小説版『乞丐相』(2001年,角川書店)は、『木島日記』(2000年)の続編である。
【『木島日記』についての過去記事→大塚英志の『木島日記』】
‘乞丐相’(こつがいそう)とは、折口邸の前に置き去りにされていた赤ん坊の鼻梁にある青い痣を、スラムの女が見て呟いた言葉である。
「兄弟ヲコロシテ家ヲウバウ相……」
折口信夫の鼻梁にもまた、赤ん坊のと同じ青い痣があるのだった……。

『木島日記』に続き、『乞丐相』でも、戦前の日本軍とオカルトとの関わりが、1つのテーマとなっている。
「ごごごごごご…どっかーん」
「まあ、また沈んでしまいましたわ」
美蘭の心底、残念そうな声が海軍省の参謀本部の高い天井に響く。
(『乞丐相』,「翁の発生」)
折口信夫が父親代わりをさせられている娘、美蘭(メイファン)と‘お乞食さん’は、模擬戦闘用の海図の上で軍艦遊びをやっているのである。
その周りを取り囲んでいるのは、不快そうに顔をゆがめる軍人たち。
乞食のようななりをした男は、‘人柱’として船を災いから守る‘持衰’(じさい)だとされる。
この奇妙な二人に寄り添っているのが、軍艦の設計者として歴史に名を残した平賀譲(ひらが・ゆずる)。
平賀は、‘不沈艦建造計画’を進めるために‘持衰’の力が要ると思っている…。
海軍の軍人たちは、‘呪(まじな)い、迷信’に頼ることを冷笑する…。
平賀譲がまじないに頼ったというのは、大塚のフィクションであって歴史的事実ではないだろう。
しかし、事実ではないが、真実である、ということだってある。
先の大戦で行われていた事は、‘「運」や「ツキ」を前提としていた’様にしか見えないことが多い。

昭和の戦争で何が起こっていたか、資料や証言の発掘・検討が進んでいる。
『証言記録 日本人の戦争 後編』はNHKスペシャルとして2011年12月4日に放送されたものだが、私はそれを見逃し、2012年8月2日の再放送を見ることが出来た。
巨大戦艦武蔵は迅速に舵を切ることも出来ずアメリカ軍機の恰好の的になったと、生き残った操舵員が証言している。
それにも増して痛ましく思ったのは、特攻兵器「桜花」。
自力では飛行できず、母機で運んで切り離された後、操縦士がグライダーのように滑空して目標に体当たりするというものだった。
大きな弾頭を積んだ「桜花」は重い。それを運ぶ母機は、動きが遅く、多くが「桜花」もろとも撃墜されてしまった。
犠牲になった搭乗員は430人以上。それで、アメリカ軍艦船をたった一隻沈めたのみだったという。

