への愛!)
世の中には様々な人間がいるものだが、こんなにも違うものか・・・。
気力も体力も尽きたかと思うところに、新芽が吹くような感覚を呼び起こしてくれる人間。
かたや、芽を出そう、次へ行こうとしている人間を、差し出がましく芽を摘む人間。
そう。人間は本来、次の段階へ移行しようとするものなのに。そうして、自立(自律)するのが自然なのに。
舛添要一氏は、自民党の改憲案を批判して、個人の対極には国家権力があるが、「人」の対極にあるのは動物だと言っている。
その他の政策はともかく、この点に限っては、舛添氏はマトモだ。
「個人」の「個」を除いて残るのは、「類」や「種」としての「人」である。
「個」を失ったどの「人」にも共通するのは何か?
生まれて、食べて、排泄して、寝て、・・・死んで、という動物的な部分である。自民党によって「尊重」してもらえるのは、こんな部分であり(改正草案13条)、他の人間らしい部分がどう扱われるかは、他の酷い条文に書かれてある。
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(自民党「日本国憲法改正草案」第24条)
草案は、「個人」の尊重を「人」の尊重に変える一方で、「家族」という集団を「人」と同程度に尊重しています。憲法の窮極の価値は「個人」の尊重であるはずなのに、草案が尊重するのは、個性を失った「人」であり、集団である「家族」です。個の自立(自律)は徹底的に排除されています。
(『憲法は誰のもの?』伊藤真,岩波ブックレット,p41)
どうも自民党の代議士達というのは、「集団」の中に埋没するのが好きな人たちであり、そういう自分達の好みを全員が受け入れれば社会が良くなる、と安易に思っている様だ。
「家族は、社会の極めて重要な存在ですが、昨今、家族の絆が薄くなってきていると言われています。」
(「日本国憲法改正草案Q&A」,Q19の回答より/p16,PDFの22枚目)
それで、(日本の心を失った自己中な)国民に、(尊い伝統を取り戻したい)代議士が「家族は、互いに助け合わなければならない」と教えを垂れるのだそうだ。
確かに「絆」によって救われることもあるが、「絆」が人間を抑圧する時、「絆」の強要ほど恐ろしい行為はない。
「家族は、互いに助け合わなければならない」と、憲法に書かれてしまえば、そうでなくても家族の頸木を自分から進んで首に掛けがちな日本人は、どうなってしまうか??
日本の「伝統」として、中国由来の「儒教」道徳も、日本人の心に深く浸透している・・・。家族・血族の絆を重視せよ、家族は「無条件に」尊重せよ、という脅迫的な声に屈している日本人は少なくない。
すでに十分に、地縁血縁に縛られすぎの日本人である。親の介護のためなら、転勤を断って退職し、無収入にさえなる人々もいる・・・。彼らは将来、年金減額か無年金になるだろう。
その上に憲法が書き換えられれば、日本人は、取り替えのきかない「個人」であることを、完全に諦めるしかなかろう。各人は、一度きりの「人生」を、「絆」の美名で放棄させられる。
そうやって「個人」を放棄し、家族のためなら満足だ、という外ヅラをしながらも、押さえ込んだ恨みは「江戸の敵を長崎で討つ」といった形で噴き出し、マスコミはまた愚かしく、「心の闇」だと首を傾げるのだろう。
しかし、飼い犬を殺処分された「子」が、保健所に連れて行った「親」ではなく、元官僚を襲ったのは、「江戸の敵を長崎で討」ったのだ。
「集団」の価値によって「個人」を押さえ込む社会は、そういう歪んだ形で反撃を受けるということを、知っておくべきだ。押さえ込み表面を整えて得られる安心、のなんと危ういことか・・・。
行き過ぎた個人主義によって、社会が悪くなったと、自民党は主張する。しかし戦後の日本が、どれ程「個人」を大切にしてきただろう?
むしろ「個人」主義が徹底されないから、あちこちで「恨み」が噴出していると、私には見える。
日本の家族は、過度に抑圧的だからこそ、各人が潰されまいと、家族を大きく解体してしまうのだ。
逆に、家族が緩やかな「個人」のつながりなら、家族解体の方向には進まないんじゃないか。国家が上から目線で教えを垂れるまでもなく、「個人」は家族のつながりを有り難く思うだろう。
自民党は、人間認識と状況分析を決定的に誤っている。

家族間で相互の助け合いが出来ている場合、そういう家族の一員である人は、幸福である。
がしかし、家族が互いに助け合うのは、「・・・ねばならない」と言われて出来るほど容易でなく、むしろ絶望的なまでに難しい場合が多い。
「密室」である家族は、「不正」の種さえ育み、搾取や「共依存」など、「個人」の恨みの温床でもある。
親子兄弟に限らず、祖父と孫、叔父と甥等まで広げれば、「不正」のために音信不通にならざるを得ないような、困難を抱えている人は、案外多いのではないか。
親戚を見渡せば、平穏な日常の「破壊者」が一人くらい居たりするものだ。
他人であれば犯罪として裁かれる「マフィア」的言動でも、家族間では「独裁者」の天国である現実さえあり、身を守るためには関わらないことが唯一の方法である場合も多い。
近年ようやく、家族の「密室」を第三者に開くことで、児童や老人への虐待に対応しようという動きが出てきた。家庭内暴力に限らず、「密室」を開いていくことは、社会改良に欠かせない、現代の潮流だ。
家庭で高齢者を虐待した人のうち、6割が「孤立介護」をしていたという、「日本高齢者虐待防止学会」などによる調査結果がある。(『朝日新聞』,2013.4.7)
「介護の社会化」も遅々として進まない中、「密室」へ逆進させる価値観を、むしろ取り除いていくべき時に、自民党は何をしようとしているのか?
