アンチ-ロマンチシズムと文学との幸福な共存を謀ります。当面、「炭鉱のカナリア」になる決意をしました。第二次安倍政権の発足以来、国民は墨を塗られるだろうと予測していましたが、嫌な予感が現実になりつつあります。日本人の心性や「日本国憲法」の問題などを取り上げながら、自分の明日は自分で決めることの大切さを、訴えていきたいと思います。
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「憲法9条」を保持する日本国民にノーベル平和賞を」という過去記事を書いた一人として、ずっとモヤモヤしている。記事を書いた責任上、ノーベル平和賞署名活動について、改めて私の考えを述べたい。

これも過去記事(「右」か「左」か?「全体主義」か?)に書いたことだが、結局、その「日本人」とか「日本国民」とかいうのは、個々の「実体」と必ずしも合致しない「観念」的な存在でしかない。
積極的に9条を破棄したいと考えている「日本人」も少なからずいるのだから、もし本当にノーベル平和賞が授与されるとなれば、「実体」としての彼らは、ひどく反発するだろう。
9条や日米安保について特に考えてこなかったという人は、迷惑がるかもしれない。
世論を二分三分し、せっかくの「賞」は宙に浮くかもしれない。

「日本人」「日本国民」へ授与というのが、そもそも可能なのか?可能だとすればどんな意味をもつのか?という疑問を持ったまま、私は見切り発車のように【拡散】を呼びかけたし、今もやっぱり疑問は解消していない。
仮に授与されるとして、おそらく、平和賞を受賞するのは「観念」としての「日本人」という「???」な事態にならざるを得ない、と今のところ考えている。

ノーベル平和賞は、ノーベル賞の他の各賞と比べて、もともと非常に「観念」的で、それだけに「理想」や「理念」と直結している。
「理想」や「理念」が伴えば、平和賞を「政治」的に利用しようという思惑を、完全に排除することは出来ないだろう。
鷹巣直美さんが署名活動を発案したのも、それが「政治」的な行為だと承知の上で、むしろ「政治」的な駆け引きに「ただの人」が割って入ろうとしているのだ、と言ってよい。
そういう意図に対して、賛否両論が起こらない方が変だ。
たぶん、私も含めて多くの人は、この署名活動を未だ消化できないでいるのだろう。

平和賞の対象は、その時点で軍事力を排除しているかどうか、だけにとどまらず、マイノリティーの権利拡大といった「人権擁護」での功績にも及んでいる。
受賞には至らなかったが、パキスタンの少女マララさんが女子教育の権利を訴えたのも、そういう活動が平和を実現する為の一つの階梯として意味づけられるからだ。
平和の実現と「人権擁護」は、切っても切れない関係にある。
色んな人権侵害が起こっている中で、戦争状態に巻き込まれることは、最も苛烈な「人権侵害」だ。
また、「人権侵害」が有るところに、紛争の火種も生じる。

日米安保の傘の下にある日本では憲法9条が実現されていないのに、「日本人」が受賞なんておかしい、という見方は極めて真っ当なものだ。
→→「憲法9条にノーベル平和賞を」(村野瀬玲奈の秘書課広報室)
ただ、憲法9条の存在によって、戦後の日本人は、朝鮮戦争にも、ベトナム戦争にも、湾岸戦争、アフガニスタン戦争、イラク戦争、などアメリカが引き起こした戦争に日本人を送り込まなかった。「日本兵」は、一人も死傷してないし現地の人を殺してもいない。
方や、「集団的自衛権」を行使した韓国は、ベトナム戦争で5千人もの韓国兵を死なせている。
憲法9条は、これらの戦争で生じていたかもしれない「人権侵害」を、防ぐ役割は果たした。これを過小評価できるだろうか?
そして今後、安倍政権によって「集団的自衛権」が行使されようとしている。

憲法9条は、平和の実現のために限定的にせよ役割を果たしてきたし、まだその「途上」にあるにもかかわらず、大きな危機に直面している。
9条を巡るこの状況に対し、「理想」や「政治」的駆け引きを持ち込もうとする人々がいて、それを周辺から「評価」する人々がいる。また、「評価」さえしない人々もいる。
そういうことじゃないだろうか?