私の大叔父は、空母「雲龍」に乗り組んでいて東シナ海に沈んだ。
「雲龍」は「桜花」を運搬していたと聞いている。
幾重にも重なり、屈折する悲劇である。
もう一人の大叔父は中国戦線で、祖父はビルマで戦死した。
私は、特に自虐趣味はないつもりで、自分をリアリストだと思っている。
昭和の戦争に関わった世代の、その子や孫の世代に対し、いつまでも戦争責任を蒸し返してくる中韓の人もいるが、そういう勢力には、不満の矛先を国外に向けて八つ当たりしても不毛だろう、と言いたい。
大人の再教育を子供に求めるのは、酷というものだ。
まして、自分が生まれる前の出来事に責任を感じろというのは、オカルトめいたハラスメントである。
しかしだからと言って、太平洋戦争時の日本軍の指導層について、日本人として冷静な評価を避けようとし、“偏向だ!”と、お決まりの反発をするのでは、やっぱり宗教の信者と大して違わない。
「生きて虜囚の辱めを受けず」という美学を持つのは、その個人の勝手だが、それを別の人間に強要するというのは、よほど単純で直情的な思考回路しか持ってないのである。
大勢の人を巻き込んで国家を動かす立場にある人間は、100万人の犠牲を60万人、50万人に減らすにはどうすればよいか、死ぬほど悩むべきなのだ。
それが不可能だからと、「死なう、死なう」と唱えるのは、“カルト教団”とそっくりじゃないか?
そういう問題を、社会学的に、深層心理学的に、明らかにする義務は、子や孫の世代にもある。
国外向けというより、むしろ日本の国内のために。
軍やカルトが、大勢の人を翻弄する仕組みは、姿を変えて、現代の日本社会に多大なる損害を与えてないか???
膨大な情報を手にできる時代になっているのだ。
あとは、それを冷静に検証する力と、“個”の苦痛への想像力とを持ち合わせていれば、過度な自虐に走ることも、逆に自讃に逃げ込むことも、必要ないだろう。
大塚英志を読んでいると、怪しげな新興宗教と軍隊とが、重なって見えてくる。
両方とも、“自分一人の死”を死にたくない尊大な“かまってちゃん”が、暗い欲望を抱えて背後に隠れている。
「人間はどうせ死ぬんだ」、皆んな一緒に「死なう、死なう」。
「でも、俺様だけは、ホントは生き残りたいな」と…。
「桜花」のノッペリとした形態からは、酷薄で横着なものを、私は感じた。
オウムは松本市でサリン噴霧車を使ったが、やっぱりNHKの番組でそれを見た時に、うすら寒いほどふてぶてしいと思った。
どちらにも共通していること。
それは、想像力と理性に欠ける物事に特有の、醜悪さだ。
【『木島日記』についての過去記事→大塚英志の『木島日記』】
‘乞丐相’(こつがいそう)とは、折口邸の前に置き去りにされていた赤ん坊の鼻梁にある青い痣を、スラムの女が見て呟いた言葉である。
「兄弟ヲコロシテ家ヲウバウ相……」
折口信夫の鼻梁にもまた、赤ん坊のと同じ青い痣があるのだった……。

『木島日記』に続き、『乞丐相』でも、戦前の日本軍とオカルトとの関わりが、1つのテーマとなっている。
「ごごごごごご…どっかーん」
「まあ、また沈んでしまいましたわ」
美蘭の心底、残念そうな声が海軍省の参謀本部の高い天井に響く。
(『乞丐相』,「翁の発生」)
折口信夫が父親代わりをさせられている娘、美蘭(メイファン)と‘お乞食さん’は、模擬戦闘用の海図の上で軍艦遊びをやっているのである。
その周りを取り囲んでいるのは、不快そうに顔をゆがめる軍人たち。
乞食のようななりをした男は、‘人柱’として船を災いから守る‘持衰’(じさい)だとされる。
この奇妙な二人に寄り添っているのが、軍艦の設計者として歴史に名を残した平賀譲(ひらが・ゆずる)。
平賀は、‘不沈艦建造計画’を進めるために‘持衰’の力が要ると思っている…。
海軍の軍人たちは、‘呪(まじな)い、迷信’に頼ることを冷笑する…。
平賀譲がまじないに頼ったというのは、大塚のフィクションであって歴史的事実ではないだろう。
しかし、事実ではないが、真実である、ということだってある。
先の大戦で行われていた事は、‘「運」や「ツキ」を前提としていた’様にしか見えないことが多い。

昭和の戦争で何が起こっていたか、資料や証言の発掘・検討が進んでいる。
『証言記録 日本人の戦争 後編』はNHKスペシャルとして2011年12月4日に放送されたものだが、私はそれを見逃し、2012年8月2日の再放送を見ることが出来た。
巨大戦艦武蔵は迅速に舵を切ることも出来ずアメリカ軍機の恰好の的になったと、生き残った操舵員が証言している。
それにも増して痛ましく思ったのは、特攻兵器「桜花」。
自力では飛行できず、母機で運んで切り離された後、操縦士がグライダーのように滑空して目標に体当たりするというものだった。
大きな弾頭を積んだ「桜花」は重い。それを運ぶ母機は、動きが遅く、多くが「桜花」もろとも撃墜されてしまった。
犠牲になった搭乗員は430人以上。それで、アメリカ軍艦船をたった一隻沈めたのみだったという。