憲法で「・・・なければならない」と義務づければ、家族の中だけで抱え込んでしまう人が、確実に増えるだろう。
ただでさえ、第三者に救助を求めるのは、その「密室」性ゆえに難しいのだから。
こんな甚だしい問題のある、家族助け合い義務を、25条の「生存権保障条項」のすぐ前に置いたことには意味があると、伊藤氏は言う(p41)。要は、福祉を切り捨てる為の地ならしだということ。そうして、浮いたお金は軍事費に使うという狙い。
安倍自民がやろうとしているのは、「富国強兵」という単なる時代錯誤な政策ではなく、「富国家強兵棄国民」というタチの悪い企みなのだ。
憲法や民法で規定されるまでもなく、家族相互が助け合えた方が、「個人」にとって寧ろラクなのだ。精神的支援でもあれば、格段生きやすい。それが不可能な家族には、そうなるだけの理由があって、しんどい思いをしている。
だから、憲法の義務規定は、既に出来ている家族には意味がなく、何時までも出来ない家族を標的にし、一種の「社会的弱者」抑圧にさえなるだろう。
各家族の状況については、「個人」の努力では改善できない、選択さえ出来ないことがある。
自民党は一口に「家族」というが、親子関係が夫婦関係よりも重視されがちな日本では一層、どんな「家族」の下に生まれたかが、「身分差別」と同じように機能することを、為政者は認識すべきだ。
これは、価値観の違いなどという生易しい問題ではない。
最高法規である憲法が、家族扶養の義務を唱えるようになれば、「民法」もそれに合わせて書き換えられ、私達の生活の現場は、強烈に抑圧されるようになるだろう。
良くも悪くも一生ついて回る「家族」を最高法規に持ち込み、反論する疚しさや痛みで個人を黙らせ、「天賦の」苦労だと思わせれば、為政者への批判をかわすことが出来る。
安倍自民というのは、なんと冷酷なのだろう。そして、なんとやり方が汚いのだろう。
(坂本龍一のミスタッチまで再現する、投稿者の「東風」への愛!)
世の中には様々な人間がいるものだが、こんなにも違うものか・・・。
気力も体力も尽きたかと思うところに、新芽が吹くような感覚を呼び起こしてくれる人間。
かたや、芽を出そう、次へ行こうとしている人間を、差し出がましく芽を摘む人間。
そう。人間は本来、次の段階へ移行しようとするものなのに。そうして、自立(自律)するのが自然なのに。
舛添要一氏は、自民党の改憲案を批判して、個人の対極には国家権力があるが、「人」の対極にあるのは動物だと言っている。
その他の政策はともかく、この点に限っては、舛添氏はマトモだ。
「個人」の「個」を除いて残るのは、「類」や「種」としての「人」である。
「個」を失ったどの「人」にも共通するのは何か?
生まれて、食べて、排泄して、寝て、・・・死んで、という動物的な部分である。自民党によって「尊重」してもらえるのは、こんな部分であり(改正草案13条)、他の人間らしい部分がどう扱われるかは、他の酷い条文に書かれてある。
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現行憲法が国民の人権を制約する根拠は、「公共の福祉」である。
この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によって、これを保持しなければならない。又、国民は、これを濫用してはならないのであって、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ。
(「日本国憲法」第12条)
「公共の福祉」とは、“public welfare”であり、“public”とは「人々の集まり」を意味します。ですから、公共の福祉による人権制約とは、あくまでも「多くの人たちの福祉のため」とか、「各々の人の幸せのため」、ある個人が人権を制限されうるという意味です。
(『憲法は誰のもの?』伊藤真,岩波ブックレット,p37)
ところが、自民党の「憲法改正草案」では、この「公共の福祉」が、「公益及び公の秩序」に置き換えられている。
この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力により、保持されなければならない。国民は、これを濫用してはならず、自由及び権利には責任及び義務が伴うことを自覚し、常に公益及び公の秩序に反してはならない。
(自民党「日本国憲法改正草案」第12条)
この置き換えについて、自民党は「日本国憲法改正草案Q&A」で、理由を説明をしている。
変更の理由は2つあって、1つには「公共の福祉」という言葉が「曖昧」だから。
もう1つは、これが自民党の真の狙いであるが、人権の制約は、「人権相互の衝突の場合に限られるものではないことを明らかに」したいという理由。
「日本国憲法改正草案Q&A」(p13-14,PDFの19枚目-20枚目)から、少し長くなるが、Q15とその回答の全体を引用すると。
(アンダーラインや色文字は、あとで問題にする部分です。)
********************************************************
Q15
「公共の福祉」を「公益及び公の秩序」に変えたのは、なぜですか?