「理想」とは、「恥ずかしい」ものである。
「日本人」は、羞恥を覚えて「理想」と距離を置きたがる。「理想」をかかげる人も、「理想」のウソをあげつらう人も、困っている誰かを置き去りにしがちだ。
そんな「恥ずかしい」「理想」に関わらずやって来られた時代だったのかもしれない。しかし、それはもう終わったと、早く気付いた方がいい。
日本を「理想」の国家にしたがっている総理大臣が出てきて、嫌がる国民に「恥ずかしい」「理想」を呑め、と迫っているのだから。
安倍総理は、良くも悪くも、状況を一変させる才能だけは持っている様だ。

「日本人」が「理想」を苦手としているだけに、「日本という国は何にも変わっていない」と言われる様な、相変わらずな状態を引き摺っている。
そこへ、「理想」と「理想」の競り合いという、多くの日本人に未経験の試練を持ち出してきたのが、安倍総理なんだろう。

総理の「理想」は呑めないと思っている人は、ノルウェーへの署名に協力したらどうだろう。
ノルウェーの委員会が、未だかつてなかった要望をどう消化するか見ることに意義はあるし、海外も巻き込むよう一石を投じることができる。もっと良いアイディアが、出てくるかもしれない。
「日本人」が決して一枚岩ではないということも、知ってもらえる。

総理が仕掛けてきた「理想」と「理想」の競り合いとは、言い換えれば、欧米が犠牲を払って掴んだ「普遍的価値」を「日本人」がどう扱うのか、という問題なのだから、簡単に片付くはずがない。
まず、大きなところへ、押しつけがましく人を巻き込むこと。そういう「日本人」がやったことのないことから、まず始める必要があるんだろう。

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[2014/01/28 19:09] | 右翼・戦争・カルト
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拝読いたしました
村野瀬玲奈
私の記事(?)への言及をいただきましてありがとうございます。読ませていただきましたが、これを機会に多くの人が、今まで漫然と考えていたことを見直すきっかけになればいいと思うのです。

自分の記事には明記はしませんでしたが、署名をしたい人はすればいいし、したくない人はしなくてもよいと思います。私は署名をする人にあのやねごんさんのツイートを見せることはしても、「署名をしてはいけない」と言おうとは思いません。

今後ともよろしくお願いいたします。

「「憲法9条」を保持する日本国民にノーベル平和賞を」について・・・
YOUのつぶやきです!
タイトルについては、?って思う部分もあります。日本人に対して、ノーベル平和賞!とは思っていません。記事に書かれている通り、色々な日本人がいるからです。ただ、現在の「憲法9条」に対しては「ノーベル平和賞」が送られるのなら、誰も文句が出ないと思います。(そんな事が出来るのかどうかは私はしりませんが・・・)私自身、今の世の中が好きではありません。戦後先進国で戦争をしていない国が日本とあと1〜2国?では無かったでしょうか?基本どの国も自分の利権の為のにみ動いています。国民の意思とは無関係に・・・しかも、国を越える利権の為、国単位で語る事が出来ない状況です。ぐだぐだ言ってもしかたありませんが、憲法9条にノーベル平和賞が送られるのなら、それに越した事はありません。憲法9条を作ったのが日本国民ではありませんし、守ってきたのも日本国民ではなく、法律だから従っていたまでです。日本国民をノーベル平和賞にするのは違っていると思います。が、とにかく憲法9条が絡みノーベル平和賞が送られるのな世界的に何か違う動きが出ればと思ったため賛同しました。実際に送られたらいいなぁ。レベルです。ただ、ノーベル賞の背景を考えると受賞は無いのではないでしょうか?と思われます。そんなに簡単なものではありませんし、現実、オバマさんが受賞していますが、戦争をしています。私は理想として応援していますので、頑張ってくださいね。では、

Re: 拝読いたしました
小谷予志銘
村野瀬玲奈さんへ

村野さんが「署名をしてはいけない」とおっしゃっているのではない事、分かっているつもりです。

私はツイッターをフォローするところまで出来てないので、価値の有るツイートをブログで取りあげる試みには、ずいぶん助けられています。
やねごんさんのあのツイートを、村野さんがピックアップしてきたのは、まさに「直球ど真ん中」でした。
私のアタマの中で、固まりがピキッと割れました。それで、停滞していた考えが、動きだしました。