私の大叔父は、空母「雲龍」に乗り組んでいて東シナ海に沈んだ。
「雲龍」は「桜花」を運搬していたと聞いている。
幾重にも重なり、屈折する悲劇である。
もう一人の大叔父は中国戦線で、祖父はビルマで戦死した。
私は、特に自虐趣味はないつもりで、自分をリアリストだと思っている。
昭和の戦争に関わった世代の、その子や孫の世代に対し、いつまでも戦争責任を蒸し返してくる中韓の人もいるが、そういう勢力には、不満の矛先を国外に向けて八つ当たりしても不毛だろう、と言いたい。
大人の再教育を子供に求めるのは、酷というものだ。
まして、自分が生まれる前の出来事に責任を感じろというのは、オカルトめいたハラスメントである。
しかしだからと言って、太平洋戦争時の日本軍の指導層について、日本人として冷静な評価を避けようとし、“偏向だ!”と、お決まりの反発をするのでは、やっぱり宗教の信者と大して違わない。
「生きて虜囚の辱めを受けず」という美学を持つのは、その個人の勝手だが、それを別の人間に強要するというのは、よほど単純で直情的な思考回路しか持ってないのである。
大勢の人を巻き込んで国家を動かす立場にある人間は、100万人の犠牲を60万人、50万人に減らすにはどうすればよいか、死ぬほど悩むべきなのだ。
それが不可能だからと、「死なう、死なう」と唱えるのは、“カルト教団”とそっくりじゃないか?
そういう問題を、社会学的に、深層心理学的に、明らかにする義務は、子や孫の世代にもある。
国外向けというより、むしろ日本の国内のために。
軍やカルトが、大勢の人を翻弄する仕組みは、姿を変えて、現代の日本社会に多大なる損害を与えてないか???
膨大な情報を手にできる時代になっているのだ。
あとは、それを冷静に検証する力と、“個”の苦痛への想像力とを持ち合わせていれば、過度な自虐に走ることも、逆に自讃に逃げ込むことも、必要ないだろう。
大塚英志を読んでいると、怪しげな新興宗教と軍隊とが、重なって見えてくる。
両方とも、“自分一人の死”を死にたくない尊大な“かまってちゃん”が、暗い欲望を抱えて背後に隠れている。
「人間はどうせ死ぬんだ」、皆んな一緒に「死なう、死なう」。
「でも、俺様だけは、ホントは生き残りたいな」と…。
「桜花」のノッペリとした形態からは、酷薄で横着なものを、私は感じた。
オウムは松本市でサリン噴霧車を使ったが、やっぱりNHKの番組でそれを見た時に、うすら寒いほどふてぶてしいと思った。
どちらにも共通していること。
それは、想像力と理性に欠ける物事に特有の、醜悪さだ。
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MASHIYUKI いや~,面白い。
一つの価値観しか与えられない戦時中の軍隊・国民と情報過多の現在においてカルト教団へと走ってしまう人間の対比。
両者プロセスは違えど、結果的にそうなってしまう。
盲点でした。
両者の共通点としては、想像力と冷静に検証する能力の欠如に起因して双方似たような結果を生み出してしまう。
如何に一方的に一つの価値観を押し付けられようと、
如何に情報過多で己の思考能力のキャパを遥かに超えようとも、
必死になって考え、自分なりの答えを導き出すことがすごく大切ってことなのでしょうね。
木だけを見れば、森が見えない。
森だけを見れば、山が見えない。
一つのことを見よう見ようとすれば、
囚われ、我が出る。
が、俯瞰的に見すぎてしまうと重要なことを見落としてしまうこともさもありなん。
難しい。見過ぎず考え過ぎず。真ん中が大切。
そのバランスが難しい。
小谷さんのこの記事を読み、
再度、自身の価値観や経験・知識を
デフラグする必要があるかな・・・と思った次第です。
Re: タイトルなし
小谷予志銘 MASHIYUKIさんへ
面白がっていただいて、書いた甲斐がありました。
森と木と両方見てるか、偏りがないか、自分の考えを検討するためにも、色々読むことが必要なんでしょう。
なかなか思うようには読めないです。私なぞ、日々亀の歩みですが。
軍隊とオカルトの関係に、大塚が注目しているのを読んで、まず直感的に納得したのです。
私は、軍隊のことは証言や本でしか知り得ませんが、怪しげな宗教の人間の言動には、実体験として、嫌というほど苦しんできました。
でも、両者の類似は、大塚を読まなかったら、気付かず仕舞いだったかも。
灯台のような、羅針盤のような、そんな書き手を複数、見出しておきたいです。
それにしても、大塚英志はもっと評価されていい書き手だと、思うんですけどね。
十年以上も前のものを今頃読んでますけど、忘れ去られるような書き手じゃないと思います。
昭和8年、「万葉集のわが愛誦歌」一首を挙げるなら、という雑誌『文学』のアンケートに対し、折口信夫(釈迢空)が選んだのは、大伴旅人の従者が詠んだ歌だった。
家にてもたゆたふ命浪の上に漂(う)きてしをれば奥処(おくか)知らずも
(『万葉集』巻十七・3896)
「奥処」は、奥深いところ、果て。歌の全体は、
家にいてさえも、不安定に揺れている命であるが、浪立つ海上に浮かんでいると、行き果てるところも分からないことだ。
といった意味である。
もうすでに、近代的な“存在の不安”に、達している様子である。
万葉の時代、旅に出て不安なのは当たり前だろうが、この従者は家にいても、たゆたっていた。
謂わば、不安が日常になっていた。
「奥処」は、空間的なことであると同時に、時間的なことも含んでいるだろう。
山本健吉は、‘微小な人間存在の行き泊つるところ’と受け止めている。
ひどく古風な共同社会の一員の声の背後から、ひどく近代的な苦悩を知る当時のエリートの声が聞えてくる。かと思うと、船旅を不安がる臆病な平凡人の声の背後から、眼に見えぬものまでも見透す鋭敏な詩人の声が聞えてくる。
(山本健吉『詩の自覚の歴史』,第十六章「大伴旅人の傔従たち」)