答
従来の「公共の福祉」という表現は、その意味が曖昧で、分かりにくいものです。そのため、学説上は「公共の福祉は、人権相互の衝突の場合に限って、その権利行使を制約するものであって、個々の人権を超えた公益による直接的な権利制約を正当化するものではない」などという解釈が主張されています。しかし、街の美観や性道徳の維持などを人権相互の衝突という点だけで説明するのは困難です。
今回の改正では、このように意味が曖昧である「公共の福祉」という文言を「公益及び公の秩序」と改正することにより、その曖昧さの解消を図るとともに、憲法によって保障される基本的人権の制約は、人権相互の衝突の場合に限られるものではないことを明らかにしたものです。
(国際人権規約における人権制約の考え方)
我が国も批准している国際人権規約でも、「国の安全、公の秩序又は公衆の健康保護」といった人権制約原理が明示されているところです。また、諸外国の憲法にも、公共の利益や公の秩序の観点から人権が制約され得ることを定めたものが見られます。
(公の秩序の意味)
なお、「公の秩序」と規定したのは、「反国家的な行動を取り締まる」ことを意図したものではありません。「公の秩序」とは「社会秩序」のことであり、平穏な社会生活のことを意味します。個人が人権を主張する場合に、人々の社会生活に迷惑を掛けてはならないのは、当然のことです。そのことをより明示的に規定しただけであり、これにより人権が大きく制約されるものではありません。
*****************************************************
まず草案は、「公共の福祉」は「人権相互の衝突の場合に限って、その権利行使を制約するもの」という学説が「曖昧」だとする。
しかし、伊藤氏が言うように「公共の福祉」という概念は、「人権への制約を最小限度に抑える発想になじみます。公共の福祉の具体的な内容は個別・具体的に判断される」(p39)という事を前提にすれば、特に「曖昧」とする程ではない。
(むしろ、前回の記事に書いたように、日本の「伝統」などという「曖昧」なものに従って人権を制約しようとしているのを、自民党は反省すべきだろう。)
「街の美観や性道徳の維持」などの問題で、「人権相互の衝突」が生じた場合、現在は「条例」などを設けて対処ができている。
「街の美観」。例えば、マクドナルドの派手な看板が京都の町並みに合うかどうか、といった問題は、企業と市民と都市の各々の権利について、話し合いで決定し、必要なら修正すれば済むことだ。
「性道徳の維持」。これは、いわゆる「児童ポルノ」、漫画の表現規制などを想定しているのだろうか??
それならば、やはり「条例」と、「条例」を議論するなかで決めていくべき事だろう。
(ここで「性道徳」を持ち出しているのが、いかにも自民党らしく、怪しい。「性道徳」が、個々人の生き方に関わるところまで含んでいるなら、そんな事を主張するのは、恐ろしい考えを持った人間の集団だ。国民の「性道徳」を、「人権相互の衝突」以外のところで縛る意図があるならば、非人道的な規制に陥るだろう。)
このように、「曖昧さの解消」とは、国民を言いくるめる為に取って付けたようなもので、真の狙いは「憲法によって保障される基本的人権の制約は、人権相互の衝突の場合に限られるものではない」とすることだ。
そこで、「人権相互の衝突の場合」以外に、国民の人権を制約するのが、「公益及び公の秩序」なのである。
「公益」は“national interest”であり、伊藤氏が指摘するように「国益」につながる。
国民の「性道徳」という、本来極めて個人的な部分まで、「公益」=「国益」と「公の秩序」に反しない範囲で保障する、と言いたいのだろう。
(もう、国民が家畜に見えているんだろう・・・。)
(公の秩序の意味)という項で、「「反国家的な行動を取り締まる」ことを意図したものではありません」と明言されても、「Q&A」は「憲法」ではないから。
「特定秘密保護法」の場合と同じで、自民党が丁寧な「説明」をしても何の意味もなく、あくまでも「条文」がどうなっているかが問題なのだ。
たとえば、インターネットで与党を批判したり、原発情報を調査することは、今よりも制限されるでしょう。政府の政策を批判すれば、それを政府は国益に反する発言と判断して規制できます。原発の安全性への疑念を抱かせる情報は、国民に不安を与えたり、国策としての原発推進を妨げるため、社会的混乱を招くと判断されるでしょう。また、漫画やアニメも、〈お上〉の判断で残虐だとかわいせつだという理由をつけられれば、即座に規制されます。特に、クリエイティブな仕事をしている人たちが受ける打撃は大きいでしょう。芸術などの世界では、既存の価値観に批判的であったり、理解しにくいものが最先端の表現であることも多いものです。当初は顔をしかめられる表現が、後に文化や芸術を進歩させることはよくあることです。(後略)
(『憲法は誰のもの?』,p38-39)
**************************************************************
ここで、いつもながらゴチャついた記事を、もっとゴチャつかせる写真を1枚。
北海道斜里郡清里町(オホーツク総合振興局内)にある「神の子池」。憲法についての一連の記事で、「神の子池」とその周辺の写真をupしてます。池の水は、本当にこういう神秘的な青色です。池にたどり着くのは、秘境探索の如く、けっこう大変です。

**************************************************************
今日の最後に、(国際人権規約における人権制約の考え方)の項について。
「Q&A」のこの項では、「国際人権規約」や「諸外国の憲法」でも、人権が制約されているのだから、自民党が「改憲」して人権を制約するのは正当だ、と主張したいらしい。
「諸外国の憲法」とは、具体的にどこの憲法のことを言っているのか、自民党に確かめる必要があるが、それにしても私達は、発展途上のものに合わせる必要があるだろうか?
言い換えると、レベルの低いところへ降りていくべきだろうか???
誰が好きこのんで、管理され搾取される家畜に近付きたいかw。
それに、「国際人権規約」といった、厳格に「普遍的」である立場と比較すると、「国連の規約人権委員会」と「日本政府」との間では、人権を「制約」する基本的な態度に、そもそもズレが生じているのだ。
どういうことかと言うと、「国際人権規約」の条文の英語“public”を、日本政府が「公(おおやけ)」と翻訳する際に、「日本語的な権力性」が入り込んでしまう、ということだ。
「浦部法穂の憲法時評」(→→「憲法の言葉」シリーズ②「公共」または「公」)は、「国際人権規約自由権規約第18条」の英語の正文とその日本語訳(日本政府訳)を比べて、興味深い論を展開している。
“Freedom to manifest one's religion or beliefs may be subject only to such limitations as are prescribed by law and are necessary to protect public safety, order, health, or morals or the fundamental rights and freedoms of others.”
