去る9月29日、キリスト教文学会の北海道支部会に出席した。
研究発表のテーマは、ホーソンの『緋文字』についてだった。
発表者のT先生は、藤女子中学高等学校で教諭をされている、まだ歳の若いシスターであった。
キリスト教文学会の全国学会でも、広い講堂の隅に、年配のシスターが座っているのを遠くから見ることはあった。
しかし会議室程度の広さの部屋で、まだ20代後半から30代前半と思われる修道女が話す姿を間近で見て、私は、軽い衝撃を受けてしまった。
その衝撃の中身が、自分自身にも混沌としているので、困っている。
眼鏡をかけて化粧っ気ひとつないT先生は、黒とグレーのコンビの修道服を纏い、背筋を伸ばして立っている姿が、泥沼に咲いた一本の白い蓮のように(仏教的だけど)美しかった。
よく通る声には説得力があり、英文学とカトリックについて、ハードな修練を経てきたことを感じさせる。
あるレベルに若くして着実に到達している、そういう姿に、私は感動したらしい。
T先生の経歴については何も知らないが、背景に想像される、洗練された方法論。
加えて、すっぴんの頬に差す赤みが象徴する、心身の健康さと活力、ということを感じ取った。
同時に、世俗を棄てて修道生活に入らせた、その信仰とはどんなものであるか、とても奥ゆかしかった。

ストレスの塊である自分は、最近いわゆる“抵抗疲労”さえ覚えていて、このまま摺り減ってしまわないためには、我流ではない堅牢な何かが必要だ。
信者にはなりたくないが、“悪魔”に抵抗するための方法論は、カトリックが蓄積しているに違いない…。
たわい無くそんなことを考えつつ、衝撃の余韻にひたっていると、伊藤整が書いた「女子修道院」という短い文章のことを思い出した。
昭和31年に河出書房から出された全集の第6巻に収められた、初出が不明のエッセイである。
私はここまで書いて来て、キリスト教徒でない私が、ただもの珍しさで、その人たちの信念や修業をあやまり伝えるようなことをしてはいないか怖れている。
(「女子修道院」)
伊藤が函館のトラピスチヌ修道院を訪問したのは、1937(昭和12)年前後らしい。
その際のことを書いたエッセイの最後あたり、伊藤は上のように言っている。

そうだ、私も。
もの珍しさが手伝って、T先生のことをあやまり伝えてはいけない。
私の勝手な思いつきを書いて、迷惑をかけてはいけないから、‘T先生’としたのでもある。
でも、伊藤整が次のように書いている事について、私はT先生を見て、実例に触れたような気がした。
伊藤が修道院を見学した時、部外者に応対した修道女について、こう書いている。
私はその人を立派だと思って見た。たとえばこの人が学校の教師であっても、いたわりのある立派な教師であろうし、また人妻であってもしとやかな頭のいい人妻であり得るだろう。そしてまた変なことだが、酒場か喫茶店の女主人としても、この人なら十分に、品格を保ったまま人を使って仕事ができるだろう、などとひとりで考えた。
(「女子修道院」)
今日からみると古くさい価値観を帯びた箇所だが、カトリックの修道生活について、一つの洞察がなされていると思う。
曾野綾子の『不在の部屋』に書かれた修道者の堕落、という事も、反面の現実なのだろうが…。
洗練された方法論に則って、人間性や“霊性”が真っ直ぐに開花すれば、その人はどこに立っても他者に力を与え、姿勢は美しく、眼に見えぬ光を放つのだろう。