歌の第四句「漂(う)きてしをれば」は、「思ひしをれば」の別形も伝わっているが、折口は「漂きてしをれば」の方を採った。
「浮きてし居れば」の方が状態的である。「思ひしをれば」も仲々深さに於てすぐれて居るが、これは観念的に歌つてゐるところに、特殊な価値があるので其れを助ける「浮…」の方が当時としての此歌の新しさを示すことになる。
(折口信夫「万葉集抄」,昭和22年)
「観念的に歌つてゐるところに、特殊な価値がある」という折口の主張について。
弟子の山本健吉は‘この歌がアララギ流に写生的でないことを、一応弁護しているのであろう’と言い、『アララギ』派の歌人達が、旅人の従者達の短歌を黙殺している様を述べている。
巌(いそ)ごとに海夫(あま)の釣船泊(は)てにけり我が船泊(は)てむ巌(いそ)の知らなく
(『万葉集』巻十七・3892)
『アララギ』の指導的存在だった土屋文明は、この、同じく大伴旅人の従者の歌について、「実景ではあろうが、見方がいかにも概念的だ」と難じているそうだ。
3896番「家にてもたゆたふ命」の歌についても、「これも実感ではあらうが、一般的で取柄もない」と、冷淡に評価しているらしい。
“観念的”・“概念的”というのは、日本文学を見ていると屡々出くわす、紋切り型のキミョーな評語である。
何故、“観念”の臭いがするとダメなのか、“写生”が優越である根拠は何か?
私は、未だに理解できない。
結局彼らは、広く“一般”に当てはまる事なんぞ、追求する気は無いのだろう、と受け止めることにしている。
正岡子規とその直系達は、“普遍的”な事などに大して興味は無く、自分にこそ見えるもの、自分にこそ可能な表現に、創作の意義があると思っているのではないか。
それはそれで、一つの考え方であり、アララギ流の秀歌を否定する気は全くない。
ただ、生命的なものの顕現を狙うなら、“神が宿らない細部”にも自覚的であってほしい、というだけだ。