「宗教又は信念を表明する自由については、法律で定める制限であって公共の安全、公の秩序、公衆の健康若しくは道徳又は他の者の基本的な権利及び自由を保護するために必要なもののみを課することができる。」
詳しい議論は「憲法の言葉」シリーズ②を読んでいただくとして、要点を抜き出してみると。
日本語の「公(おおやけ)」とは。
朝廷による支配が確立していく段階で、「おおやけ」は朝廷そのものを指す言葉として使われるようになり、天皇を頂点とする権力機構としての「おおやけ」が形成されていくことになる。その「おおやけ」は「わたくし」の入り込むことのできない領域であり、「わたくし」に優位する権力としての「おおやけ」というものが観念されることになるのである。
現代日本語の「公」という言葉は。
英語の「public」の「みんな」という意味合い、中国語の「公」の倫理性をもった意味合い、そして日本語の「おおやけ」の「権力性」という意味合いが、渾然一体となった形のものとなっている。(中略)
日本語の「おおやけ」は「わたくし」が入り込むことの許されない「わたくし」に優位するものであるから、「わたくし」の権利は「おおやけ」の利益よりも当然一段下に置かれることになる。しかも、そこには「公」の中国語的な意味合いも入り込むから、それが倫理的にも正しいことだ、とするニュアンスさえ込められることになる。
つまり、日本政府が「国際人権規約」に沿っていると主張しても、「公共」から「公」 に書き換える事で、「日本語的な権力性」が強く入り込み、「権力側の都合や利益」が拡大すると言える。
おまけに、現行憲法の「公共」でさえ、「日本語の「おおやけ」のニュアンス」が「渾然一体となっている」。だから、
「公共の福祉」も、「みんなの福祉」という意味にとどまらず、そこに「権力性」が当然のように入り込み、権力側の利益が「公共の福祉」の内容として認められるのは当然のこととされる。
そういう「公共の福祉」という言葉に対し、「国連の規約人権委員会はこれまで再三にわたり、日本政府に対して、そのようなあいまいで抽象的な規定による人権制限は国際人権規約に適合しないという趣旨の勧告をしている。」と、浦部氏は述べている。
自民党「草案」では、「曖昧」という点だけは当たっているのだが、悪いことに「国際人権規約」から一層外れる方向に変えようとしているのだ。
応援よろしくお願いします。
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この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によって、これを保持しなければならない。又、国民は、これを濫用してはならないのであって、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ。
(「日本国憲法」第12条)
「公共の福祉」とは、“public welfare”であり、“public”とは「人々の集まり」を意味します。ですから、公共の福祉による人権制約とは、あくまでも「多くの人たちの福祉のため」とか、「各々の人の幸せのため」、ある個人が人権を制限されうるという意味です。
(『憲法は誰のもの?』伊藤真,岩波ブックレット,p37)
ところが、自民党の「憲法改正草案」では、この「公共の福祉」が、「公益及び公の秩序」に置き換えられている。
この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力により、保持されなければならない。国民は、これを濫用してはならず、自由及び権利には責任及び義務が伴うことを自覚し、常に公益及び公の秩序に反してはならない。
(自民党「日本国憲法改正草案」第12条)
この置き換えについて、自民党は「日本国憲法改正草案Q&A」で、理由を説明をしている。
変更の理由は2つあって、1つには「公共の福祉」という言葉が「曖昧」だから。
もう1つは、これが自民党の真の狙いであるが、人権の制約は、「人権相互の衝突の場合に限られるものではないことを明らかに」したいという理由。
「日本国憲法改正草案Q&A」(p13-14,PDFの19枚目-20枚目)から、少し長くなるが、Q15とその回答の全体を引用すると。
(アンダーラインや色文字は、あとで問題にする部分です。)
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Q15
「公共の福祉」を「公益及び公の秩序」に変えたのは、なぜですか?
答
従来の「公共の福祉」という表現は、その意味が曖昧で、分かりにくいものです。そのため、学説上は「公共の福祉は、人権相互の衝突の場合に限って、その権利行使を制約するものであって、個々の人権を超えた公益による直接的な権利制約を正当化するものではない」などという解釈が主張されています。しかし、街の美観や性道徳の維持などを人権相互の衝突という点だけで説明するのは困難です。
今回の改正では、このように意味が曖昧である「公共の福祉」という文言を「公益及び公の秩序」と改正することにより、その曖昧さの解消を図るとともに、憲法によって保障される基本的人権の制約は、人権相互の衝突の場合に限られるものではないことを明らかにしたものです。
(国際人権規約における人権制約の考え方)
我が国も批准している国際人権規約でも、「国の安全、公の秩序又は公衆の健康保護」といった人権制約原理が明示されているところです。また、諸外国の憲法にも、公共の利益や公の秩序の観点から人権が制約され得ることを定めたものが見られます。
(公の秩序の意味)
なお、「公の秩序」と規定したのは、「反国家的な行動を取り締まる」ことを意図したものではありません。「公の秩序」とは「社会秩序」のことであり、平穏な社会生活のことを意味します。個人が人権を主張する場合に、人々の社会生活に迷惑を掛けてはならないのは、当然のことです。そのことをより明示的に規定しただけであり、これにより人権が大きく制約されるものではありません。
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まず草案は、「公共の福祉」は「人権相互の衝突の場合に限って、その権利行使を制約するもの」という学説が「曖昧」だとする。
しかし、伊藤氏が言うように「公共の福祉」という概念は、「人権への制約を最小限度に抑える発想になじみます。公共の福祉の具体的な内容は個別・具体的に判断される」(p39)という事を前提にすれば、特に「曖昧」とする程ではない。
(むしろ、前回の記事に書いたように、日本の「伝統」などという「曖昧」なものに従って人権を制約しようとしているのを、自民党は反省すべきだろう。)
「街の美観や性道徳の維持」などの問題で、「人権相互の衝突」が生じた場合、現在は「条例」などを設けて対処ができている。
「街の美観」。例えば、マクドナルドの派手な看板が京都の町並みに合うかどうか、といった問題は、企業と市民と都市の各々の権利について、話し合いで決定し、必要なら修正すれば済むことだ。
「性道徳の維持」。これは、いわゆる「児童ポルノ」、漫画の表現規制などを想定しているのだろうか??
