【今回の記事は、一連の文学エッセイに交えて、かなり個人的な思いを書いています。いつもそうですって?
いえ! いつもと違うのは、やや具体的な苦情のような内容を交えている点です。牛の涎のように長い上に、見苦しいかもしれませんが、悪しからずご了承下さい。】
****************************************************
‘隠者文学’とは、山本健吉によれば、‘自分の身分を離れて、自由な生活を営んでいる社会外の存在、言わばアウトロウの文学’であり、平安末から元禄ごろまでの長い期間が隠者文学の時代だとされる。
歌林苑での俊恵法師の歌の集いに端を発し、藤原俊成・西行・鴨長明・兼好・頓阿・正徹・心敬・宗祇・宗鑑等を経て、西鶴・芭蕉・近松・契沖等にまで及ぶ、長い文学の流れである。
(『古典と現代文学』,「隠者文学」)
この、質・量共に膨大な‘隠者文学’は、日本文学のさらに長大な流れのなかで、どんな意味をもっているか?
山本いわく、‘隠者たちの最大の功績は、文学を宮廷女流の感傷から解放したことだ’。
感傷…。
辞書的に言えば、感じて心をいためること。
心にうけた大小の傷は、文学の種子であり、感傷的な要素を全く含まない文学があるとすれば、それは喰えない代物だろう。
しかし逆に、感傷によって全体が統括されているような、センチメンタルな文学というのも、私にはちょっと、喰えない…。
そもそも私は、なぜセンチメンタリズムが苦手なのか? 山本健吉の「隠者文学」を4・5回、繰り返し読んでいるうちに、ふっと気付いたことがある。
感情を発露することは、文学に限らず創作では、必要欠くべからざる、好ましい態度と受けとめられる場合が多いだろう。
でも感情を重視するということは、案外、不自由への道まっしぐら! だったりするのだ。
感情とは、割合に単純・類型的なものであり、誰でも同じような感情を抱きうる非個性的なものだから。
書き手にとってその傷が如何に切実なものであっても……。
書き手が気付かないうちに、感傷はいとも簡単に“先入見”に転じ、作品のタガと化す。
その結果として、他愛ない袋小路の文学が再生産される。
けれども、感傷したがるのが、人間の哀しい習性なのだろう。
‘感傷の文学’は、創りやすく、また受容しやすい。だから、メジャーになることも多い。
その点、現代文学でも古典文学でも、状況は同じである。
そういう‘感傷の文学’に対立するものとして、山本が位置づけているのが、‘隠者文学’なのである。
西行法師の位置づけ。
‘没感傷’という意味での「心なき」という観念を、文学のなかに導き入れた代表者である、という風に。
如何なる機会にも、感傷しようと構えている心を脱却して、先入観念のない自由無礙の状態を、心のなかに設定しようとした。
(『古典と現代文学』,「隠者文学」)
センチメンタリズムの他愛なさを突破するためには、“批評精神”が不可欠である。
批評とは、この現世に対する批判でもあるが、無闇に他人を否認することではない。
(この現実世界に生きている個々人には、皆それぞれの事情や思いがある。
それが見えないのはお互い様だ。
アナタが理解してもらえないからと、毒づいている相手。
その相手もやっぱり、アナタの想像が及ばない状況下で苦しんでいる、そういうことがあるかもしれない、と何故、書く前に思い留まれないのだろう?
満たされない自己承認欲求が裏返って、ほとんど何も知らないに等しい人間を否認するのか???
ネット上で不特定多数を否認する言葉。
それらの粗雑な言葉が、否認しているアナタ自身とアナタに否認されている人間を共に、袋小路に追いこんでいるのに。
人を否認する言葉なんて、そんな安直なものをバラまく暇があったら、外にすることがあるだろう。
私も不特定多数の一人である。正直言って、数日に亘り、強烈な不快感に囚われた。
私もまた、罵倒されている対象なのか? そう思えなくもない表現を前に、仮にそうなら黙っているべきではないと思ったが、どうすべきかずっと考えていた……。
黙って通り過ぎるのが賢明だろう…。私の側には微塵も借りはないし…。
不特定多数をバカにする方法を取っているのだから、私も、不特定多数に発信する形をとることに決めて、こうして今、思うところを書いているのである。
ネットの世界には、ネットの世界なりの流儀がある。
読むというより、見るのに向いているメディアを使っているのだから、私だって、wwwと笑うことはあるが……。
私がネット上で交流している潔い彼女もまた、wwwと笑うが……。)
なんとなく予感していた失望を感じながら、私のモヤモヤとした思いの中から、ようやく纏まってきた考え。
やはり、“批評”とは、そのジャンルの先行する作品に向けて行うべきことだ。
創作する人間が、理解してくれそうにない受け手に、傷を負わせてどうするのか?