署名一つにしても、考えが進み納得できなければ、不可能ですから。
あの活動が進展していくには、見直しに継ぐ見直しが必要だと、私も思っています。

これからも、次々と球を投げて下さい。どうぞよろしくお願いします。

Re: 「「憲法9条」を保持する日本国民にノーベル平和賞を」について・・・
小谷予志銘
YOUのつぶやきさんへ

「基本どの国も自分の利権の為のにみ動いています。国民の意思とは無関係に・・・しかも、国を越える利権の為、国単位で語る事が出来ない状況です。」

そうですね。国民の意思と無関係に事がどんどん進んでいる、最も酷い国の一つが今の日本でしょうね。
安倍自民や「みんなの党」などは、日本人を「アメリカの鉄砲玉」にしようとし、おまけに、その政策を日本人に賞賛させようとしているのですね。

この奇っ怪な局面で、日本の「民主主義」が進化しなかったら、いつ進化するのか?と思います。みんな、心ある人はそう思っているでしょう。

「とにかく憲法9条が絡みノーベル平和賞が送られる」
そうなれば、「国を超える利権」に「理想」がはむかうことになる。
そのために、署名活動は「日本国民」という所を、乗りこえる必要がありそうですね。


ノーベル平和賞の件について
MNG
ごめんください。
TBありがとうございます。

当方山陰の、一票の価値が日本一の田舎に住んでますので、東京新聞でどのように書かれていたかは分からないのですが、天木直人氏のブログを読んで、これはなかなかやるなと思って紹介させていただきました。

彼女の行動はやはり注目を集めているようで、週刊金曜日の今週号に彼女のインタビューがありました。

「わたしと憲法シリーズ」
http://www.kinyobi.co.jp/news/wp-content/uploads/2014/01/140124-003trim.pdf

彼女は留学経験もあり、紛争地出身者との交流から憲法9条の重みを実感したそうです。

もともとノーベル平和賞自体、佐藤栄作が受賞したように、かなり政治的な性格を持っていますが、安倍政権のもとで9条の空文化・改憲の動きが進む中、ひとつの手段としてノーベル賞を利用するくらいの気持ちでやるのもいいんじゃないかなどと思っています。

Re: ノーベル平和賞の件について
小谷予志銘
MNGさんへ

そうですね。政治的手段として利用するという、割切りですね。
それにしても、「日本国民」というのが、「抽象」度が高い点、気になります。
ともかく委員会の判断を待って、場合によっては「9条の会」のような、より具体的な対象を考えた方が、反発がなくていいかもと思います。
牽制効果なら、同じかもしれないです。

国連人権高等弁務官もツワネ原則も、ものともしない政治家たちですから。日本人の一人として返上するとか、拒否するとか、言い出しかねないですから。

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「日本人は・・・だ」と記事に書く度に、いちいち引っ掛かって困っている。
その「・・・な」「日本人」、とは一体誰のことですか? どこにいるんですか? と問われたら、私に限らず皆、返答に窮するだろう。
「日本人は・・・」と言うとき、一億もいる「実体」を一々見ることは不可能だ。
だから、ごくごく限られた一部の「実体」を見た上で、イメージや推測を加えた、「観念」で言っているに過ぎない。
「具体」的な日本人の数十人からせいぜい数百人程度を見て、彼らに共通する性質を、あるフィルターを通して「抽象」しているに過ぎない、と言ってもいい。

「善人も悪人も死ねば皆同じように救われる」と考える日本人もいれば、逆に「六道輪廻」「因果応報」の死生観に震撼する日本人もいるのだから、何かを発言するというのは、ラクじゃない。
自分の主張は「観念」に過ぎず、ひょっとすると偏っているのかもしれない、という「自覚」だけは持っておかないと、「日本人論」の反故の山が高くなるだけだ。

かくの如く、私は基本的に、日本人論に懐疑的なので、従来は「文学的思考」をやって来た。
小説なら、1人以上、多くても20人くらいの事を丁寧に考えていけばいい。『源氏物語』のように400人以上も登場人物がいるのは、例外的だから。
そして、多旋律音楽のように、みんなが色んな歌を歌っているのを同時に聴きながら、抽象化できない部分は無理をせず、日本人や人間について考えることが出来る。
文学とはいいものだ。
(オタクの文学論を記事にしていればいい日が、早く戻ってくることを願っている。)