それならば、やはり「条例」と、「条例」を議論するなかで決めていくべき事だろう。
(ここで「性道徳」を持ち出しているのが、いかにも自民党らしく、怪しい。「性道徳」が、個々人の生き方に関わるところまで含んでいるなら、そんな事を主張するのは、恐ろしい考えを持った人間の集団だ。国民の「性道徳」を、「人権相互の衝突」以外のところで縛る意図があるならば、非人道的な規制に陥るだろう。)
このように、「曖昧さの解消」とは、国民を言いくるめる為に取って付けたようなもので、真の狙いは「憲法によって保障される基本的人権の制約は、人権相互の衝突の場合に限られるものではない」とすることだ。
そこで、「人権相互の衝突の場合」以外に、国民の人権を制約するのが、「公益及び公の秩序」なのである。
「公益」は“national interest”であり、伊藤氏が指摘するように「国益」につながる。
国民の「性道徳」という、本来極めて個人的な部分まで、「公益」=「国益」と「公の秩序」に反しない範囲で保障する、と言いたいのだろう。
(もう、国民が家畜に見えているんだろう・・・。)
(公の秩序の意味)という項で、「「反国家的な行動を取り締まる」ことを意図したものではありません」と明言されても、「Q&A」は「憲法」ではないから。
「特定秘密保護法」の場合と同じで、自民党が丁寧な「説明」をしても何の意味もなく、あくまでも「条文」がどうなっているかが問題なのだ。
たとえば、インターネットで与党を批判したり、原発情報を調査することは、今よりも制限されるでしょう。政府の政策を批判すれば、それを政府は国益に反する発言と判断して規制できます。原発の安全性への疑念を抱かせる情報は、国民に不安を与えたり、国策としての原発推進を妨げるため、社会的混乱を招くと判断されるでしょう。また、漫画やアニメも、〈お上〉の判断で残虐だとかわいせつだという理由をつけられれば、即座に規制されます。特に、クリエイティブな仕事をしている人たちが受ける打撃は大きいでしょう。芸術などの世界では、既存の価値観に批判的であったり、理解しにくいものが最先端の表現であることも多いものです。当初は顔をしかめられる表現が、後に文化や芸術を進歩させることはよくあることです。(後略)
(『憲法は誰のもの?』,p38-39)
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ここで、いつもながらゴチャついた記事を、もっとゴチャつかせる写真を1枚。
北海道斜里郡清里町(オホーツク総合振興局内)にある「神の子池」。憲法についての一連の記事で、「神の子池」とその周辺の写真をupしてます。池の水は、本当にこういう神秘的な青色です。池にたどり着くのは、秘境探索の如く、けっこう大変です。

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今日の最後に、(国際人権規約における人権制約の考え方)の項について。
「Q&A」のこの項では、「国際人権規約」や「諸外国の憲法」でも、人権が制約されているのだから、自民党が「改憲」して人権を制約するのは正当だ、と主張したいらしい。
「諸外国の憲法」とは、具体的にどこの憲法のことを言っているのか、自民党に確かめる必要があるが、それにしても私達は、発展途上のものに合わせる必要があるだろうか?
言い換えると、レベルの低いところへ降りていくべきだろうか???
誰が好きこのんで、管理され搾取される家畜に近付きたいかw。
それに、「国際人権規約」といった、厳格に「普遍的」である立場と比較すると、「国連の規約人権委員会」と「日本政府」との間では、人権を「制約」する基本的な態度に、そもそもズレが生じているのだ。
どういうことかと言うと、「国際人権規約」の条文の英語“public”を、日本政府が「公(おおやけ)」と翻訳する際に、「日本語的な権力性」が入り込んでしまう、ということだ。
「浦部法穂の憲法時評」(→→「憲法の言葉」シリーズ②「公共」または「公」)は、「国際人権規約自由権規約第18条」の英語の正文とその日本語訳(日本政府訳)を比べて、興味深い論を展開している。
“Freedom to manifest one's religion or beliefs may be subject only to such limitations as are prescribed by law and are necessary to protect public safety, order, health, or morals or the fundamental rights and freedoms of others.”