(文学に於けるアウトロウとは? 実生活の無頼的態度とは次元が異なっている、既存の文学作品に対する態度である。)
(人をアホ呼ばわりして、‘交差点で拡声器を使って人々を中傷するようなことは止めなさい’、とたしなめられ。また懲りずに。今度は、バカ呼ばわり。理解できないおまえは程度が低いんだろ? と、なぶる言葉を連ねて受け手を萎縮さる。ディスプレイに向かう読者の脳裏では、アナタの言葉は、チラつかせている棍棒と変わりないが…。私の養育者も、言葉を棍棒と同じに使っていたが……。そんな風に言葉を用いて、後に苦いものは残らないか?)
『千載集』から『新古今集』への時代にかけて、つまり、藤原俊成・定家の時代になってはじめて‘自分たちの創作の与えられた前提として’、詩人たちは『古今集』以来の作品の堆積を受け取るようになった。
自分たちが用いようとする詩語が、数百年の使用を経て、日常的秩序の外に、種々の連想と雰囲気とを伴ない、同時に時代々々に愛玩された手擦れの跡を濃厚に残しながら、一つの詩的秩序を形成している場合、まずそのことが、詩人にとって絶大な負い目となり、抵抗となり、また拠り所ともなるものだ。
(『古典と現代文学』,「隠者文学」)
散文と韻文とでは、事情は違うが。膨大な堆積が存在しているのは同じである。
明治・昭和・平成と、詩人・小説家・批評家の負うハンデ、山本の言う‘負い目’は大きくなる一方だ。平成の人間が力量上位とは限らないのに……。
しかし、先行作品が‘絶大な負い目となり、抵抗となり、また拠り所ともなる’という厳しい事態を回避し続けて、偶然のような成功を期待するか?
商品として消費されてお終いといった作品のレベルを、超えられる作品がそんなに出て来るだろうか?
○○賞受賞のインタビューなどで、作家の口から、新戯作派の作家達の名前が出るのは、よくあることだ。
しかも、その新戯作派に‘負い目’や‘抵抗’を感じているとは、外目には感じられないことも……。
新戯作派は膨大な堆積のなかでは一つの点に過ぎないが、一点主義でも‘負い目’が無いよりマシだ。
太宰なり安吾なりの全集を読み尽くして、再読、再々読しつつ、自分を打ち出していくのならば。
太宰でも安吾でも、再読すればその度に、ますます重くなるはずである。
重い先行者達を重いと認め、その壁を叩き続けていると、詩も小説も、批評を内に含むようになってくる。
そういう批評の味を知ってしまった読者が、自覚が不足している様に見える現行作家の作品に、ちやほや言わないのは、当たり前の話ではないか?
読者を批評するなんて勘違い、私は許容できません。
アナタ、『伊藤整全集』読んだ?
読んだら、理解されない理由を受け手に押っ被せて暴言を並べるなんて、できなくなりますよ。
私らそんなバカじゃないしwww
ナメないで下さい。私らの審美眼を。
いえ! いつもと違うのは、やや具体的な苦情のような内容を交えている点です。牛の涎のように長い上に、見苦しいかもしれませんが、悪しからずご了承下さい。】
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‘隠者文学’とは、山本健吉によれば、‘自分の身分を離れて、自由な生活を営んでいる社会外の存在、言わばアウトロウの文学’であり、平安末から元禄ごろまでの長い期間が隠者文学の時代だとされる。
歌林苑での俊恵法師の歌の集いに端を発し、藤原俊成・西行・鴨長明・兼好・頓阿・正徹・心敬・宗祇・宗鑑等を経て、西鶴・芭蕉・近松・契沖等にまで及ぶ、長い文学の流れである。
(『古典と現代文学』,「隠者文学」)
この、質・量共に膨大な‘隠者文学’は、日本文学のさらに長大な流れのなかで、どんな意味をもっているか?