それなのに最近は、「全体主義」の信者がウチの玄関先にまで勧誘にやって来て、日常の平穏が脅かされている。
どうも、西洋かぶれしたウルサい「リベラル」を、すべからく「全体主義」に入信させるべしと、かなり戦略的に活動しているようだ。
彼らは、入信しない人間は「恥知らずだ」とか、「日本人ではない」とか言って、ウチのドアチャイムをしつこく鳴らし、帰ろうとしない。
今にもドアをこじ開けて、中に踏み込んできそうな程、意気盛んだ。
それで、嫌でもこちらの「日本人論」を述べて、お引き取り頂かねばならなくなった。

「観念」や「抽象」化した把握は、こんな風に、時に必要とされる。
私は、今ほど、広さと深さを合わせ持つ「観念」を、必要としたことはなかったと思う。
偏向した「観念」を持った権力者が、「私」の領域に踏み込んでこようとしている。その大きな動きに対抗する為には、こちらも「観念」を持たざるを得ないからだ。
「観念」は容易じゃないと懐疑しているだけでは乗っ取られてしまう。
村上春樹の作中人物じゃないが、私は玄関マットみたいに踏まれて、屋内を奴等の価値観でリフォームされてしまうだろう。家の中心に、白木の祭壇かなんかを置かれるのだろう・・・。

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ウチにズカズカと上がり込もうとしている「全体主義」って、何だろう?

「全体主義」(『広辞苑』第五版)
個人に対する全体(国家・民族)の絶対的優位の主張のもとに諸集団を一元的に組み替え、諸個人を全体の目標に総動員する思想および体制。

このイズムのもとに、日本は今、増改築されようとしている訳だ。
「強くて美しい日本を取り戻しましょう」と薄気味の悪いことを言う総理大臣が、テレビに出まくって、「全体の目標」を唱えている。

先ず、経済。デフレを退治して経済成長しないと、日本人は幸福になれない!
そのために、原発を再稼働させ、日本を原発ショールームにしよう!外国に原発を売り込もう!
ゆくゆくは「国防軍」をアフリカに送り込んで、インフラ開発の企業を守ろう。血税を軍事費につぎ込もう!
グローバル企業を成長させてあげるために、円安による不利益くらい我慢しよう!
企業の成長こそ日本の成長だから、国民は非正規雇用の低賃金で働こう!

とかいう「全体の目標」の為に、私達は「一元的に組み替え」られ「総動員」されちゃって、いいのだろうか?

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実に不思議な人達がいる。「一元的に組み替え」られ「総動員」されることを、支持する人々である。
「ネトウヨ」・「ネットウヨク」と呼ばれる人々が実際にどれほどいるのか、把握は難しい。
薄気味悪い総理大臣が「工作員」を使って、ネットに書き込みをさせていて、実数としては大したことない、という説もあるが、定かではない。
「ウヨク」となると、もう少し増えるのか。「右翼」だと、伝統的な裾野の広がりを持つだろう。
そういう「右」寄りの人々が総体的に、薄気味悪い総理大臣を後押ししている事は、確かである。

社会の支配的位置にいる人々が、しばしば「右」寄りの思想を持っていることがある。
政治家は勿論、企業の経営陣にも、「学識経験者」とされる人にも。古くからのコネや利権に繋がっている、「保守」層だ。田舎だと、公立高校の校長が神主を兼ねていることも、結構ある。この根は、深く広い。
そういう保守層に「ウヨク」と「ネトウヨ」が合流して、「全体の目標」に突き進もうとしており、今後さらに社会全体が「右傾化」しそうな雰囲気がある。
それで私は、「右」に寄る人々のメンタリティについて、否応なしに考えるようになってしまった・・・。

もっとも、「全体主義」には「左」寄りの例もあり、旧ソ連や中国等はこれに陥って、個人は辛酸をなめた(なめている)のだから、今や問題は「右」か「左」かではなく、「全体主義」にある。
ユング派の理論を援用すると、「全体主義」、しかも「右」の「全体主義」に陥り易い「日本人」のメンタリティ、が手に取るように分かって、恐い。
(過去記事→日本の病理-「保守」と「母性」

今の日本の場合は、「右」寄りの「全体主義」が台頭しており、金融政策やエネルギー政策など国の一大事を、一色の価値観で染め上げてしまおうとしている。
「国家」だの「伝統」だのを「賛美」しながら、論理的であるべき場面で論理を封じ、国民を感情的に引き摺り回すのだ。
日本人は「金融ファシズム」や「原発ファシズム」、「国防ファシズム」に引き摺り回されている、くらいに考えておいた方が良いのだろう。