「宗教又は信念を表明する自由については、法律で定める制限であって公共の安全、公の秩序、公衆の健康若しくは道徳又は他の者の基本的な権利及び自由を保護するために必要なもののみを課することができる。」
詳しい議論は「憲法の言葉」シリーズ②を読んでいただくとして、要点を抜き出してみると。
日本語の「公(おおやけ)」とは。
朝廷による支配が確立していく段階で、「おおやけ」は朝廷そのものを指す言葉として使われるようになり、天皇を頂点とする権力機構としての「おおやけ」が形成されていくことになる。その「おおやけ」は「わたくし」の入り込むことのできない領域であり、「わたくし」に優位する権力としての「おおやけ」というものが観念されることになるのである。
現代日本語の「公」という言葉は。
英語の「public」の「みんな」という意味合い、中国語の「公」の倫理性をもった意味合い、そして日本語の「おおやけ」の「権力性」という意味合いが、渾然一体となった形のものとなっている。(中略)
日本語の「おおやけ」は「わたくし」が入り込むことの許されない「わたくし」に優位するものであるから、「わたくし」の権利は「おおやけ」の利益よりも当然一段下に置かれることになる。しかも、そこには「公」の中国語的な意味合いも入り込むから、それが倫理的にも正しいことだ、とするニュアンスさえ込められることになる。
つまり、日本政府が「国際人権規約」に沿っていると主張しても、「公共」から「公」 に書き換える事で、「日本語的な権力性」が強く入り込み、「権力側の都合や利益」が拡大すると言える。
おまけに、現行憲法の「公共」でさえ、「日本語の「おおやけ」のニュアンス」が「渾然一体となっている」。だから、
「公共の福祉」も、「みんなの福祉」という意味にとどまらず、そこに「権力性」が当然のように入り込み、権力側の利益が「公共の福祉」の内容として認められるのは当然のこととされる。
そういう「公共の福祉」という言葉に対し、「国連の規約人権委員会はこれまで再三にわたり、日本政府に対して、そのようなあいまいで抽象的な規定による人権制限は国際人権規約に適合しないという趣旨の勧告をしている。」と、浦部氏は述べている。
自民党「草案」では、「曖昧」という点だけは当たっているのだが、悪いことに「国際人権規約」から一層外れる方向に変えようとしているのだ。
応援よろしくお願いします。
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「天賦」というのは天が与えたという意味ですが、それは人権は国から与えられたものではなく、誰もが生まれながらに持っているものだという意味です。与えた誰かを強いて表現すれば、天が与えたようなものだという一種の比喩に過ぎません。ですから、キリスト教社会ではない我が国の歴史、文化、伝統と相容れないと考えるべきではないのです。
(『憲法は誰のもの?』伊藤真,p18)
自民党の「憲法改正草案」が、「天賦人権説」を有名無実化するために根拠としているのは、結局、日本の「歴史、伝統、文化」である。
(西欧が掲げる)「普遍」に対して、日本の「独自」や「特殊」を持ち出して、いわば‘日本人らしい人権’という不可解なものを、捏造しようとしている。
自民党の胡散臭い言動のあるところ、またしても「伝統」ありだという事を、ここでも確認しよう。
誤魔化されてはいけない。
才能ある日本人が、ダルビッシュでも田中将大でもいいが、「天賦の才」を持っているという時、単に「生まれつきの」、「生得の」という意味で「天賦」という語を使っているのであって、「天」がキリスト教の神か天照大神か大日如来か等という事を、いったい誰が問題にするだろうか??
それを問題にするということは、「天賦」という語の意味をねじ曲げているわけだ。
「天賦人権説」にわざわざ「西欧の」と、ことわりを付ける、自民党の隠れた意図に、注意を払いたい。
それにしても開米という人は、よほど前向きな考えの持ち主なのか。自民党の「改正草案」は天賦人権説を否定していない、だから安心です、と解説する楽天的な記事を書いている。(→開米瑞浩「憲法改正デマ」(4))
開米氏の記事は、片山さつき議員の狡猾さを知るには意味がある。
しかし、「改正草案」第11条に、
「国民は、全ての基本的人権を享有する。この憲法が国民に保障する基本的人権は、侵すことのできない永久の権利である。」
と書かれているから安全だ、というのは、「普遍」対「特殊」という自民党の「文脈」を見ていないのである。
開米氏が「改正草案」は安全だとする理屈は、次のようなものだ。
まず、「国民は、すべての基本的人権の享有を妨げられない」という現行憲法第11条の、不自然な受動態が英文翻訳に起因する事から始まる。
次に、“confer”という英単語は“格上の者から格下の者への「与える」ということなのです”とし、“この場合「格上の者」とは明らかに「神」です”と進め、「神の下の平等」という観念を下敷きにしていると指摘。
そうやって、現行憲法の条文の上に、「キリスト教圏」における「人権概念」の残存を見出そうとしている。
だから「改正草案」は、「キリスト教圏」ではない日本で、キリスト教的なものの残存を取り去り、日本人にとって「自然な文章に直した」だけだ、と・・・。
しかし、開米氏の好意的解釈とは違って、自民党の目論見は次のとおりであろう。
「天賦人権」は元々、人種や民族に関わらない「普遍」的なものであることを、ねじ曲げたい。
その「普遍」を表現する際に、「明記」されてないキリスト教的価値がオマケのように付属していた。
そのオマケが日本に馴染まないから取っ払い、真に「普遍」的な文言に書き換える。
と見せかけ、「改正」のドサクサに紛れて、「普遍」的なものを日本の「特殊」で変質させる・・・。
(こんな手の込んだことをするより、日本人には「普遍」的価値は相応しくないと、代議士達はハッキリ言ってみたらどうか?
国民に拒否されるから、誤魔化す必要があるのだろう。)
その目論見を明かし立てる証拠として見逃せないのが、
権利は、共同体の歴史、伝統、文化の中で徐々に生成されてきたもの
という「改正草案Q&A」のなかの、珍妙な「権利」観だ。

Q14「日本国憲法改正草案」では、国民の権利義務について、どのような方針で規定したのですか?
