アンチ-ロマンチシズムと文学との幸福な共存を謀ります。当面、「炭鉱のカナリア」になる決意をしました。第二次安倍政権の発足以来、国民は墨を塗られるだろうと予測していましたが、嫌な予感が現実になりつつあります。日本人の心性や「日本国憲法」の問題などを取り上げながら、自分の明日は自分で決めることの大切さを、訴えていきたいと思います。
何処(いづく)にか船泊(ふなは)てすらむ安礼(あれ)の埼榜(こ)ぎ廻(た)み行きし棚無小舟(たななしをぶね)
(『万葉集』,巻一・58)

高市黒人(たけちのくろひと)のこの歌を、夜の歌とする解釈は、折口信夫が強く打ち出したものだという。

この歌では、古代の旅の心細さの上に、夜泊のとき感ぜられる孤独の寂寥感が加わっている。
「安礼の埼」がどこかは、定説がないようだ。
昼間、行き違った棚無小舟(丸木舟)のイメージが、夜中に沈思する黒人の頭に浮かび、その舟が今ごろ何処に夜泊しているだろう、と思いやっている。

自分の孤独を感じることの深さが、同じくよその船にも孤独の底に住む人を想像させて、ひとごとならぬ思いに沈んでいるのである。
(山本健吉『詩の自覚の歴史』,第4章「旅びとの夜の歌」)

詩の自覚の歴史

「安礼の埼」の歌は、夜の闇黒に縁取られた中に、あたかもそれと対照をなすかのように、明るい昼間の海の光景が描き出されている。単純な平面的叙景歌でなく、甦らせたイメージのなかに浮び上った、想の厚い叙景歌である。
(『詩の自覚の歴史』,第4章)

折口-山本が説く‘夜の鎮魂歌’とは。
地縁的な共同社会を踏み出して、旅びとが異郷の山河に向かい合う時に、孤独な旅びとの不安が、生み出すものだ。

現代の人間とて、夜の闇の中では、昼間には忘れている不安を感じることもあるだろう。

私は、北海道に移り住んでから、常夜灯を点さないと眠れなくなった。
西日本に居た時は、真っ暗でないと眠れなかったのだが…。
地縁血縁を全く離れた異郷に暮らしている、“普段の旅人”といったところか。
まあ、‘夜の鎮魂歌’を歌っている方が、自覚なき血縁者達から、“人間植木鉢”みたいに扱われるよりましだ。
私は、地縁血縁を切り離されたところで生きたい、と願う。
異郷の鬼となるも、そう悪くはないだろう。
自分自身あまり認めたくはないが、私は、やや奇異な境遇にあるらしい。
自覚なき血縁者達から救出してくれたのは、いつも、自覚ある他人達だった。
それらの自覚ある人々は、痛手まで負った。(その恩はどこかで返したい。)
だから、夜と異郷の不安の中で、人間への信頼はどんな風に可能か、私は根底から問わざるを得ない。
人間が社会的な生き物であるからには、自覚、とは“鍵概念”なのだと、とんがった私は思う。


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‘何の係りもないからこそ、それが気にかかり、思いやられる’という境地は、高市黒人によって開かれた、と山本は説く。

古代人のこれまでの関心は、共同社会内の人々であり、山河であった。見知らぬ異郷の自然に心が開かれるとともに、何の係りもない異郷の人にも関心以上の心が開けたのである。
(『詩の自覚の歴史』,第4章)

【鎮魂歌についての関連記事】短歌の成立と長歌の死

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[2012/06/28 11:15] | 古典と現代文学
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短歌は、仮名にして31文字からなる。
短い……。
私は短く書くのが苦手で、短詩型文学の秀逸なものに出会うと、羨望の余り頭がくらくらする。

たんかはかなにしてさんじゅういちもじからなるみじかいわたしはみじ  (T_T)

ハイ、そこまで。
句読点や記号を除いても、31音節の表現の、なんと短いこと!
その貴重な31音節の、普通だと5音節を、枕詞が占領しているのを見て。
ビミョーだな、と思うこともある。

枕詞とは。
旺文社『古語辞典』(1981年新版)の巻末付録には、こう説明されている。

一定の語の上にかかって、ある種の情緒的な色彩を添えたり、句調を整えたりするのに用いられるが、主想とは直接に意味的な関連のない語である。

意味的には不必要とも思われる“修飾”こそ、創作の本意かも。
でも、31分の5、とはまあ、6分の1。ビミョーな歌も生まれるでしょう。

たまもかる敏馬(みぬめ)を過ぎてなつくさの野嶋が埼に舟近づきぬ
(『万葉集』巻三・250)

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「柿本朝臣人麻呂の羇旅歌八首」の中の一首であるこの歌は、ビミョーなのかどうか、考えても判別できず、焦ってしまう。
‘たまもかる’と‘なつくさの’を合わせて、枕詞だけで3分の1占めてるじゃないか…。
なんだこの歌は? 歌聖・柿本人麻呂…。σ(^_^;)
…と思うのは、現代人が『万葉集』の古代から切断されているためで。
こういう時は、折口信夫の古代研究が頼りになるようだ。

