アンチ-ロマンチシズムと文学との幸福な共存を謀ります。当面、「炭鉱のカナリア」になる決意をしました。第二次安倍政権の発足以来、国民は墨を塗られるだろうと予測していましたが、嫌な予感が現実になりつつあります。日本人の心性や「日本国憲法」の問題などを取り上げながら、自分の明日は自分で決めることの大切さを、訴えていきたいと思います。
小説版『多重人格探偵サイコ』の3冊を通して、犯人達が崇拝するカルト・ミュージシャンの存在がある。

ルーシー・モノストーン

実在した人物ではなく、大塚英志の虚構らしい。

1960年代末から70年代初めにかけて、全米ツアーしながら、行く先々で爆弾テロを行い、最後は南米で集団自殺した、という設定。
「西園伸二の憂鬱」で、電波ジャックしたDJ・純内聖人は、モノストーンの『二十才の頃』という曲を流す時、こんな風にしゃべる。

サルトルの盟友ポール・ニザンの『アデン・アラビア』の冒頭の一節をモチーフにしたことで有名な曲だ。『アデン・アラビア』の中でニザンは書いている。「一歩足を踏みはずせば、いっさいが若者をだめにしてしまうのだ」と。
(『多重人格探偵サイコ--西園伸二の憂鬱』,第7章)

彼等を支配しているのは、為すすべもなくスポイルされてしまう、という絶望と焦燥なのだろう。
だから、チャンスをとらえて、何処かへ‘出発’しようとする人物達。
いったん出発したら、二度と帰って来られない旅……。なのに行くしかないのさ。
(ポール・ニザン─サルトル─若き大江健三郎、という系譜に、作中人物達は連なっている訳である。)

スポイルされたくないよね!
物質的に最低限の保障が与えられればいいってもんじゃないし。
ちきしょーッ、飼い殺しにされてたまるかッ!
スポイルされるくらいなら死んだ方がマシだ!!!
とか……。危なっかしい叫び声が、自分の中であがる。
その時、はるか忘却の彼方に忘れ去られた、“人間の尊厳”ということが、前景に出てきている訳だ。
色んな悲しい事件を、“人間の尊厳”という観点から洗い直すと、何が見えてくるだろう?


『サイコ』の第3巻、「雨宮一彦の帰還」では、‘ルーシー・シンドローム’という言葉が使われている。
ルーシー・モノストーンに私淑し、啓示を受け、模倣する犯罪者達。

雨宮一彦の帰還

「雨宮一彦の帰還」では、ノーベル賞作家の周辺にいるという設定の建築家・上野達(うえの・すぐる)も、‘連帯赤軍’のリーダー・四方田森(よもだ・しん)も、自分たちのアイデンティティーを、モノストーンに求めた人物として登場する。

しかし、この教祖のような存在のルーシー・モノストーンもまた、誰かに“影響”された人間だった。
七人のルーシーの都市伝説に毒された最も早い世代の一人’(「雨宮一彦の帰還」,第5章)なのである。
この‘都市伝説’も、たぶん大塚の虚構だろうが、ルーシーと名乗る七人の殺人鬼の噂話である。
その‘ルーシー7’を題材にした歌が、アメリカの子供達の間で流行し、影を落としているという。『本当は恐ろしいグリム童話』ならぬ、本当は恐ろしいマザーグース、といったところ。

“悪”とは、そもそも類型的なのではないか。
暴言なんて、誰の口から出ても、どれもビックリするほど似通っているじゃないか。


雨宮一彦は、犯人のプロファイリングに才能を発揮する。
対照的に、警視庁キャリアの笹山徹(ささやま・とおる)は、‘人間の心や行為というものはそういった類型からは必ずこぼれ落ちる何かがあるはずである’と考えるから、犯人から遠ざかってしまう。

‘特権的な殺人者’であろうとしても、めざましい革命闘士であろうとしても、気が付くと恐ろしく凡庸なことをやらかしている。そんなものだろう。

彼女たちの連合赤軍

連合赤軍の山岳ベース事件(1970年代初頭)をモデルとした、四方田森と焔妖子らの失敗。
彼等の失敗を受け止める側の、錯誤。
この物語も第3巻の読みどころだが、大塚の別著『「彼女たち」の連合赤軍』にゆずった方がいいか。

ともかく、自分らしくあろうとして“悪”を働くなんて、進んでパターンにはまるようなものだ。

あとは、“善”が類型的でなければ、嬉しいがwww

【関連記事】
小説版『多重人格探偵サイコ』
小説版『多重人格探偵サイコ』(その2)