(p13,PDFの19枚目-『日本国憲法改正草案Q&A増補版』→ダウンロード)
Q14の答の一部
「また、権利は、共同体の歴史、伝統、文化の中で徐々に生成されてきたものです。したがって、人権規定も、我が国の歴史、伝統、文化を踏まえたものであることも必要だと考えます。現行憲法の規定の中には、西欧の天賦人権説に基づいて規定されていると思われるものが散見されることから、こうした規定は改める必要があると考えました。」
ここで自民党が主張する「我が国の歴史、伝統、文化」とは、如何なるものなのか?
こういう曖昧で明確にするのが困難なものを「踏まえ」て、「人権規定」をしようというのである。
「伝統」が人権制約の口実に使われると、考えない訳にはいかない。私が言う自民党の「文脈」とは、このことだ。
将来、大きな問題が起こった時、「日本研究」の分野の研究者が、「御用学者」として起用されるのだろう。本居宣長研究の長谷川三千子氏は、その先鞭みたいなものだ。
しかし、日本人には、国家による人権侵害が行われた時、救済を求める機関もない。
ストラスブールの「欧州人権裁判所」は、EUの人々のためにある機関だ。
これほど手厚い人権保障を、EU加盟国の国民は受けられて、かたや、極右勢力に内心の自由まで制限される日本人は、貧相な人権で一生を送らねばならないのだろうか?
同じ人間なのに。
応援よろしくお願いします。
↓↓

(『憲法は誰のもの?』伊藤真,p18)
自民党の「憲法改正草案」が、「天賦人権説」を有名無実化するために根拠としているのは、結局、日本の「歴史、伝統、文化」である。
(西欧が掲げる)「普遍」に対して、日本の「独自」や「特殊」を持ち出して、いわば‘日本人らしい人権’という不可解なものを、捏造しようとしている。
自民党の胡散臭い言動のあるところ、またしても「伝統」ありだという事を、ここでも確認しよう。
誤魔化されてはいけない。
才能ある日本人が、ダルビッシュでも田中将大でもいいが、「天賦の才」を持っているという時、単に「生まれつきの」、「生得の」という意味で「天賦」という語を使っているのであって、「天」がキリスト教の神か天照大神か大日如来か等という事を、いったい誰が問題にするだろうか??
それを問題にするということは、「天賦」という語の意味をねじ曲げているわけだ。
「天賦人権説」にわざわざ「西欧の」と、ことわりを付ける、自民党の隠れた意図に、注意を払いたい。
それにしても開米という人は、よほど前向きな考えの持ち主なのか。自民党の「改正草案」は天賦人権説を否定していない、だから安心です、と解説する楽天的な記事を書いている。(→開米瑞浩「憲法改正デマ」(4))
開米氏の記事は、片山さつき議員の狡猾さを知るには意味がある。
しかし、「改正草案」第11条に、
「国民は、全ての基本的人権を享有する。この憲法が国民に保障する基本的人権は、侵すことのできない永久の権利である。」
と書かれているから安全だ、というのは、「普遍」対「特殊」という自民党の「文脈」を見ていないのである。
開米氏が「改正草案」は安全だとする理屈は、次のようなものだ。
まず、「国民は、すべての基本的人権の享有を妨げられない」という現行憲法第11条の、不自然な受動態が英文翻訳に起因する事から始まる。
次に、“confer”という英単語は“格上の者から格下の者への「与える」ということなのです”とし、“この場合「格上の者」とは明らかに「神」です”と進め、「神の下の平等」という観念を下敷きにしていると指摘。
そうやって、現行憲法の条文の上に、「キリスト教圏」における「人権概念」の残存を見出そうとしている。
だから「改正草案」は、「キリスト教圏」ではない日本で、キリスト教的なものの残存を取り去り、日本人にとって「自然な文章に直した」だけだ、と・・・。
しかし、開米氏の好意的解釈とは違って、自民党の目論見は次のとおりであろう。
「天賦人権」は元々、人種や民族に関わらない「普遍」的なものであることを、ねじ曲げたい。
その「普遍」を表現する際に、「明記」されてないキリスト教的価値がオマケのように付属していた。
そのオマケが日本に馴染まないから取っ払い、真に「普遍」的な文言に書き換える。
と見せかけ、「改正」のドサクサに紛れて、「普遍」的なものを日本の「特殊」で変質させる・・・。
(こんな手の込んだことをするより、日本人には「普遍」的価値は相応しくないと、代議士達はハッキリ言ってみたらどうか?
国民に拒否されるから、誤魔化す必要があるのだろう。)
その目論見を明かし立てる証拠として見逃せないのが、
権利は、共同体の歴史、伝統、文化の中で徐々に生成されてきたもの
という「改正草案Q&A」のなかの、珍妙な「権利」観だ。

Q14「日本国憲法改正草案」では、国民の権利義務について、どのような方針で規定したのですか?
(p13,PDFの19枚目-『日本国憲法改正草案Q&A増補版』→ダウンロード)
Q14の答の一部
「また、権利は、共同体の歴史、伝統、文化の中で徐々に生成されてきたものです。したがって、人権規定も、我が国の歴史、伝統、文化を踏まえたものであることも必要だと考えます。現行憲法の規定の中には、西欧の天賦人権説に基づいて規定されていると思われるものが散見されることから、こうした規定は改める必要があると考えました。」
ここで自民党が主張する「我が国の歴史、伝統、文化」とは、如何なるものなのか?