私の外から、また私の無意識から、何かが足をすくおうとして、いろいろと仕掛けてくる……。
そのモヤモヤしたものに抵抗し続けるため、学会に出て以来、私はあちこち掃き清めたり、ピカピカに磨いたりしている。
研究発表のテーマは、ホーソンの『緋文字』についてだった。
発表者のT先生は、藤女子中学高等学校で教諭をされている、まだ歳の若いシスターであった。
キリスト教文学会の全国学会でも、広い講堂の隅に、年配のシスターが座っているのを遠くから見ることはあった。
しかし会議室程度の広さの部屋で、まだ20代後半から30代前半と思われる修道女が話す姿を間近で見て、私は、軽い衝撃を受けてしまった。
その衝撃の中身が、自分自身にも混沌としているので、困っている。
眼鏡をかけて化粧っ気ひとつないT先生は、黒とグレーのコンビの修道服を纏い、背筋を伸ばして立っている姿が、泥沼に咲いた一本の白い蓮のように(仏教的だけど)美しかった。
よく通る声には説得力があり、英文学とカトリックについて、ハードな修練を経てきたことを感じさせる。
あるレベルに若くして着実に到達している、そういう姿に、私は感動したらしい。
T先生の経歴については何も知らないが、背景に想像される、洗練された方法論。
加えて、すっぴんの頬に差す赤みが象徴する、心身の健康さと活力、ということを感じ取った。
同時に、世俗を棄てて修道生活に入らせた、その信仰とはどんなものであるか、とても奥ゆかしかった。

ストレスの塊である自分は、最近いわゆる“抵抗疲労”さえ覚えていて、このまま摺り減ってしまわないためには、我流ではない堅牢な何かが必要だ。
信者にはなりたくないが、“悪魔”に抵抗するための方法論は、カトリックが蓄積しているに違いない…。
たわい無くそんなことを考えつつ、衝撃の余韻にひたっていると、伊藤整が書いた「女子修道院」という短い文章のことを思い出した。
昭和31年に河出書房から出された全集の第6巻に収められた、初出が不明のエッセイである。
私はここまで書いて来て、キリスト教徒でない私が、ただもの珍しさで、その人たちの信念や修業をあやまり伝えるようなことをしてはいないか怖れている。
(「女子修道院」)
伊藤が函館のトラピスチヌ修道院を訪問したのは、1937(昭和12)年前後らしい。
その際のことを書いたエッセイの最後あたり、伊藤は上のように言っている。

そうだ、私も。
もの珍しさが手伝って、T先生のことをあやまり伝えてはいけない。
私の勝手な思いつきを書いて、迷惑をかけてはいけないから、‘T先生’としたのでもある。
でも、伊藤整が次のように書いている事について、私はT先生を見て、実例に触れたような気がした。
伊藤が修道院を見学した時、部外者に応対した修道女について、こう書いている。
私はその人を立派だと思って見た。たとえばこの人が学校の教師であっても、いたわりのある立派な教師であろうし、また人妻であってもしとやかな頭のいい人妻であり得るだろう。そしてまた変なことだが、酒場か喫茶店の女主人としても、この人なら十分に、品格を保ったまま人を使って仕事ができるだろう、などとひとりで考えた。
(「女子修道院」)
今日からみると古くさい価値観を帯びた箇所だが、カトリックの修道生活について、一つの洞察がなされていると思う。
曾野綾子の『不在の部屋』に書かれた修道者の堕落、という事も、反面の現実なのだろうが…。
洗練された方法論に則って、人間性や“霊性”が真っ直ぐに開花すれば、その人はどこに立っても他者に力を与え、姿勢は美しく、眼に見えぬ光を放つのだろう。

私の外から、また私の無意識から、何かが足をすくおうとして、いろいろと仕掛けてくる……。
そのモヤモヤしたものに抵抗し続けるため、学会に出て以来、私はあちこち掃き清めたり、ピカピカに磨いたりしている。
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最近、色んな場面で、自分のモチベーションが下がっているのを感じる。
疲労が蓄積しているせいもある。
この9月は、北海道らしくない残暑だった。
さすがに夏バテのようになっているところに、秋の冷気が降りてきて、気が緩んだせいもあろう。
しかし一番の原因は、どうも、新聞の一面に躍るヘッドラインが、毎朝いやでも眼に入る事らしい。
世事にうとくなってはいけないと、テレビのニュースを見ても、尖閣問題を見ない様には出来ない。
「核時代の森の隠遁者」というタイトルの、大江健三郎の小説がある。
私は、仕事でも現役を退き、インドア派を決め込んでいるのだから、既に「隠遁者」の様なものだが、この頃いっそう、憂鬱な隠者に憧れたりする。
気が付くと、色んな事にネガティブになってしまっており、これはアブナイ、と自分でも思う。
しかし、人間の欲望が剥き出しにされるのを見ていると、気が滅入る。
目を血走らせて他者を圧迫し、少しでも多く分捕ろうと躍起になっている姿の、なんと醜いこと。

