昨年、2011年の7月21日にブログを開設して、一周年を迎えました。
振り返ってみると、最初の頃と最近とでは、記事の文体が変わってますね。
もともと私は、読むのも書くのも、縦書きの世界の住人で。
ワープロソフトも、縦書き編集できるものを専ら使ってました。
実は、縦書きでないと、文章が書けなかったのです……。
推敲や校正も、ディスプレイ上では見落としてしまうので、プリントアウト(もちろん縦書き)して行うという…。
ブログを始めた頃。「伊藤整の青春」なんて記事は、まずワープロソフトで縦書きしたものを、今の2カラムのレイアウトに、コピペしました。
いざ、ブログの枠に流し込んでみると、違和感たっぷりでした。ヾ(--;)
これはムリ!!と、バッサリ削ったり、ワンセンテンスを短くするよう、表現を直したり。
改行や空白行を多用し、漢字・ひらがな・カタカナのどれを使うか考えたり。
色文字、顔文字、写真、と何でも使って。
やがて、ディスプレイ用の横書きの文章を、横向きに書き、印字せずに推敲できる様になりました。
今では、それなりのスタイルが出来上がっているとも思います。

そうして気付いたのですが、書くスタイルを変えると、考えるスタイルも変わる、のでした。
メディアが紙からディスプレイになり、縦に書くのが横に書くのに変わっただけで…。
厳密に見ると、縦書きの世界と横書きの世界とでは、考えていることが違うのです。
同じディスプレイ上に現すとして、仮にブログが縦書き対応になったら、表現の細部も、全体のトーンも、私は書き換えたくなるでしょう。
これまで公開した記事は55本と、決して多くないですが、読み直してみると。
別の自分を発掘できたような、ヾ(^v^)k気分です。
そもそも何故、違和感を持ちながら、ブログの枠に適合させるような事をやろうとしたか?
“飛躍”が、切実に必要だったからでしょうか。
一つ一つ順序を踏まえながら論理を組み立てるとき、“飛躍”があると叱られます…。
私は、いったい何者でしょう??
結局、今でいう所の“情報リテラシー”を、スパルタ教育めいたキョーレツな仕方で叩き込まれた者です。
(この情報リテラシー、即ちコンピュータ・リテラシーではありません。)
例えば、日本語で書かれたものであれば、いつ誰が書いたか不明な文書でも、その文書の素性や信憑性を推定することが可能です。
“実学”の中で肩身の狭い思いをしたこともありますが、“情報格差社会”などと言われる時代が来て、思いがけず、蓄積は役に立ちそうですが。
そんな、少々理屈っぽい世界で生きてきて、考えを自由に飛躍させてみたくなったのでした。
このブログでは、エッセイ・随筆を書いてきた訳ですが、論理的なものをベースにしつつ、飛躍や詩情を含ませるのは、自己満足と言われようが、楽しいです。
このスタイルで、今後もぼちぼち書いていきたいです。