安倍晋三は、「私を右翼の軍国主義者とお呼びになりたいのであれば、どうぞお呼びいただきたい」とアメリカで発言して、一本取ったつもりでいるらしい。( ・_・;)
「日本人」の場合、この発言にギクリとしない人も多いようだが、欧米では、少なくとも得意そうに言う様な言葉ではない。
軍国主義は、国の政治・経済・法律・教育などの全てが軍事的価値観に従属する、と見なすのだから、要するに「全体主義」になっちゃうんだが・・・。
右翼の中でも「保守」(=「穏健な右翼」)ならば、国際社会で許容される。
しかし「極右」(=「右」の「全体主義」)となると、欧米では、ほぼ「蔑称」である。

「保守」と「極右」の違いは、色々に説明できるだろう。例えば、こんな風に。
「保守」は、異なる考え方を露骨に強圧的に排除しようとはしない。
気付いても、スルーする。騒ぎ立てず、やり過ごす。
強圧的な力でもって何かを他人に押し付ければ、途端に、その「何か」がその程度の価値しか持たないことを、明かしてしまうから。独り善がりだと、分かってしまうから。
「保守」は、そのアブナさを理解でき、醜悪さを感じ取る美意識を持っている。
ところが「極右」には、その理解力も美意識もない。
だから「保守」は、国際社会の一角に居場所を持つが、「極右」は、あってはならない勢力なのである。
自民党は、アメリカに「失望」を表明されて、オバマ政権が民主党政権だから、などと言っている。安倍自民は、理解力も美意識も、何にも持ち合わせていない。
アメリカの共和党だって、もし「極右」だったらアメリカでは消えるしかないのに。


「特定秘密保護法」の成立で、安倍晋三と安倍自民は「極右」としての本性を現した。

なのに何故いつまでも、安倍政権への支持率が下がらないんだろう?
「全体主義」の怖さが分からない「日本人」が、多いのかな?
自民党の「憲法草案」は、99%が苦しむ時代に合わせて構想されている。
認知症高齢者の激増も、子供の貧困も、低賃金労働も、金融の混乱も、第2第3のフクシマも、砂漠での戦死も、これから起こるだろう悲劇を、全部押さえ込めるのが、自民党の「自主憲法」なんだが・・・。(×_×)


ダウはそのうち暴落し、ドル円は独自のサイクルを持っていて、険しい山と険しい谷を描くのに。
子供には、東京に居ながらではなく、海外開催のオリンピックを、現地で見せてあげましょうぞ。
そのためにも、円高の方が良いのにねえ。99%の側にとっては。
しつこく言うと、それを見えなくさせているのが「金融ファシズム」なんだけど・・・。
「リフレ論」という怪しげな経済理論は、安倍のファシズムに利用されているんだけど。それでいいのか、「リフレ」論者!


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村野瀬玲奈さんのクールな記事、合わせて読んでみて下さい。
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日本人内の政治意識の矛盾を解消しないと日本の政治は良くならないと思う。

[2014/01/22 09:28] | 右翼・戦争・カルト
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「日本国憲法が定める都知事と国民の政治権限」
東行系
0.「カンボジアロシア国際学術交流都知事選挙実地見学実数計測研修団招聘」
「都知事選、確実に不正選挙が敢行されるとみます。」RKブログ
http://richardkoshimizu.at.webry.info/201312/article_108.html
>いよいよ国連に選挙監視団を派遣してもらわないといけないようだな 情けないことだ!!
>黄昏時のパルチザン兵士さん2013/12/25 19:16

カンボジアのアツヒト村教師学徒村役場の人たちと、ロシアウクライナの選管委員の人たちを招待して日本の学徒と一緒に日本ユダ金スパイ政府の不正都知事選挙を期日前投票から開票当日まですべての投票を一票残らずカウント集計してもらって日本政府総務省選管マスゴミ不正選挙共犯ぶりをじっくり見学してもらうとよいね。都内の大学の人文系教室が諸費用を負担して招聘すればよい。円建てなら2カ国でもごく安い費用でアカデミックな国際選挙監視団を学術文化交流として招聘できるから。
国連の大使だった故中田厚仁君のお父さん武仁氏にこの2カ国から不正選挙見学視察学術交流団の招聘を仲介してもらえば迅速に達成できるでしょう。http://www.youtube.com/watch?v=jC7J9kFXwdM&feature=player_embedded