中国という国がちゃんとした近代国家に成熟するのに、あと何十年必要だろう?
どういう場合でも、“十把一絡げ”的な発想は、禁物だ。
おまえは……だ。
(おまえらは…。やつは…。やつらは…。)
と、いったい誰を指しているのか具体的にし得ないまま、敵意を抱き、英雄を気取るなら、そこら辺のエテ公にだって出来る。
私が、高校生の時に第一志望を断念させられて、文学に関わる様な選択をしたのは、消去法的にやったことであった。
それでも、未だに文学の周りをうろうろしているのは、文学的発想とは、“十把一絡げ”にする言動とは、本来最も遠いものだからだ。
そして、“十把一絡げ”にしたがる人間達によって、さんざんな目にあってきたからだ。
13億人を越えるとされる中国人だって、個々人のレベルも性向も、千差万別。
ただ、そう言って、平然としていられないものがある。
情報統制された、言論の自由のない政治体制。
これが一番困る。そんな社会は、内からの成熟を邪魔する。
人権活動家は投獄・幽閉される。
政治体制としては、恐怖政治といっても過言ではないし、社会構造も、誘拐や人身売買が後を絶たないほどの歪みを抱える。
日本の様な、欧米化された価値観で理解したつもりでいたら、しっぺ返しを食う。
iPadやiPhoneの商標権をめぐって、中国企業の言い分を通す中国の司法。
こちらの常識が通用しない世界である。
北朝鮮もだが、中国の共産党政権がいっそ崩壊してくれないか、と思ったりする。
ただそうなれば、隣国の日本も世界も、無傷ではいられないだろうから、それも恐ろしい。

今の中国がミャンマーなどに「南進」している様は、懲りもせず歴史は繰り返す、と思わせる。
戦前の日本や、アジアを植民地化していた頃のフランス・イギリスなどと、そっくりだ。
みな、内政が上手くいかず、国外に解決策を求めて進出したわけだ。
それを、“侵略”と呼ぶかどうかは意見が別れようが、例えばフランス領インドシナの歴史からも、事態の本質が見える。
どの歴史にも共通している教訓がある。
違う言語・違う文化を持った人々が既に居住している土地に、異質な者が入っていけば、ただでは済まない、ということだ。
国外はおろか、日本国内でも、アイヌ民族への影響は、未だに続いている。
本当に、ただでは済まない、後世に負の遺産を残す行為だと、北海道にいると実感することがある。
どんな大義名分があっても、それは入って行く側の都合であって、植民地はいずれ独立運動を起こし、“列強”も色んな犠牲を払ってきたのだ。
そういう事に懲りたのが、成熟を遂げた近代国家、ということで、今の日本はその仲間入りを果たして久しい。
ノーベル文学賞を受けた作家が三人目になるかもしれない文化大国に生まれて良かった。
『1Q84』が書店から撤去されることのない国で・・・。
近代国家の後追いをするコピー大国は。
どうしても同じ事をやってみないと、懲りないらしいが。
非合理的で得体のしれないエネルギーを、周囲に発散させているものは、他者を衰弱させること甚だしいのだ。
疲労が蓄積しているせいもある。
この9月は、北海道らしくない残暑だった。
さすがに夏バテのようになっているところに、秋の冷気が降りてきて、気が緩んだせいもあろう。
しかし一番の原因は、どうも、新聞の一面に躍るヘッドラインが、毎朝いやでも眼に入る事らしい。
世事にうとくなってはいけないと、テレビのニュースを見ても、尖閣問題を見ない様には出来ない。
「核時代の森の隠遁者」というタイトルの、大江健三郎の小説がある。
私は、仕事でも現役を退き、インドア派を決め込んでいるのだから、既に「隠遁者」の様なものだが、この頃いっそう、憂鬱な隠者に憧れたりする。
気が付くと、色んな事にネガティブになってしまっており、これはアブナイ、と自分でも思う。
しかし、人間の欲望が剥き出しにされるのを見ていると、気が滅入る。
目を血走らせて他者を圧迫し、少しでも多く分捕ろうと躍起になっている姿の、なんと醜いこと。