これらの記事はエッセイですから、虚構はほとんど含まず、ほぼ等身大の私の考えを書いています。
ただ最近少し、虚構を組む必要を感じています。
柄にもなく、小説の習作をしてみようという気になってます。
というのも、例の、‘黒い家’の事ですが…。
そのままでは聞くに堪えない、読むに堪えない事柄は、やはり虚構の中で語る必要があります。
これといって咎められる事はしていない人間に、「前世の罪」などと言ってイチャモンをつけてくる人間。
ちなみに私の前世は、「破戒僧」なのだそうです。(゜_。)?
こういう醜悪なことは、フィクションを交えないと、これ以上バラまけないですね。
それで、縦書きの世界に、少し比重を移したいと思います。
人に読んでもらえるような小説を、自分が書ける気はしませんが…。
紙の切れっ端でも前にして、沈潜する時間を持てば、ずっと後で実を結ぶこともあるかも。
これまで週1回ほど更新してきましたが、当面、月2回の更新とさせてください。
毎月1日と15日を予定してます。
何だか、ドラッグストアーの「全品5パーセントオフ・お客様感謝デー」みたいですが、覚えていただきやすいでしょう。
振り返ってみると、最初の頃と最近とでは、記事の文体が変わってますね。
もともと私は、読むのも書くのも、縦書きの世界の住人で。
ワープロソフトも、縦書き編集できるものを専ら使ってました。
実は、縦書きでないと、文章が書けなかったのです……。
推敲や校正も、ディスプレイ上では見落としてしまうので、プリントアウト(もちろん縦書き)して行うという…。
ブログを始めた頃。「伊藤整の青春」なんて記事は、まずワープロソフトで縦書きしたものを、今の2カラムのレイアウトに、コピペしました。
いざ、ブログの枠に流し込んでみると、違和感たっぷりでした。ヾ(--;)
これはムリ!!と、バッサリ削ったり、ワンセンテンスを短くするよう、表現を直したり。
改行や空白行を多用し、漢字・ひらがな・カタカナのどれを使うか考えたり。
色文字、顔文字、写真、と何でも使って。
やがて、ディスプレイ用の横書きの文章を、横向きに書き、印字せずに推敲できる様になりました。
今では、それなりのスタイルが出来上がっているとも思います。

そうして気付いたのですが、書くスタイルを変えると、考えるスタイルも変わる、のでした。
メディアが紙からディスプレイになり、縦に書くのが横に書くのに変わっただけで…。
厳密に見ると、縦書きの世界と横書きの世界とでは、考えていることが違うのです。
同じディスプレイ上に現すとして、仮にブログが縦書き対応になったら、表現の細部も、全体のトーンも、私は書き換えたくなるでしょう。
これまで公開した記事は55本と、決して多くないですが、読み直してみると。
別の自分を発掘できたような、ヾ(^v^)k気分です。
そもそも何故、違和感を持ちながら、ブログの枠に適合させるような事をやろうとしたか?
“飛躍”が、切実に必要だったからでしょうか。
一つ一つ順序を踏まえながら論理を組み立てるとき、“飛躍”があると叱られます…。
私は、いったい何者でしょう??
結局、今でいう所の“情報リテラシー”を、スパルタ教育めいたキョーレツな仕方で叩き込まれた者です。
(この情報リテラシー、即ちコンピュータ・リテラシーではありません。)
例えば、日本語で書かれたものであれば、いつ誰が書いたか不明な文書でも、その文書の素性や信憑性を推定することが可能です。
“実学”の中で肩身の狭い思いをしたこともありますが、“情報格差社会”などと言われる時代が来て、思いがけず、蓄積は役に立ちそうですが。
そんな、少々理屈っぽい世界で生きてきて、考えを自由に飛躍させてみたくなったのでした。
このブログでは、エッセイ・随筆を書いてきた訳ですが、論理的なものをベースにしつつ、飛躍や詩情を含ませるのは、自己満足と言われようが、楽しいです。
このスタイルで、今後もぼちぼち書いていきたいです。

これらの記事はエッセイですから、虚構はほとんど含まず、ほぼ等身大の私の考えを書いています。
ただ最近少し、虚構を組む必要を感じています。
柄にもなく、小説の習作をしてみようという気になってます。
というのも、例の、‘黒い家’の事ですが…。
そのままでは聞くに堪えない、読むに堪えない事柄は、やはり虚構の中で語る必要があります。
これといって咎められる事はしていない人間に、「前世の罪」などと言ってイチャモンをつけてくる人間。
ちなみに私の前世は、「破戒僧」なのだそうです。(゜_。)?
こういう醜悪なことは、フィクションを交えないと、これ以上バラまけないですね。
それで、縦書きの世界に、少し比重を移したいと思います。
人に読んでもらえるような小説を、自分が書ける気はしませんが…。
紙の切れっ端でも前にして、沈潜する時間を持てば、ずっと後で実を結ぶこともあるかも。
これまで週1回ほど更新してきましたが、当面、月2回の更新とさせてください。
毎月1日と15日を予定してます。
何だか、ドラッグストアーの「全品5パーセントオフ・お客様感謝デー」みたいですが、覚えていただきやすいでしょう。
スポンサーサイト
山上憶良はそもそも、律令国家・日本の優秀な官吏だった。
憶良の父祖はおそらく無位で、憶良は大学寮の入学資格を持たなかったと考えられる。
しかし、養老5(721)年、62歳の時には、東宮(後の聖武天皇)の侍講を仰せつかっている。
これは、憶良が、当代の学問の大家の列に加えられていたことを示す。
皇太子の教育の中心には、経義(儒学の経典の解釈)や律令格式(今の刑法・行政法と、その改正や施行細則)を講ずることがあった。
山上憶良は、『万葉集』の社会派詩人と目される。
里長(さとおさ・50戸の長)が人民から利息を取り立てるのに、笞を持って威嚇する没義道が、「貧窮問答」に描き出されている。