1.「全国地方自治体住民の生活でもっとも大切な治安を守るには住民の生活の安全を脅かす違法営業施設を法律で強制撤去することが絶対必要である」

江戸の治安を守るには違法営業施設パチンコ屋と暴力団事務所の撤去が第一である。
「都知事は住民生活を危険にさらすパチンコ屋と暴力団事務所を法律で全都内から強制撤去せよ」

東京都も名護市も福島双葉市も同じだが、地域の治安を直接乱しているのは違法賭博業パチンコ屋であり、非合法組織事務所である暴力団事務所の存在であるからして、都道府県市区町村首長はまず自分の統轄行政区内から警察に命令してこの2つの施設を強制執行で最大迅速に撤去せねばならない。これは誰がどこの首長になっても全国的に同じことである。原発やオリンピックや消費税、TPP、秘密保護法など地方行政でなく国政に関する事項は、この非合法施設撤去という緊急治安行政課題を達成したあとで、日本国憲法前文「正当な選挙で」代表を選んだ国会でじっくり議論して方針を煮詰めてゆけばよい。

「憲法に基づき公僕公務員は主権者国民全体に奉仕する神聖な責務を果たせ」
全国の警察が自転車道交法違反を取り締まるための講習を小中学校で始めたそうだが、ふざけるんじゃない。まじめな自転車通学児童通勤社会人を愚劣なくだらん道交法官僚立法(違憲である)法律法令変更で取り締まる前に、そもそも憲法に非合法のパチンコ屋と暴力団事務所を所轄区域内から一掃せよ。それが憲法によって作られた公僕警察本来の第一責務である。非合法組織摘発排除をしない今の警察は給料泥棒税金泥棒憲法99条違反内乱罪組織である。憲法遵守して謹厳実直に納税している主権者国民は憲法破壊公務員公僕を断じて許さない。
http://nueq.exblog.jp/18942965/


2.「放送法は個人私有のテレビに強制的に課金して基本的人権の財産権を侵害する違憲立法である」

>【お前が言うな】ケネディの娘「日本人はイルカ食べるのやめれ、かわいそうでしょ」ちるみぃさんのブログへコメントhttp://blog.goo.ne.jp/kill_me_deadly/e/bf13fc452e7229ba1f70d74b8cb77fa0

「都民はテレビを捨てれ」

「都知事はすべての公共施設官公庁庁舎からテレビをすべて廃棄命令せよ」
これは公務員汚職の摘発でもある。テレビを捨てない官公庁施設職員は全員公金不正使用刑事犯罪現行犯で逮捕起訴有罪となり(これは公金から不正にNHKへテレビ視聴料を支払い、電気を使って視聴することで不正に施設維持運営費からテレビの電気料金を流用支出している税金泥棒窃盗行為であるよってw)、自動的に懲戒免職と損害賠償支払いを命じられることになるからそう思えよ。

「田布施人脈」中曽根~小泉~(鳩菅野田)~安倍の憲法破壊暗黒政治
通りがけ
1.謀略が跋扈した小泉政権下で起きた事件だった
    現役の国会議員が刺殺された衝撃的な事件(戦後三人)・・・
「きょう命日 石井紘基・8周忌 ~誰に殺されたのか」http://c3plamo.slyip.com/blog/archives/2010/10/post_1880.html

2.借金800兆円の原因は「中曽根税制改革」か
http://blog.goo.ne.jp/kintaro-chance/e/0c43b0f0bfdd7b6d9e6f20ec6eec560a
・・・
保坂展人(社民党)
Jun 18th
http://twitter.com/hosakanobuto/status/16423823512
菅総理が消費税10%に言及しているが、22年前につくられた消費税納税総額が224兆円で、この期間の法人3税減税額が208兆円だったということをどう考えるのか。消費税のみを取り出した議論は税務官僚の得意技。
・・・


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写真の「シール投票」が有権者の実態を反映しているなら、永田町も「政府広報」と化した「マスゴミ」も、東京都民を見くびっていることになるのか?
↓↓↓
「勝つ候補を選ぶのじゃない、 いいと思う候補を勝たせるのです:水野木内みどり氏」

東京はなんといっても、日本の中心地だから。
こんな事を言うと地方の住人に叱られそうだが。中央だからこそ。筋道立った思考によって、事態の本質を掴んでいる人の割合が、地方より多くても、不思議はないかもね。根拠は全く無いが。