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[2012/05/31 16:15] | 大塚英志の仕事
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こんばんは。はじめまして。

サイコ!!久しぶりに「ルーシー・モノストーン」という言葉を聞きました。
10何巻だかで読むのはやめてしまったのですが、あんまり謎が多いので、気残りでした。
また、読んでみようと思います。

Re: タイトルなし
小谷予志銘
慧さんへ。
はじめまして。コメントありがとうございます。

小説版と漫画版では、設定の異なる点があったりするらしいですが、補完し合う様にもなってるらしいですね。

私はこれから、ぼちぼち漫画版を読んでみようと思ってます。
小説版『サイコ』は、今時の○○賞作家の水準を超えてるかも。
情念とか、抒情さえ感じる。
複雑でも、何とか理解したい、という気にさせられました。

大塚英志、恐るべし!!!

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テレビもいよいよオワッたな、と嫌な気分でスイッチを切った。
終わったのがテレビだけならいい。
テレビなんて詰まらない、と皆が見向きもしなくなるのは、むしろ日本社会の成熟にとって良いことかも。
電波にも、利権があるから。

今は、ブログの記事の方がよほど面白い。

テレビだけではなく、行政も、日本自体も、あの頃すでに終わっていたんだな、と回顧することにならねばいいが…。

生活保護費の「不正受給」疑惑をめぐる、お笑い芸人の会見を見て、後味の悪いものが残った。

「責任」を正しく問う方法を欠きながら、「責任」を問おうとすると、メディア・リンチのような、見るも無惨なことになる。

そもそもなんで、「子」がさらされるのか?
子が有名人で、親は一般人だから、か。
(たぶん、マスコミも、自民党の政治家も、他に根拠を持たないのだろう。)
子の年収が5千万もあり、「貰えるものはもらっておけば」などと示唆した、というのが事実なら、あの芸人も、正しくモラルが問われるべきだ。
ただ、子の悪しき示唆を諫めもせず、生活保護を申請した主体は、立派な大人である親ではないのか?
それとも、その親は判断能力が十分でない、「成年後見人」でも必要な状態なのか?

穀物リング_convert_20120501182421

いい歳をした大人の、「子」の誤りを正すべき壮年・老年の、お粗末な行動を、やっぱりいい歳をした中年の「子」に、償わせる。
主体なんてものは、そこには無いんだろう。

日本って、本当に近代的先進国家なの?

あんまり「子」の世代ばかり責めていると、そのうち日本人はいなくなるかも…。
社会保障を公正に行うための具体的な取り決めもせずに、真っ先に声高に、「扶養の義務」ということを言い始める。
そういう恐ろしい流れに対して、もはやマスコミには検証能力がないらしい。
マスコミさん。もっと勉強しなよ。ネットの言論を低レベルと言うなら……。
「生活保持の義務」と「生活扶助の義務」との違い。理解してマイクを向けているのか?

1年以上も前、弁護士に法律相談したことがある。

ひまわり_convert_20120526234408

squeezeされていた私は、奨学金の返済に充てる為の、退職金の残りも取りあげられ、スッカラカンになった。
そのうえ何故か、唯一所有している小さな不動産まで、強引に売却されそうになったので、思い切って、弁護士なる人間の顔を見てみようと、決意したのである。
俳優が演じる弁護士じゃなくて、本物の弁護士ってどんなのか。
ひまわりのバッチを付けた人物は、怪しげな不動産業者を電話一本で撃退すると、私に向かって、極めて明晰に筋道を通してくれた。

「KさんとTさんの、年金収入はいくらあるか。預貯金はいくらあるか。
Yさんの戦没者遺族年金がいくらで、そこから特養に支払った残りがいくら、Kさんの懐に入っているか。
KさんとTさんの、社会保険などの負担がいくらか。
それらの数字を、提出してもらうこと。もちろん、Kさんの「自己申告」ではだめ。
Kさんが提示を拒むなら、個人情報の壁もあるから、家庭裁判所の調停で、明確にさせるとか。
まず、「事実」を把握することです。」


なんだか、えげつない話ですけどね。
でも、生活保持義務と生活扶助義務の違いとかも含めて、そういうえげつない所を通らないと。
squeezeか、squeezeでないか。その判別は難しいですよ。

お笑い芸人の一件も一般庶民の事情も、本質は同じ。
義務と権利について問うとは、そういうエゲツナイところを通るという事ですが……。
社会保障と人間の権利・義務に関して、日本という先進国家は、未だキチンとした裁定が出来ないのです。

「生活扶助義務」があるとされる「子」に「余力」が有るか無いか、線引きするってどういう事なのか、分かっているんでしょうか、政治家は。

スケープゴートをひっぱたいてガス抜きしている限り、皆が乗った大船の船底を傷つける事しか、できませんね。

マスコミから、「校閲」を経てないと揶揄されるネット上の皆さん、どう思いますか?