里長やその上に立つ郡司らは、律令制が敷かれる以前から、その土地の伝統的支配者としてあり、いわゆる既得権を維持したがったわけである。
朝廷から派遣された国司が、その土地の郡司らと結託して農民を苦しめる例は、憶良の時代にざらにあったらしい。
6年にわたって筑前守を勤めた山上憶良は、郡司や里長が私利をはかる様を、しばしば眼にしたと思われる。
そういう非道を諫める意図が「貧窮問答」にはあったのだろう。
彼(註─憶良)の民生思想は、儒教を国是とする国家の官僚としての合法的・合理的な支配行為=倫理的行為であり、それは官僚としての義務の観念に裏づけられている。
(山本健吉,『詩の自覚の歴史』,第十一章「山上憶良の「貧窮問答」」)
山本健吉によれば、憶良は‘行政行為を窮極には倫理行為として生かそうとした理想家’であり、極めて稀な存在だった。
しかも、‘その理想に文学表現を与えようとした’のが憶良であった。

しかし、国司の任を離れた後、最晩年の天平5(733)年に憶良が作った3篇の詩は、とても重苦しい。
第十二章「山上憶良の最晩年」で、山本が明らかにしている憶良の動揺とは、つまりは‘死生観’を巡ってのものである。
長い官吏生活を打ち切って都に帰って来たとき、それまで憶良を支えてきた‘イデオロギー’なども、すべて空しく思われだしたのだろう。
すべもなく苦しくあれば出で奔(はし)り去(い)ななと思へど子等に障(さや)りぬ
(山上憶良,『万葉集』巻五,899)
これは「老いたる身の重き病に年を経て辛苦(たしな)み、及(また)児等を思ふ歌七首」と題された、長歌1首反歌6首のうちの一つである。
いよいよ自分一人の死を死ななければならないと気付いた時、取り乱さずにいられるだろうか?
人間には、“魂のこと”、形而上学が、切実に必要とされることが、あるに違いない。
憶良の上の歌を見て、沈痛な気分になっていたとき。
「さようなら原発10万人集会」で話す大江健三郎の姿がテレビに映っていた。
“政治と文学”の難しいところを経て、“魂のこと”をしたいと言う人物を書き始めた大江が、77歳になってまた、反原発集会を先導している。
巨大隕石でも衝突してこない限り、地球は青く、人間の世界は続き、グロテスクな事が繰り返されるのだろう。
天才も凡人も、等しく自分一人の死に備えなければならないが。
この奇怪な形而下の世界は、自分一人の思いに専念することを、なかなか許してくれない。
憶良の父祖はおそらく無位で、憶良は大学寮の入学資格を持たなかったと考えられる。
しかし、養老5(721)年、62歳の時には、東宮(後の聖武天皇)の侍講を仰せつかっている。
これは、憶良が、当代の学問の大家の列に加えられていたことを示す。
皇太子の教育の中心には、経義(儒学の経典の解釈)や律令格式(今の刑法・行政法と、その改正や施行細則)を講ずることがあった。
山上憶良は、『万葉集』の社会派詩人と目される。
里長(さとおさ・50戸の長)が人民から利息を取り立てるのに、笞を持って威嚇する没義道が、「貧窮問答」に描き出されている。