山本いわく、‘隠者たちの最大の功績は、文学を宮廷女流の感傷から解放したことだ’。
感傷…。
辞書的に言えば、感じて心をいためること。
心にうけた大小の傷は、文学の種子であり、感傷的な要素を全く含まない文学があるとすれば、それは喰えない代物だろう。
しかし逆に、感傷によって全体が統括されているような、センチメンタルな文学というのも、私にはちょっと、喰えない…。
そもそも私は、なぜセンチメンタリズムが苦手なのか? 山本健吉の「隠者文学」を4・5回、繰り返し読んでいるうちに、ふっと気付いたことがある。
感情を発露することは、文学に限らず創作では、必要欠くべからざる、好ましい態度と受けとめられる場合が多いだろう。
でも感情を重視するということは、案外、不自由への道まっしぐら! だったりするのだ。
感情とは、割合に単純・類型的なものであり、誰でも同じような感情を抱きうる非個性的なものだから。
書き手にとってその傷が如何に切実なものであっても……。
書き手が気付かないうちに、感傷はいとも簡単に“先入見”に転じ、作品のタガと化す。
その結果として、他愛ない袋小路の文学が再生産される。
けれども、感傷したがるのが、人間の哀しい習性なのだろう。
‘感傷の文学’は、創りやすく、また受容しやすい。だから、メジャーになることも多い。
その点、現代文学でも古典文学でも、状況は同じである。
そういう‘感傷の文学’に対立するものとして、山本が位置づけているのが、‘隠者文学’なのである。
西行法師の位置づけ。
‘没感傷’という意味での「心なき」という観念を、文学のなかに導き入れた代表者である、という風に。
如何なる機会にも、感傷しようと構えている心を脱却して、先入観念のない自由無礙の状態を、心のなかに設定しようとした。
(『古典と現代文学』,「隠者文学」)
センチメンタリズムの他愛なさを突破するためには、“批評精神”が不可欠である。
批評とは、この現世に対する批判でもあるが、無闇に他人を否認することではない。
(この現実世界に生きている個々人には、皆それぞれの事情や思いがある。
それが見えないのはお互い様だ。
アナタが理解してもらえないからと、毒づいている相手。
その相手もやっぱり、アナタの想像が及ばない状況下で苦しんでいる、そういうことがあるかもしれない、と何故、書く前に思い留まれないのだろう?
満たされない自己承認欲求が裏返って、ほとんど何も知らないに等しい人間を否認するのか???
ネット上で不特定多数を否認する言葉。
それらの粗雑な言葉が、否認しているアナタ自身とアナタに否認されている人間を共に、袋小路に追いこんでいるのに。
人を否認する言葉なんて、そんな安直なものをバラまく暇があったら、外にすることがあるだろう。
私も不特定多数の一人である。正直言って、数日に亘り、強烈な不快感に囚われた。
私もまた、罵倒されている対象なのか? そう思えなくもない表現を前に、仮にそうなら黙っているべきではないと思ったが、どうすべきかずっと考えていた……。
黙って通り過ぎるのが賢明だろう…。私の側には微塵も借りはないし…。
不特定多数をバカにする方法を取っているのだから、私も、不特定多数に発信する形をとることに決めて、こうして今、思うところを書いているのである。
ネットの世界には、ネットの世界なりの流儀がある。
読むというより、見るのに向いているメディアを使っているのだから、私だって、wwwと笑うことはあるが……。
私がネット上で交流している潔い彼女もまた、wwwと笑うが……。)
なんとなく予感していた失望を感じながら、私のモヤモヤとした思いの中から、ようやく纏まってきた考え。
やはり、“批評”とは、そのジャンルの先行する作品に向けて行うべきことだ。
創作する人間が、理解してくれそうにない受け手に、傷を負わせてどうするのか?