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[2012/05/27 00:20] | ブラック家族
[tag] 扶養能力
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小説版『多重人格探偵サイコ』の第2巻「西園伸二の憂鬱」(2002年,講談社)では、童話やお伽噺の主人公を模倣した事件が、次々と起こる。

事件を起こすのは、精神科医・津葉蔵幸治(つばくら・こうじ)の患者達。
津葉蔵は、民話療法(患者達に童話をモチーフにした寸劇を演じさせる治療法)を施す医師として知られている、という設定だ。
しかし、「白雪姫」も、「アリとキリギリス」も、実は‘自己実現の物語’になっておらず、‘暗く救い難い欲望が横たわっている’だけのように、津葉蔵には思えてきた。
長い思案の末、津葉蔵は、暗い欲望に身をまかせて初めて患者達が癒やされる、という‘仮説’を実行に移した……。

何とも、救いようのない話だ……。

『木島日記』(2000年)では、喪失と思慕の甘ったるーい物語は、軽やかに茶化されていた。
おちゃらけた大塚英志の筆致が、慕わしいほどだ。

「いやーん、いけすかない」
(『木島日記』,第5話, ‘おかま’のドイツ人・ヘーガーの嬌声。www)

木島日記

しかし、『サイコ』では、シャイな少年、内田保(うちだ・たもつ)が、渋谷センター街の雑踏で日本刀を振り回す。
これは、2008年に秋葉原で起きた悲惨な通り魔事件を、予見しているかのようだ。

『サイコ』の漫画版を「有害図書」に指定して、18才未満から遠ざけるべきなのだろうか?
『サイコ』は、犯罪を誘発するだろうか?
逆じゃないか。無差別的怨恨がどんな風に生じるか、深く理解できる大人もいるのだという、希少なメッセージになり得るかもしれない。
(まあ、絵を見ていないから、柔らかい心が受け止められる範囲かどうか、分からないけれど。)

勿論、話の分かりそうなオタクがマスコミに一人や二人いるからと言って、それで苦痛から解放されるほど、現実は甘くなく。
『サイコ』も、理解の通路が一目で見えるほどには、単純な構造をしておらず。
『サイコ』の複雑な物語は、甘くない現実を知っている大塚の、屈折の反映にも見えて…。

いやーん、いけすかない!

西園伸二の憂鬱

“誰でもよかった”と、直接の加害者でない人間に刃を向けさせるような怨恨とは、因果律を認めさせない力が働いて起こる。
(あの、飼い犬を殺処分されたという恨みで、元官僚宅が襲われた事件。飼い犬を保健所に引き取らせたのは、犯人の家族だと報道されていたが。)
原因を直視させない力によって、無差別的に人間への恨みが発生する。

あらぬ方へ八つ当たりして、怨恨を晴らすやり方は。この期に及んで、自戒すべし。
かといって、恨みを内向させて、自分自身を破壊する行為も、やっぱり却下だ。
原因を作った張本人に、正当にやり返す。これは、因果律に則っているぶん、上の二つよりマシだ。
ただ、悪趣味で不毛だから、私はこれも却下する。
では、内に渦巻いている恨みを、どう解決すればいいのか?
原始的な‘刺激’に躍らされている人間について知悉し、まがまがしい力を消化してしまうこと。
私には今のところ、それ以外に、方法が見つからない。
その方法で、どこまで人が立ち直るか? 私が実験台だ。


人間について知悉しようとする時、次のような感覚は、不可欠に思われる。

死体にビデオカメラを向けたジャーナリストはその受け手の好奇心をただ代行するだけだ。カメラを向けられた瞬間、いかなる絶望も戦争も、多分、ホロコーストさえもポルノグラフィーとして加工される
(『多重人格探偵サイコ』--西園伸二の憂鬱,第4章)

津葉蔵の患者達が引き起こす凶行を、ビデオに収録してまわる渡久地菊夫(とぐち・きくお)。
凶行の実況中継をする、電波ジャックのDJ・純内聖人(すみうち・きよひと)。
ラジオから流れてくる絶望と呪詛を、‘ワイドショーの視聴者’よろしく、‘性的昂奮’を覚えながら、‘消費’する語り手、大江公彦(おおえ・きみひこ)。

『サイコ』にひしめいている、快楽主義のしもべ達。

いやーん、いけすかない!!

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[2012/05/22 06:00] | 大塚英志の仕事
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