里長やその上に立つ郡司らは、律令制が敷かれる以前から、その土地の伝統的支配者としてあり、いわゆる既得権を維持したがったわけである。
朝廷から派遣された国司が、その土地の郡司らと結託して農民を苦しめる例は、憶良の時代にざらにあったらしい。
6年にわたって筑前守を勤めた山上憶良は、郡司や里長が私利をはかる様を、しばしば眼にしたと思われる。
そういう非道を諫める意図が「貧窮問答」にはあったのだろう。
彼(註─憶良)の民生思想は、儒教を国是とする国家の官僚としての合法的・合理的な支配行為=倫理的行為であり、それは官僚としての義務の観念に裏づけられている。
(山本健吉,『詩の自覚の歴史』,第十一章「山上憶良の「貧窮問答」」)
山本健吉によれば、憶良は‘行政行為を窮極には倫理行為として生かそうとした理想家’であり、極めて稀な存在だった。
しかも、‘その理想に文学表現を与えようとした’のが憶良であった。

しかし、国司の任を離れた後、最晩年の天平5(733)年に憶良が作った3篇の詩は、とても重苦しい。
第十二章「山上憶良の最晩年」で、山本が明らかにしている憶良の動揺とは、つまりは‘死生観’を巡ってのものである。
長い官吏生活を打ち切って都に帰って来たとき、それまで憶良を支えてきた‘イデオロギー’なども、すべて空しく思われだしたのだろう。
すべもなく苦しくあれば出で奔(はし)り去(い)ななと思へど子等に障(さや)りぬ
(山上憶良,『万葉集』巻五,899)
これは「老いたる身の重き病に年を経て辛苦(たしな)み、及(また)児等を思ふ歌七首」と題された、長歌1首反歌6首のうちの一つである。
いよいよ自分一人の死を死ななければならないと気付いた時、取り乱さずにいられるだろうか?
人間には、“魂のこと”、形而上学が、切実に必要とされることが、あるに違いない。
憶良の上の歌を見て、沈痛な気分になっていたとき。
「さようなら原発10万人集会」で話す大江健三郎の姿がテレビに映っていた。
“政治と文学”の難しいところを経て、“魂のこと”をしたいと言う人物を書き始めた大江が、77歳になってまた、反原発集会を先導している。
巨大隕石でも衝突してこない限り、地球は青く、人間の世界は続き、グロテスクな事が繰り返されるのだろう。
天才も凡人も、等しく自分一人の死に備えなければならないが。
この奇怪な形而下の世界は、自分一人の思いに専念することを、なかなか許してくれない。
なかなかに人とあらずは酒壺になりにてしかも酒に染みなむ
大伴旅人(『万葉集』巻三・343)
酒を愛したとされる大伴旅人の、‘讃酒歌’13首のうちの6番目の歌。
私はいわゆる下戸で、アセトアルデヒド分解酵素をあまり持っていない様子。
350mlの缶ビールを飲むのに1時間かかるくらいだから、酒壺になりたいとは間違っても思わない。
仕方なく、気の抜けたビールの甘みや苦みを、ウイスキーでも嘗める様に味わっていると、たいていは、変な目で見られる。(ーー;)
上の歌は、三国時代・呉の鄭泉(ていせん)の故事によって詠んだものだ。
呉の鄭泉は死に臨み、死後は窯のそばに埋めるよう、子に遺言した。
数百年の後、土と化した自分が焼き物の材にされ、酒瓶になれたら願いが叶う、というのである。
死ニ臨ミシ日、ソノ子ニ勅シテ曰ク、我死ナバ窯ノ側ニ埋ムベシ。数百年ノ後、化シテ土ト成リ、覬取(きしゅ)シテ酒瓶トナラバ、心願ヲ獲タリト。(『琱玉集』)