(文学に於けるアウトロウとは? 実生活の無頼的態度とは次元が異なっている、既存の文学作品に対する態度である。)
(人をアホ呼ばわりして、‘交差点で拡声器を使って人々を中傷するようなことは止めなさい’、とたしなめられ。また懲りずに。今度は、バカ呼ばわり。理解できないおまえは程度が低いんだろ? と、なぶる言葉を連ねて受け手を萎縮さる。ディスプレイに向かう読者の脳裏では、アナタの言葉は、チラつかせている棍棒と変わりないが…。私の養育者も、言葉を棍棒と同じに使っていたが……。そんな風に言葉を用いて、後に苦いものは残らないか?)
『千載集』から『新古今集』への時代にかけて、つまり、藤原俊成・定家の時代になってはじめて‘自分たちの創作の与えられた前提として’、詩人たちは『古今集』以来の作品の堆積を受け取るようになった。
自分たちが用いようとする詩語が、数百年の使用を経て、日常的秩序の外に、種々の連想と雰囲気とを伴ない、同時に時代々々に愛玩された手擦れの跡を濃厚に残しながら、一つの詩的秩序を形成している場合、まずそのことが、詩人にとって絶大な負い目となり、抵抗となり、また拠り所ともなるものだ。
(『古典と現代文学』,「隠者文学」)
散文と韻文とでは、事情は違うが。膨大な堆積が存在しているのは同じである。
明治・昭和・平成と、詩人・小説家・批評家の負うハンデ、山本の言う‘負い目’は大きくなる一方だ。平成の人間が力量上位とは限らないのに……。
しかし、先行作品が‘絶大な負い目となり、抵抗となり、また拠り所ともなる’という厳しい事態を回避し続けて、偶然のような成功を期待するか?
商品として消費されてお終いといった作品のレベルを、超えられる作品がそんなに出て来るだろうか?
○○賞受賞のインタビューなどで、作家の口から、新戯作派の作家達の名前が出るのは、よくあることだ。
しかも、その新戯作派に‘負い目’や‘抵抗’を感じているとは、外目には感じられないことも……。
新戯作派は膨大な堆積のなかでは一つの点に過ぎないが、一点主義でも‘負い目’が無いよりマシだ。
太宰なり安吾なりの全集を読み尽くして、再読、再々読しつつ、自分を打ち出していくのならば。
太宰でも安吾でも、再読すればその度に、ますます重くなるはずである。
重い先行者達を重いと認め、その壁を叩き続けていると、詩も小説も、批評を内に含むようになってくる。
そういう批評の味を知ってしまった読者が、自覚が不足している様に見える現行作家の作品に、ちやほや言わないのは、当たり前の話ではないか?
読者を批評するなんて勘違い、私は許容できません。
アナタ、『伊藤整全集』読んだ?
読んだら、理解されない理由を受け手に押っ被せて暴言を並べるなんて、できなくなりますよ。
私らそんなバカじゃないしwww
ナメないで下さい。私らの審美眼を。
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しげちゃん 凄く参考になることばかり・・。
ありがとうございます。
Re: しげちゃんさんへ
小谷予志銘 口をひらけば 嫉みあり 筆を握れば 譏りあり
友を諌めて 泣かせても 猶(なお)ゆくべきや 絞首台
という与謝野鉄幹の言葉が、今、頭の中をぐるぐる回っております。
ブログの緩やかな繋がりが、連歌・俳諧の付合(つけあい)の様になると、面白いですね。
二次元も悪くないけど・・・
ふじょ 二次元も悪くはないんだけど・・・
やっぱ、三次元っしょ
Re: 二次元も悪くないけど・・・
小谷予志銘 ふじょさんへ
二次元は本やブログ、三次元は私らが呼吸しているこの空間、といった意味でしょうか?