細川・小泉のコンビに注目が集まる中で、宇都宮氏への票がどこまで伸びるか、私は期待している。
筋道立った思考が出来る人にとっては、細川氏も、舛添氏も、田母神氏も、「デモシカ」候補でしかないだろう。
仮に今回の都知事選で、従来どおりの政治家が勝ったとしても、やっぱり何の決着もつかないで、相変わらず問題山積の日本が存続するかぎり・・・。
細川都知事か舛添都知事が、就任後につまずく可能性もかなりあるだろう。
どっちも見るからに危なっかしい・・・。
宇都宮氏のような人材が必要であるという理解が、そう遠くない将来、広がるはずだ。
日本人は馬鹿じゃないはずだ・・・。

東日本大震災が発生してから、未だ3年にならない。
あれ以来、閉塞感が募るなかで粗暴な言葉が猖獗を極めるようになった。
しかしその一方で、当たり前だと言われていたことが当たり前ではないことに気付く日本人も、増えているように思う。
よそから貰ったり、「押し付け」られたりした民主主義を、自分たちの手で守ろうとする内的な動機も、今は強くあると思う。

京都+大水槽2_convert_20140116185609

私はこのブログで時々、ことわりもなく「近代」化という言葉を使っている。
「近代」化と一口に言っても、西洋の先進国から見るか、植民地にされた側から見るか、などの立場の違いによっても変わってくるから、「近代」化の中身としては、種々様々なものが挙げられる。
そのなかでも資本主義化と民主主義化は、中身の代表例であると言ってよい。

明治維新からの日本は、資本主義化には成功した。しかし、民主主義化はどうだろう?
「日本国憲法」を「押し付け」てもらったし、議会政治の制度も整えたし、人民が権力を持ち、自らそれを行使するという民主主義を、形の上では成し遂げているように見える。
ただ、多くの日本人が既に気付いているだろうが、一票の格差を是正できる目処さえついておらず、個々人の意識としても民主主義が十分根付いてなかったりして、成功した、とは言い難い。
それどころか、ボンヤリしていると「国民主権」ではなくなるかもしれないという、危ないところに立たされている。

日本が民主主義化を遂げるためには、結局は、日本人個々のアタマの中の問題を、避けて通ることが出来ない。
代議士制度を採っていても、個人と別の個人が、また個人の内心で、実のある議論が行われないと、民主主義化は遠い。
安倍自民はそれを知っているから、国民のアタマの中に手を突っ込んで、議論が深化するのを阻止しようとするのである。

最近、「・・・は当然だ!」という物言いに、頻繁に出くわすようになった。議論不要だと言いたいらしい。
でも、「当然」といえるような物事は、世の中にはそうそう無い。
何らかの証明を要せず、それ自身で既に明白なこと、「自明」である事なんて、滅多にない。
証明しているという資料でさえ、よく見ると、何らかのバイアスがかかっていたりする。

世間に流通している考えでも、いわゆる、という留保が必要なものだらけだ。

なら敢えて、「」で括った言葉を使ってみるのはどうだろうか?

このブログでは、その手をいつも使っている。
使いすぎかな、と反省して推敲段階で減らすこともある。
よくよく考えてみて意味の曖昧な言葉なので、使いすぎと思いながらも、どうしても「」を外せないこともある。
(単に、アンダーラインに変えられるような使い方も、少し混じっているのだが。)

「」は先ず、誰かの発言であることを示す記号だが、そこから、いわゆる、という意味合いを帯びてくる。
明白ではないぞ、と留保したい言葉を「」で括ってみると、文体が変わってくるはずだ。
「」につられて、考えるという行為自体が、変化していくのに気付くはずだ。


「伝統」?「神道」?「追悼」?「供養」?「冥福」?
一から考え直さないといけない事ばかりじゃないか?
少なくとも私は、ちょっと待てよ、と検討してみなければ、すぐには人の言っている事を信用する気になれないが・・・。育ちが悪いんで。
みんな、すぐに受け入れるのだろうか?
ただ、受け入れたいものを、受け入れているのだろうか?
めんどくさい所を通らないと、民主主義は実の有るものにならない。誰にとっても。

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[2014/01/17 09:14] | 右翼・戦争・カルト
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Re: タイトルなし
小谷予志銘
kさんへ

「喪の仕事」、ということになるんだと思います。

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