この‘讃酒歌’をはじめ、今日伝わっている大伴旅人の歌の多くは、旅人が大宰帥(だざいのそつ)として筑紫に赴任して以降のものである。
聖武天皇の治世、神亀4年か5年(728年)に太宰府長官となった旅人は、天平2年(730年)に奈良に帰るまで、山上憶良らと共に‘筑紫詞壇’を形成した。
帰京後、旅人は731年に没しているから、最晩年の短い期間の詩作といえる。
64歳にして興った老年の文学である。
旅人も憶良もそうだが、新しい漢学の素養があって、人生的感慨をそのまま歌に詠みこむ傾向があった。この讃酒歌も、酒の讃め歌がいつか老荘的な人生観の吐露になってしまうのである。彼(註-旅人)が老荘思想や仏教思想をどの程度に理解していたか、そのことはさしあたって大した問題ではない。彼が老荘の無為自然の教えから、彼なりに一つの享楽主義思想を引出していたことを見れば、足りる。
(山本健吉『詩の自覚の歴史』,第七章「筑紫詞壇の成立」)
老荘的享楽主義を一つの枠組みとして、大伴旅人が‘自家製の哲学’を歌うようになるには、太宰府在任の日々が必要だった。
都から遠く離れ、心の内の憂悶と日夜向かい合うことで、旅人の歌口は解かれた。
古い豪族であった大伴氏の衰運。
それと対照的に、聖武天皇・光明皇后を戴いた外戚藤原氏一門の栄達の噂。
そしてなにより、太宰府着任早々、妻の大伴郎女(おおとものいらつめ)を亡くしたこと。
験(しるし)なきものを念(も)はずは一坏(ひとつき)の濁れる酒を飲むべくあるらし
大伴旅人(『万葉集』巻三・338)
‘讃酒歌’の1番目の歌である。
効もない物思いに沈む自分に、言い聞かせている。

次は、讃酒歌11番目の歌。
今代(このよ)にし楽しくあらば来む生(よ)には蟲にも鳥にも吾はなりなむ
大伴旅人(『万葉集』巻三・348)
仏教と老荘思想とは、来世を説くと説かぬとにおいて、全く相容れないのだという。
「来世は畜生道に堕ちるぞ!」といった脅かしに屈して、自分の陣地を明け渡してしまう事なんか、早く無くなればいい。
他人の頭の中を占拠したがる新興宗教の徒に対し、NO!と言えない人が逮捕されたのは、つい最近のことだ。
一方で、奈良時代にすでに、こんな風に言い放つ人間がいたのだった。
山本健吉という優れたナビを得て、『万葉集』が退屈でなくなった今日この頃。
大伴旅人(『万葉集』巻三・343)
酒を愛したとされる大伴旅人の、‘讃酒歌’13首のうちの6番目の歌。
私はいわゆる下戸で、アセトアルデヒド分解酵素をあまり持っていない様子。
350mlの缶ビールを飲むのに1時間かかるくらいだから、酒壺になりたいとは間違っても思わない。
仕方なく、気の抜けたビールの甘みや苦みを、ウイスキーでも嘗める様に味わっていると、たいていは、変な目で見られる。(ーー;)
上の歌は、三国時代・呉の鄭泉(ていせん)の故事によって詠んだものだ。
呉の鄭泉は死に臨み、死後は窯のそばに埋めるよう、子に遺言した。
数百年の後、土と化した自分が焼き物の材にされ、酒瓶になれたら願いが叶う、というのである。
死ニ臨ミシ日、ソノ子ニ勅シテ曰ク、我死ナバ窯ノ側ニ埋ムベシ。数百年ノ後、化シテ土ト成リ、覬取(きしゅ)シテ酒瓶トナラバ、心願ヲ獲タリト。(『琱玉集』)