敏馬(みぬめ)とは、折口説によれば、兵庫の和田岬のこと。
野嶋が埼は、淡路の北端、松尾崎(松帆崎)のこと。
後世、「こぬ人をまつほの浦の夕なぎに焼くや藻塩(もしほ)の身もこがれつつ」(藤原定家『百人一首』)などと詠まれたところ。

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枕詞とは、このように‘元来、地名に冠せられたものだ’と、山本健吉は言う。

土地に国魂(くにたま)が寓るという信仰と、それは不可分だった。普通名詞につけるようになったのは、その流用に過ぎない。それも神聖な事物、祭式にかかわる事物から、一般に及んだ。そうなるとそれは咒詞的効果を忘れて、単に修辞的効果以上の期待を抱かなくなった。
(『詩の自覚の歴史』,1979年,第3章「柿本人麻呂の羈旅歌」)

「たまもかる」の歌は、2つの地名にそれぞれ、本来的な枕詞をつけ、「舟近づきぬ」と結んだだけの、極めて単純な歌である。
山本がいう、国魂(くにたま)とは、‘土地の精霊’のこと。
枕詞は、その精霊に訴えかける‘強い咒力が籠められた’ものだったそうだ。
この歌は、‘古代の論理’にかなっているわけだ。
地名や枕詞の呪術的な力といっても、現代人にはピンとこないかもしれない。
それでも、手つかずの自然を前にした時など、‘土地の精霊’というような考え方がリアリティを持つこともあろうか。
私は信仰を持たない人間だが、‘土地の精霊’ということがリアルに感じられる時がある。
例えば、釧路湿原の温根内(おんねない)という名の土地で。
北海道に来たことの、こういう幸福を、いつか記事にしたいものだ。
古拙とか、古風とかいわれることに、ゆったりと心をあずけて。


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古代和歌には意味、内容などの実体的なものを排除し、出来るだけ三十一文字の容器をうつろなものにして、調べそのものに歌の命を托そうとする傾向がある。可能なかぎり意味を消し去ったあとに、歌の気のようなもの、詩の精のようなものが、滾々と湧き出て来てそのうつろの空間を充たす。今日の詩人には、このような虚の世界に嬉戯する心の余裕がない。これはアルカイックな歌の不思議な魅力といってもよい。
(『詩の自覚の歴史』,第3章)

次の歌なども、‘意味のない枕詞の詩的効果を、最大限に発揮した歌’である。

しきたへの袖易(か)へし君たまだれの越野(をちの)に過ぎぬまたも逢はめやも
(『万葉集』巻二・195)

川島皇子の薨去にあたって、妃の泊瀬部皇女(はつせべのひめみこ)に、人麻呂が献じた歌。
皇女の立場に立って詠んだ、人麻呂らしい荘厳スタイルの挽歌である。


[2012/06/22 10:50] | 古典と現代文学
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在宅ワーク、一段落しました。もう、へろへろです。
低時給・長時間・ひどく手間が掛かったせいもあり。
やっぱりきついですね。報酬を得るってことは。
(私は相当年数、勤めていた事もあるので、よく知ってたはずですが。)

本を読むにはガス欠状態だからと、今日は漫画を2冊、読みました。
それはそれで、エネルギー要りました。(*◆´`b)b

田島昭宇の絵はホント綺麗ですねえ。(漫画版の『多重人格探偵サイコ』)
繊細かつダイナミック。特に、くっきりと際立った描線が♥
その妖しい美は、『サイコ』の物語にピッタリだと思いました。


例の“猟奇的”表現。こわごわ見ましたが、意外と耐えられました。
教材用の人体模型を見るのに、やや似ている感じ。
田島の絵の美の方に、意識が向かうのか?
もちろん、それなりの負荷はあります。念のため。
(大塚英志自身による小説版の方が、私には、恐くて負荷が大きかったです。)

サイコNo1

要は、猟奇的出来事をめぐって、人間というものを如何に理解するか、ですね。
まあ、小学生には難しいかもしれません。
10代後半となると、十分な理解力を持つ人もいるでしょう。

人間には、腹を括る必要に迫られる場合があるのでしょう。
『サイコ』は、人間について“腹をくくれ”、と言っているように思います。
大人に限らず、未成年者でも、腹を括らねばならない状況に置かれることはあります。残念ながら…。
腹を括らねばならないティーンエイジャーは、『サイコ』を理解できるでしょう。

(雑踏で刃物を振り回すなど、腹を括るのとは真逆の行為でしょうが。)

小説版『木島日記』のように、軽やかに茶化す大塚もgoodです。
純文学書けるけど、書いてあげないもんねー!σ(^┰゜)
とか、言われそうで。
『サイコ』の、読者に負荷をかけてくる、重たーい大塚もgoodです。
どっちもイケてて、どっちも必要ですね。

芸術を目指しながら、芸術? はぁ? と受け手が突っ込みたくなる作品を、創ってしまう例もあり…。
芸術なんかじゃなく「チープなものを書きたい」(小説版『サイコ』あとがき)、と言いながら、受け手の核心に触れる作品を創ってしまう例もあり…。

人間が行為することの、パラドックスでしょうね。

ともかく、疲れた! 在宅ワーク。
酒でも飲みたい気分です。下戸のサカナ荒しですが…。


[2012/06/14 16:35] | 大塚英志の仕事
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