アンチ-ロマンチシズムと文学との幸福な共存を謀ります。当面、「炭鉱のカナリア」になる決意をしました。第二次安倍政権の発足以来、国民は墨を塗られるだろうと予測していましたが、嫌な予感が現実になりつつあります。日本人の心性や「日本国憲法」の問題などを取り上げながら、自分の明日は自分で決めることの大切さを、訴えていきたいと思います。
先の大戦にまつわって、「○○は無かった」と言いたがる人が、勢力を強めようとしている。

今、日本のトップに立っている一派が「強制連行というようなことは無かった」と発言しているのを聞いて、私はずっと、そういうアピールをして彼ら自身に何のメリットがあるのかと、理解に苦しんできた。

戦時中の朝鮮半島で、現地の女性たちを力ずくで連行するというような「強制性」は無かった、ということは・・・。
それはつまり、甘言とか目に見えにくい脅迫によって、女性たちが自らの足で慰安所に向かうようにした、ということか???
隠微な形で人間を支配し損害を与えることは、誰の目にも明らかな形で侵害するよりも、はるかに深刻で罪深く、はるかに恥ずべきことだと私は思っているので、連中のアピールの意味が分からない・・・。
大日本帝国とその軍隊、臣民は、イヤらしい形で他国の人を侵害しました、と言っているのと同じなのに、言っている事の意味を、彼ら自身は分かっていないのでは???
マジか・・・。
それとも、私の誤解か?
いずれにしても、人間についての認識の決定的な違いが、彼らと私との間にはあるのだろう。

目に明らかなかたちで人を殴り、目に明らかな傷が残れば、罰することも補償させることもたやすく、暴力をその時点で絶つことができる。
カッとなって殴った、という「暴力」なんて、カワイイものである。
否認も言い訳もむなしく、罰を受けるしかないのだから。
隠微な「暴力」は、相手の傷害が深く長引くうえに、罰を逃れやすいのだから、身震いするほどイヤらしい。

しかし、あの一派は、どうやらそれが分かってないらしい。
マジか・・・、と今でも半信半疑だが、「株高、円安」で日本が復活すると信じているらしい様子を見ていると、やっぱり「一事が万事」なのかもしれない。
事象の上っ面しか見えない、理解力の浅薄な人間が、曇った目でミスリードしようとしている、と捉える以外にないように思う。
もっとも彼らが否認したいのは、「従軍慰安婦」の「強制性」に限らないことは、彼らの平素の主張を見れば明らかで、問題の基本はそこにあるだろう。
違う言語と文化を持った人々が暮らす所に、理由がどうであれ、入っていけば避けられない「弊害」の全般を、「従軍慰安婦」問題そのものを含めて、全てが「無かった」、と本当は言いたい人々なのだ。


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ひとまずは、「国粋主義」と「ファシズム」の臭いを発散させている一派がトップに立っている、という結構あぶない局面にあると捉えておくにしても、さらに分からない事がある。

そもそも彼らはなぜ、先の大戦で他国に被害を与えたことを、躍起になって否定したがるのだろう?
日本の加害をあげつらうのは「自虐」だと言って。
かたや、かつての同盟国であるドイツでは、なぜ「○○は無かった」と言い張る勢力が、主流にならないのだろうか?
(ともに、「ネオナチ」や「ネトウヨ」が発生する点は同じであるが。)

あちらは石と金属の文化であるが、日本は木と紙の文化だったから、証拠としての建造物が残るか否かの違いはあろう。
グロテスクな収容所があれ程に厳として残っていて、「無かった」とは言えない以上、徹底的にナチスの残党を狩る以外になかろう。

しかし、そういう「歴史」の「証明」が明白か曖昧かの違いというより、「ドイツ人」と「日本人」では、「自我」の強度とか、「自我」構造そのものが違うのだろう。
私は、「ドイツ人」を具体的に知らないが、ナチスの残党狩りを徹底して止めないあたり、個人の「責任」とか、「恥」についての感覚が、「日本人」とかなり違うと推測される。
ホロコーストに荷担していない「ドイツ人」にとって、その責任は、あくまで荷担した「同胞」や「父祖」にあるのであって、戦時中に手を染めていない人や、ましてや「子孫」が、「責任」や「恥」を感じる謂われはないということだろう。
もしドイツ人の自我が、「父」の罪は「子」の罪、「子」の罪は「父」の罪、といった自立していない構造であるなら、あのように客観的な立場から「歴史」を清算できないはずだ。
ところが日本では(特に保守的政治家のような極めて「日本的な」人々では)、「同胞」や「父祖」の「恥」を、実際には「罪」を犯していない「子孫」が「恥」たりする。
よく考えてみると、大変奇妙なことだが、日本人にはそういう傾向が強いようだ。
私は自分を、あまり「日本人」的でないと思うが、それでも「輪転機をくるくる回して」などという発言を耳にして、「まるで発展途上国の大統領なみだ・・・」と、思わず顔が赤らんだりする。
「同胞」や「父祖」と「私」との境目がユラユラしている政治家などは、「自虐」はけしからん、とインデペンデントな人間まで巻き込んで、大騒ぎを始めるのだ。