中国という国がちゃんとした近代国家に成熟するのに、あと何十年必要だろう?
どういう場合でも、“十把一絡げ”的な発想は、禁物だ。
おまえは……だ。
(おまえらは…。やつは…。やつらは…。)
と、いったい誰を指しているのか具体的にし得ないまま、敵意を抱き、英雄を気取るなら、そこら辺のエテ公にだって出来る。
私が、高校生の時に第一志望を断念させられて、文学に関わる様な選択をしたのは、消去法的にやったことであった。
それでも、未だに文学の周りをうろうろしているのは、文学的発想とは、“十把一絡げ”にする言動とは、本来最も遠いものだからだ。
そして、“十把一絡げ”にしたがる人間達によって、さんざんな目にあってきたからだ。
13億人を越えるとされる中国人だって、個々人のレベルも性向も、千差万別。
ただ、そう言って、平然としていられないものがある。
情報統制された、言論の自由のない政治体制。
これが一番困る。そんな社会は、内からの成熟を邪魔する。
人権活動家は投獄・幽閉される。
政治体制としては、恐怖政治といっても過言ではないし、社会構造も、誘拐や人身売買が後を絶たないほどの歪みを抱える。
日本の様な、欧米化された価値観で理解したつもりでいたら、しっぺ返しを食う。
iPadやiPhoneの商標権をめぐって、中国企業の言い分を通す中国の司法。
こちらの常識が通用しない世界である。
北朝鮮もだが、中国の共産党政権がいっそ崩壊してくれないか、と思ったりする。
ただそうなれば、隣国の日本も世界も、無傷ではいられないだろうから、それも恐ろしい。

今の中国がミャンマーなどに「南進」している様は、懲りもせず歴史は繰り返す、と思わせる。
戦前の日本や、アジアを植民地化していた頃のフランス・イギリスなどと、そっくりだ。
みな、内政が上手くいかず、国外に解決策を求めて進出したわけだ。
それを、“侵略”と呼ぶかどうかは意見が別れようが、例えばフランス領インドシナの歴史からも、事態の本質が見える。
どの歴史にも共通している教訓がある。
違う言語・違う文化を持った人々が既に居住している土地に、異質な者が入っていけば、ただでは済まない、ということだ。
国外はおろか、日本国内でも、アイヌ民族への影響は、未だに続いている。
本当に、ただでは済まない、後世に負の遺産を残す行為だと、北海道にいると実感することがある。
どんな大義名分があっても、それは入って行く側の都合であって、植民地はいずれ独立運動を起こし、“列強”も色んな犠牲を払ってきたのだ。
そういう事に懲りたのが、成熟を遂げた近代国家、ということで、今の日本はその仲間入りを果たして久しい。
ノーベル文学賞を受けた作家が三人目になるかもしれない文化大国に生まれて良かった。
『1Q84』が書店から撤去されることのない国で・・・。
近代国家の後追いをするコピー大国は。
どうしても同じ事をやってみないと、懲りないらしいが。
非合理的で得体のしれないエネルギーを、周囲に発散させているものは、他者を衰弱させること甚だしいのだ。
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