この‘讃酒歌’をはじめ、今日伝わっている大伴旅人の歌の多くは、旅人が大宰帥(だざいのそつ)として筑紫に赴任して以降のものである。
聖武天皇の治世、神亀4年か5年(728年)に太宰府長官となった旅人は、天平2年(730年)に奈良に帰るまで、山上憶良らと共に‘筑紫詞壇’を形成した。
帰京後、旅人は731年に没しているから、最晩年の短い期間の詩作といえる。
64歳にして興った老年の文学である。
旅人も憶良もそうだが、新しい漢学の素養があって、人生的感慨をそのまま歌に詠みこむ傾向があった。この讃酒歌も、酒の讃め歌がいつか老荘的な人生観の吐露になってしまうのである。彼(註-旅人)が老荘思想や仏教思想をどの程度に理解していたか、そのことはさしあたって大した問題ではない。彼が老荘の無為自然の教えから、彼なりに一つの享楽主義思想を引出していたことを見れば、足りる。
(山本健吉『詩の自覚の歴史』,第七章「筑紫詞壇の成立」)
老荘的享楽主義を一つの枠組みとして、大伴旅人が‘自家製の哲学’を歌うようになるには、太宰府在任の日々が必要だった。
都から遠く離れ、心の内の憂悶と日夜向かい合うことで、旅人の歌口は解かれた。
古い豪族であった大伴氏の衰運。
それと対照的に、聖武天皇・光明皇后を戴いた外戚藤原氏一門の栄達の噂。
そしてなにより、太宰府着任早々、妻の大伴郎女(おおとものいらつめ)を亡くしたこと。
験(しるし)なきものを念(も)はずは一坏(ひとつき)の濁れる酒を飲むべくあるらし
大伴旅人(『万葉集』巻三・338)
‘讃酒歌’の1番目の歌である。
効もない物思いに沈む自分に、言い聞かせている。

次は、讃酒歌11番目の歌。
今代(このよ)にし楽しくあらば来む生(よ)には蟲にも鳥にも吾はなりなむ
大伴旅人(『万葉集』巻三・348)
仏教と老荘思想とは、来世を説くと説かぬとにおいて、全く相容れないのだという。
「来世は畜生道に堕ちるぞ!」といった脅かしに屈して、自分の陣地を明け渡してしまう事なんか、早く無くなればいい。
他人の頭の中を占拠したがる新興宗教の徒に対し、NO!と言えない人が逮捕されたのは、つい最近のことだ。
一方で、奈良時代にすでに、こんな風に言い放つ人間がいたのだった。
山本健吉という優れたナビを得て、『万葉集』が退屈でなくなった今日この頃。
トラックバック:(0) |
山上憶良
やけなかまじし3 御記事に対しまして、3件ほどコメント申し上げます
①山上憶良の「貧窮門答歌」は実は当かっちんめえばる生誕(悲しくも楽しい)の源流です。
②酒への愛は・・溺愛といいます
僕の場合、最初のビールは30秒で愛し終えます。
③土と化した自分が焼き物の材にされ酒瓶(あるいはシーサー)なる・・・夢のような没後未来です。
ほ、北海道も暑いですか~?
Re: 山上憶良
小谷予志銘 やけなかまじしさんへ
北海道は、気持ちのいい暑さですよ。西日本と比べると。
道産子じゃない私など、スイカを見るのも寒いくらいで・・・。
お酒を呑める人がうらやましいですな。
サッポロファクトリーの「ビヤケラー」では、未ろ過のピルスナーが飲めるんですが。
アルコールが弱くても、美酒だと分かります。
北海道においでの際は、ぜひご賞味ください。
やけなかまじし3 御記事に対しまして、3件ほどコメント申し上げます
①山上憶良の「貧窮門答歌」は実は当かっちんめえばる生誕(悲しくも楽しい)の源流です。
②酒への愛は・・溺愛といいます
僕の場合、最初のビールは30秒で愛し終えます。
③土と化した自分が焼き物の材にされ酒瓶(あるいはシーサー)なる・・・夢のような没後未来です。
ほ、北海道も暑いですか~?
Re: 山上憶良
小谷予志銘 やけなかまじしさんへ
北海道は、気持ちのいい暑さですよ。西日本と比べると。
道産子じゃない私など、スイカを見るのも寒いくらいで・・・。
お酒を呑める人がうらやましいですな。
サッポロファクトリーの「ビヤケラー」では、未ろ過のピルスナーが飲めるんですが。
アルコールが弱くても、美酒だと分かります。
北海道においでの際は、ぜひご賞味ください。