大日本帝国の「加害」ということを持ち出されると、あの一派は、まるで我が事のように恥ずかしくてたまらないのだろう。
残念なことに、「加害」を「否認」するアピールは人間についての厳しい洞察を経てないから、かえって「恥」の上塗りとなっている。
結果、様々に煮え湯を飲まされてきたでもあろうオバマ大統領から、よそよそしくされるのがオチなのだが・・・。


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私の場合は、高齢者になっても恥ずかしい言動を止めない祖母や実母のおかげで、血縁者といえども別の人間が犯した「罪」を、あたかも私自身の「罪」であるかのように思ったり、「恥」たりしないように、精一杯「我」を張ってきた。
実の親といっても、「私」とは全く別の人間だと。
そうでないと、恥ずかしくて恥ずかしくて・・・。
「恥」から逃れるために、盲信みたいな事を言い出しかねない。
「私の実の親と先祖は、特別に立派で、他の家とは違います。この家に生まれたことを誇りに思って生きています」とかなんとか、言い出しかねないのだ。^_^;
(「家」を「国」に置き換えたら、誰かさんの言っていることと同じだwww)

そういう問題で何十年も格闘していると、血縁者と「私」とは、本当に、全く、別の人間だと思えてきた。
実際、別人である。
中国戦線で死んだ大叔父とも、ミャンマーで戦死した祖父とも、もちろん別人である。
彼らが何を考えていたか、「進出」先で何をやっていたか、知らない。
祖父達が「有罪」だったとして、それを私が恥じるなら、その時点でもう、私は別の人間に乗っ取られているわけだ。
しかし、私は私でありたい。私は、何がどうあっても私だ。
父祖が「犯罪者」でも「人間国宝」でも、その評価は彼らのもので、「私」のものではない。

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それにしても何故、連中は、「別の人間」への評価と「自」への評価を一緒にするのだろう?
もともと有るか無きかの「自我」が、「他」への評価を我が物として一種の錯覚をしないと、グラグラ揺らいで雲散霧消するから。
彼等は、「自」と「他」の境界線が入り乱れている、「日本人」らしい「日本人」なのだろう。

自慢できる「父祖」のやり残したことを実行する以外に、アイデンティティを確立できない人。

困ったことに、有るか無きかの「自我」を確かだと思い込むためには、彼は自分の主張に、大勢の人間を従わせる必要がある。
右へならう人間の数は、多ければ多いほど、彼は、頼りない自分への「不安」をまぎらわすことが出来る。

今回は河合隼雄の本を引用できなかったが、読んでいると、こういう風に捉えることも当たっているように思えてきた。

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[2013/08/25 23:39] | 右翼・戦争・カルト
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ちやこ
大変興味深く読みました。
あの一派が「認めないこと」を、このように「自我」と「他」の観点から考察してあるものを読んだのは初めてで新鮮な思いがしました。
「自分の罪、恥」と捉えたがゆえに、遮二無二打ち消そうとする「逃げ」もあるのかもしれないですね。


Re: タイトルなし
小谷予志銘
ちやこさんへ

コメントありがとうございます。

「歴史」への態度について、ドイツと日本の不可解な相違は、河合の言っている「場の倫理」・「個の倫理」ということで説明できそうです。
日本の保守的政治家は、「場の倫理」にどっぷり浸かっていて、疑問を抱くこともない。。
「場」の成員全体に責任がかかってくる、という理不尽な「倫理」に国家が則って、果たしてどうなるか・・・。

河合というか、ユング派を読んでいると、あの一派の病理が見えてくるように思います。
彼等が本当に、ユング派の概念に当てはまる人々だったら、ちょっと、危ないです。
決して大袈裟ではなく、日本は危ないです。