折口が、十年以上も属した『アララギ』を脱会したのは、必然だっただろう。
脱会後は、反アララギ派の歌誌『日光』の同人となった。
ところで、やっぱり『アララギ』を脱会して、『日光』に加わった歌人に、古泉千樫(こいずみ・ちかし)がいた。
この古泉という歌人、正岡子規が「革新は常に田舎者によって成される」としたのを承けて、次のように言ったらしい。
我が田舎者とは直ちに創造を意味し、力を意味する。この力が美である。
(『詩の自覚の歴史』,序章一「宴の歌」から)
こういう事を臆面もなく言える時代だったのだろう。
素朴な生命の発露を信じられるのは、幸いだ。
しかし、『日光』に移った古泉は、文学観まで変化していたのか?
古泉のことまで調べている時間もないが、折口と同じ舟に乗っていられただろうか。
家にてもたゆたふ命浪の上に漂(う)きてしをれば奥処(おくか)知らずも
(『万葉集』巻十七・3896)
「奥処」は、奥深いところ、果て。歌の全体は、
家にいてさえも、不安定に揺れている命であるが、浪立つ海上に浮かんでいると、行き果てるところも分からないことだ。
といった意味である。
もうすでに、近代的な“存在の不安”に、達している様子である。
万葉の時代、旅に出て不安なのは当たり前だろうが、この従者は家にいても、たゆたっていた。
謂わば、不安が日常になっていた。
「奥処」は、空間的なことであると同時に、時間的なことも含んでいるだろう。
山本健吉は、‘微小な人間存在の行き泊つるところ’と受け止めている。
ひどく古風な共同社会の一員の声の背後から、ひどく近代的な苦悩を知る当時のエリートの声が聞えてくる。かと思うと、船旅を不安がる臆病な平凡人の声の背後から、眼に見えぬものまでも見透す鋭敏な詩人の声が聞えてくる。
(山本健吉『詩の自覚の歴史』,第十六章「大伴旅人の傔従たち」)

歌の第四句「漂(う)きてしをれば」は、「思ひしをれば」の別形も伝わっているが、折口は「漂きてしをれば」の方を採った。
「浮きてし居れば」の方が状態的である。「思ひしをれば」も仲々深さに於てすぐれて居るが、これは観念的に歌つてゐるところに、特殊な価値があるので其れを助ける「浮…」の方が当時としての此歌の新しさを示すことになる。
(折口信夫「万葉集抄」,昭和22年)
「観念的に歌つてゐるところに、特殊な価値がある」という折口の主張について。
弟子の山本健吉は‘この歌がアララギ流に写生的でないことを、一応弁護しているのであろう’と言い、『アララギ』派の歌人達が、旅人の従者達の短歌を黙殺している様を述べている。
巌(いそ)ごとに海夫(あま)の釣船泊(は)てにけり我が船泊(は)てむ巌(いそ)の知らなく
(『万葉集』巻十七・3892)
『アララギ』の指導的存在だった土屋文明は、この、同じく大伴旅人の従者の歌について、「実景ではあろうが、見方がいかにも概念的だ」と難じているそうだ。
3896番「家にてもたゆたふ命」の歌についても、「これも実感ではあらうが、一般的で取柄もない」と、冷淡に評価しているらしい。
“観念的”・“概念的”というのは、日本文学を見ていると屡々出くわす、紋切り型のキミョーな評語である。
何故、“観念”の臭いがするとダメなのか、“写生”が優越である根拠は何か?
私は、未だに理解できない。
結局彼らは、広く“一般”に当てはまる事なんぞ、追求する気は無いのだろう、と受け止めることにしている。
正岡子規とその直系達は、“普遍的”な事などに大して興味は無く、自分にこそ見えるもの、自分にこそ可能な表現に、創作の意義があると思っているのではないか。
それはそれで、一つの考え方であり、アララギ流の秀歌を否定する気は全くない。
ただ、生命的なものの顕現を狙うなら、“神が宿らない細部”にも自覚的であってほしい、というだけだ。

折口が、十年以上も属した『アララギ』を脱会したのは、必然だっただろう。
脱会後は、反アララギ派の歌誌『日光』の同人となった。
ところで、やっぱり『アララギ』を脱会して、『日光』に加わった歌人に、古泉千樫(こいずみ・ちかし)がいた。
この古泉という歌人、正岡子規が「革新は常に田舎者によって成される」としたのを承けて、次のように言ったらしい。
我が田舎者とは直ちに創造を意味し、力を意味する。この力が美である。
(『詩の自覚の歴史』,序章一「宴の歌」から)
こういう事を臆面もなく言える時代だったのだろう。
素朴な生命の発露を信じられるのは、幸いだ。
しかし、『日光』に移った古泉は、文学観まで変化していたのか?
古泉のことまで調べている時間もないが、折口と同じ舟に乗っていられただろうか。
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