三次元を変えるための二次元ですが、二次元が三次元を危うくする様な関わり方をするのは、舵取りが誤っているんでしょうね。
人を批判する事のしんどさ故、凹んでましたが、もう切り替えます。
コメント、ありがとうございました。
keneknkids なにがあったかは存じませんが、もう大丈夫ならよかったです。
他人を批判することでしか自分を表現できないというか、
そもそもそれでは独立した自己を成し得ていないというか。
攻撃するほどにその内は空洞であるのでしょう。
なにかで満たすには幸福は最もハードルが高く、
感謝の気持ちなくしては得難いものですから、
それ以外となると、、、黒いほうへと落ちていくほうが楽ですからね。
よくは解りませんけども、かまってちゃん・・なだけなのでは?www
Re: 神聖かまってちゃん
小谷予志銘 kenkenkidsさんへ
かまってちゃん…。("▽"*) 。ひょっとして……。
「神聖かまってちゃん」というバンドの「友だちを殺してまで」という歌がありますが…。
‘黒いほう’へ…。私も、そこそこ許容できるつもりですが。
若い頃の遠藤なんて、真っ黒ですよね。真っ黒な「フォンスの井戸」に惹かれます。
遠藤は、サド侯爵、ユイスマンスの『彼方』まで読んでる。
初期の遠藤が、そういう黒いものを、批評のフィルターを通すことで芸術にしているから、むしろ魅惑されるんですね。
黒いもの。批評を通さなかったら、暴力以外の何物でもない。無芸です。
私の育った家は、黒い家でした。自分が理解されないのは相手の器が小さいから、という同類の言葉を、何十年も聞かされてましたから。
大人の粗暴な「かまってちゃん」から、子供がオバサンになってやっと自由になった。ここ一年ほどです。
でも、潜在的に脅威は続いていて、私は、悪くすると今後10年20年、故郷の地は踏めないです。
そこに、例の毒々しい、かつて聞かされていた言葉の群れ。アレルギー反応が起こりました。
今度の記事は、そういう個人的な事情を抑制していたことで溜まっていたストレスが、はみ出した訳です。黒い家について、自由に書いたら良いと言ってくれる読者もいるんですけど。
だから今後は、少しだけ、黒い家について書くかもしれません。
軍隊や銃後がキレイなものではないことも含めて。
その黒い家では、海軍・陸軍あわせて、三人も戦死しています。私の祖父と祖父の兄弟。
あくまで、ダムを決壊させない放水の範囲で。私は露悪趣味を憎みますから、努めてフィルタリングしますが。
暴言とは、センチメンタルな態度やノスタルジーと別物だけど、親戚関係にある。
それが見えてきたのは収穫でした。
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大塚英志の小説『木島日記』(2000年7月,角川書店)は、民俗学者の折口信夫が奇怪な人間達にさんざんに振り回される、という仰天のフィクションである。
折口信夫が父親代わりになったという設定の娘・美蘭(メイファン)と、美蘭の夫である陸軍大尉・一ツ橋光治。
‘娘’夫婦に無理やり連れられて、折口博士が到着した青森県八戸には、キリストの日本渡来に由来する‘渡来神宮’があり、そこには‘厩戸宮’なる‘偽天皇’が鎮座している……。

作中の折口博士でなくとも、‘軽い目眩’を覚える。
なにせ大塚英志は、昭和初頭の右傾化する日本で、オカルティズムと日本軍の一部が接近した歴史を、素材としているのだから。
トンデモ本『失われたムー大陸』の著者、ジェームス・チャーチワード(しかも替え玉)の講演会に、折口が招待され、「河豚計画」を主導した陸軍大佐・安江仙弘(やすえのりひろ)も同じ場に居合わせたとか(*゜∀゜)。
「河豚計画」とは、1930年代に日本で画策されたという、ユダヤ難民の満州国への移住計画のことだ。

『木島日記』は、小説の文体としては何の魅力もないが、全体構成は立派である。
大塚英志は、漫画の原作者で評論家。
『人身御供論―供犠と通過儀礼の物語』や『「彼女たち」の連合赤軍―サブカルチャーと戦後民主主義』を私は読んだことがあるが、どちらもインスピレーションを掻き立てる内容だった。
『木島日記』では、‘折口邸は恐らく一種の結界あるいは無縁の如き空間’だとされる。
つまり、折口の屋敷は、‘世俗の人間を拒む代償として世俗とは交わりにくいエトランゼたちを’呼び寄せてしまう場として機能する。
私が面白いと思ったのは、折口の屋敷以上に、民俗学の権威である折口信夫そのものを、一種の‘結界’として、うまく書いている点だ。
大塚英志にそれができたのは、折口信夫を‘来歴否認の人’としてとらえているからであろう。
近代という時代が「日本人」という自意識を生み出していく過程であったとすれば父や母との関係を懐疑し、自らの来歴を否定しようとする感情はどこかでそのことへの微かな異議なり違和の表明としてあったのではなかったか。「日本人の伝統」を捏造することに最も強く寄与したといえる二人の民俗学者すなわち、柳田國男と折口信夫がともに来歴否認の人であったことはあまりに象徴的だ。
(『木島日記』,第五話「若水の話」)
‘民俗学とは偽史である’と大塚が言うとき、私は、文芸評論家・山本健吉への新たな視角も生じると思う。
折口の直弟子でありながら、民俗学というより文芸評論の方へ向かった山本健吉は、幾重にも‘来歴否認’を重ねていることになるのだろうか?