こういう曖昧で明確にするのが困難なものを「踏まえ」て、「人権規定」をしようというのである。
「伝統」が人権制約の口実に使われると、考えない訳にはいかない。私が言う自民党の「文脈」とは、このことだ。
将来、大きな問題が起こった時、「日本研究」の分野の研究者が、「御用学者」として起用されるのだろう。本居宣長研究の長谷川三千子氏は、その先鞭みたいなものだ。
しかし、日本人には、国家による人権侵害が行われた時、救済を求める機関もない。
ストラスブールの「欧州人権裁判所」は、EUの人々のためにある機関だ。
これほど手厚い人権保障を、EU加盟国の国民は受けられて、かたや、極右勢力に内心の自由まで制限される日本人は、貧相な人権で一生を送らねばならないのだろうか?
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固有の歴史、文化、伝統をありがたく思え
りくにす いつも興味深く拝見しております。
そうやって人権をどんどん後退させていくのですね。
しかし「天賦の人権」を認めるだけで崩壊する「伝統」とか「国体」ってどんなもんでしょう。西欧の心ある人に堂々と主張できない伝統は誇るに値しないと思います。もっとも、それを「キリスト教価値を押し付けようとしている」という主張も可能なのですが。
最近国学に少し興味が湧いてきたのですが、なんだか気色悪くて。朱子学的価値観のほうがましな気がしますが、これだけ嫌韓的言説がはびこっているとこれに取り組もうという人はいないでしょうね。
本当の狙いは戦時体制かもと思いますが、そうなると日本の娯楽やグルメや伝統工芸は大きなダメージをこうむると思います。観光客も来なくなるから世界遺産をいくつ抱えてても意味ありません。こちらの「伝統」をダメにして滅私奉公の「伝統」だけで戦争をする意味がよく分かりません。
「日本の伝統」を喧伝する人は本当は自信がないのかな、と思ったりします。
Re: 固有の歴史、文化、伝統をありがたく思え
小谷予志銘 りくにすさんへ
「国学」への興味というのは、ど真ん中だと思います。今後、安倍政権の思い通りに憲法「改正」が進められるならば、そういう知識が必要になってきます。
経済学や憲法の「御用学者」の次には、「国学」を中心とした日本研究の「御用学者」が、人心を飼い慣らそうとするでしょう。
それに対抗するためには、「国学」を含めた日本の「歴史・伝統・文化」について、こちらが多くを知っておく必要があります。
といっても、「なんだか気色悪」いですね。本居宣長なんて、コンプレックスの固まりで、自分をなだめるために、執念深く「人工物」を造り上げたという感じです。だから私は、宣長を読むのが苦痛です。
自民党の先生方は、富国強兵と戦争に邁進したあの時代の「伝統」しか、理解できないんじゃないでしょうか?
国家神道一色に染まり、その他の「文化」は途絶えた時代です。
自民党の言う「歴史・伝統・文化」の「中身」を、問いただす必要がありますね。
空海も利休も芭蕉も、日本の「伝統」を創ってきた人々は、個人として際立っています。だから、個人が善く生きる方向へ背中を押してくれます。
しかし、あの先生方は、「個」が如何に生きるかという闘いには興味が無く、「全体」に埋没して、みんな一緒に死にたいんでしょう。
そういう「暗い欲望」を指摘してあげても、逆ギレするだけで認めないでしょうが。
りくにす いつも興味深く拝見しております。
そうやって人権をどんどん後退させていくのですね。
しかし「天賦の人権」を認めるだけで崩壊する「伝統」とか「国体」ってどんなもんでしょう。西欧の心ある人に堂々と主張できない伝統は誇るに値しないと思います。もっとも、それを「キリスト教価値を押し付けようとしている」という主張も可能なのですが。
最近国学に少し興味が湧いてきたのですが、なんだか気色悪くて。朱子学的価値観のほうがましな気がしますが、これだけ嫌韓的言説がはびこっているとこれに取り組もうという人はいないでしょうね。
本当の狙いは戦時体制かもと思いますが、そうなると日本の娯楽やグルメや伝統工芸は大きなダメージをこうむると思います。観光客も来なくなるから世界遺産をいくつ抱えてても意味ありません。こちらの「伝統」をダメにして滅私奉公の「伝統」だけで戦争をする意味がよく分かりません。
「日本の伝統」を喧伝する人は本当は自信がないのかな、と思ったりします。
Re: 固有の歴史、文化、伝統をありがたく思え
小谷予志銘 りくにすさんへ
「国学」への興味というのは、ど真ん中だと思います。今後、安倍政権の思い通りに憲法「改正」が進められるならば、そういう知識が必要になってきます。
経済学や憲法の「御用学者」の次には、「国学」を中心とした日本研究の「御用学者」が、人心を飼い慣らそうとするでしょう。
それに対抗するためには、「国学」を含めた日本の「歴史・伝統・文化」について、こちらが多くを知っておく必要があります。
といっても、「なんだか気色悪」いですね。本居宣長なんて、コンプレックスの固まりで、自分をなだめるために、執念深く「人工物」を造り上げたという感じです。だから私は、宣長を読むのが苦痛です。
自民党の先生方は、富国強兵と戦争に邁進したあの時代の「伝統」しか、理解できないんじゃないでしょうか?
国家神道一色に染まり、その他の「文化」は途絶えた時代です。
自民党の言う「歴史・伝統・文化」の「中身」を、問いただす必要がありますね。
空海も利休も芭蕉も、日本の「伝統」を創ってきた人々は、個人として際立っています。だから、個人が善く生きる方向へ背中を押してくれます。
しかし、あの先生方は、「個」が如何に生きるかという闘いには興味が無く、「全体」に埋没して、みんな一緒に死にたいんでしょう。
そういう「暗い欲望」を指摘してあげても、逆ギレするだけで認めないでしょうが。