引き続き、ユング派、読んでみます。

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河合隼雄が「場の倫理」と呼んでいるものは、今も昔も、日本人の根っこに存在する。

「場の倫理」は、7月17日の記事で取りあげた、「母性原理」(言い換えれば「ベタ塗り」原理)に基づいている。

母性原理に基づく倫理観は、母の膝という場の中に存在する子どもたちの絶対的平等に価値をおくものである。それは換言すれば、与えられた「場」の平衡状態の維持にもっとも高い倫理性を与えるものである。
(『母性社会日本の病理』)

「与えられた「場」の平衡状態の維持にもっとも高い倫理性を与える」ことによって、恩恵を受ける面があることは否定しないが、平衡状態の維持とは、コピーを繰り返すようなものだから、時間と共に劣化していくのもまた、日本の現実と思われる。

「場の倫理」が悪く作用して最も弊害を生んでいるのは、「責任」の問題でだろう。
「責任」の問題を克服できないかぎり、日本は資産バブルは起こせても、社会としての再生は遠い。
(というか、行き着く先は、縮小コピーの挙げ句の無理心中だと思えて、私は最近悲観的だ。
当人達は自覚してないだろうが、無理心中したがっている人は、えてして声が大きい・・・。)

「場の倫理」というのは奇っ怪なもので、「責任が全体にかかってくるので、被害者もその責任の一端を担うことが必要となる」(p25)。
そうすると、責任の所在は限りなく曖昧になり。「日本人の無責任性」と批判を受ける事態が生じるのも、肯ける。

「賽の河原」などというのは、日本の俗信であるから、苛酷な「場の倫理」の代表例として見ることが出来る。
親に先立った幼子が「親不孝」の報いとして鬼に責められるという、恐ろしくグロテスクな信仰。(^_^;)
これは、さすがに平成の世では忘れられただろうが、そういう信仰を長らく保った心性までは、なかなか変わらないだろう。

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日本人がどんどん減少していく中で、遂にリセットとならないためには、意識的にきちんと線引きしていく態度が必要ではないか。
「個」が「個」として自立せず、「場」に依存しているままでは、必要な改革は出来ない。
(逆ギレする「女」のような「家父長」ではない、真の意味での「父性」原理を、模索することが必要だ。
「私は私、何がどうあっても私」、とはいかなる事態か?
「父」なるものとは、どういうものか?)

今問題となっている「体罰」についても、「影の補償性」という概念と「場の倫理」を合わせて、河合は大変鋭い指摘をしているが(p82-86)、個人の能力に応じてそれを生かす教育が出来ないという、日本の学校の不幸な事態についても、「場の倫理」が障害になっている事を明らかにしている(p86-89)。

「場」に依存した個人でしかないから、特定の学校とかクラスなどから外れることは「決定的敗北感」につながってしまう。
ただ、適性や能力の問題を「個人の責任において背負い処理」するためには、欧米的な「自我」が確立している必要がある。
日本では、「個」の尊重という事が、しばしば自分勝手な自己主張と同義になってしまう。
まして、「個」や「自我」についての浅薄な理解を、声を大にして唱える勢力が勢いづいている。
そんな「個」の確立が難しい中で、単純に能力差の問題を持ち出すとどうなるか・・・。
「ある個人を簡単に場から外す」ことを正当化するだけという、排除の論理になりかねない。
河合隼雄の洞察は、「日教組」風の、底の浅い平等主義とはレベルの違うものである。

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キリスト教が分からない日本人が欧米人の「自我」を理解できるはずもなく、また、欧米人と違っていて当然で、しかし、グローバリズムの中で立ち回らざるを得ない以上、線引きする思考を諦めずにやっていくしかない。
神話の時代や戦前に憧憬を抱く人は、自分の頭の中だけでやっていて欲しい。
間違っても、「個」を退かせながら「自助」を唱える、都合の良いスローガンを受け入れてはいけない。
そういう破綻した主張は、破綻したものとして、切って捨てなければならない。


よく考えてみれば、上手く線を引けない人々が、劣化する「場」の中で、「自虐」に陥っているのである。
「○○は無かった」と、「自虐」から決別したがっている人は、残念ながら、彼等の意に反して「自虐」に縛られている人々なのだ。
この問題に就いては、もう少し考えて、私なりに確信が持てたら記事にしたい。


[2013/08/05 20:30] | ユングを通して見る日本・「私」
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