【関連記事】
柿本人麻呂--山本健吉という批評家
短歌の成立と長歌の死--万葉時代
折口信夫が父親代わりになったという設定の娘・美蘭(メイファン)と、美蘭の夫である陸軍大尉・一ツ橋光治。
‘娘’夫婦に無理やり連れられて、折口博士が到着した青森県八戸には、キリストの日本渡来に由来する‘渡来神宮’があり、そこには‘厩戸宮’なる‘偽天皇’が鎮座している……。

作中の折口博士でなくとも、‘軽い目眩’を覚える。
なにせ大塚英志は、昭和初頭の右傾化する日本で、オカルティズムと日本軍の一部が接近した歴史を、素材としているのだから。
トンデモ本『失われたムー大陸』の著者、ジェームス・チャーチワード(しかも替え玉)の講演会に、折口が招待され、「河豚計画」を主導した陸軍大佐・安江仙弘(やすえのりひろ)も同じ場に居合わせたとか(*゜∀゜)。
「河豚計画」とは、1930年代に日本で画策されたという、ユダヤ難民の満州国への移住計画のことだ。

『木島日記』は、小説の文体としては何の魅力もないが、全体構成は立派である。
大塚英志は、漫画の原作者で評論家。
『人身御供論―供犠と通過儀礼の物語』や『「彼女たち」の連合赤軍―サブカルチャーと戦後民主主義』を私は読んだことがあるが、どちらもインスピレーションを掻き立てる内容だった。
『木島日記』では、‘折口邸は恐らく一種の結界あるいは無縁の如き空間’だとされる。
つまり、折口の屋敷は、‘世俗の人間を拒む代償として世俗とは交わりにくいエトランゼたちを’呼び寄せてしまう場として機能する。
私が面白いと思ったのは、折口の屋敷以上に、民俗学の権威である折口信夫そのものを、一種の‘結界’として、うまく書いている点だ。
大塚英志にそれができたのは、折口信夫を‘来歴否認の人’としてとらえているからであろう。
近代という時代が「日本人」という自意識を生み出していく過程であったとすれば父や母との関係を懐疑し、自らの来歴を否定しようとする感情はどこかでそのことへの微かな異議なり違和の表明としてあったのではなかったか。「日本人の伝統」を捏造することに最も強く寄与したといえる二人の民俗学者すなわち、柳田國男と折口信夫がともに来歴否認の人であったことはあまりに象徴的だ。
(『木島日記』,第五話「若水の話」)
‘民俗学とは偽史である’と大塚が言うとき、私は、文芸評論家・山本健吉への新たな視角も生じると思う。
折口の直弟子でありながら、民俗学というより文芸評論の方へ向かった山本健吉は、幾重にも‘来歴否認’を重ねていることになるのだろうか?
【関連記事】
柿本人麻呂--山本健吉という批評家
短歌の成立と長歌の死--万葉時代
柿本人麻呂が石見の国(現在の島根県西部)から京に上ろうとして、妻と別れたときの歌がある。
石見(いはみ)の海 津濃(つぬ)の浦曲(うらわ)を 浦なしと人こそ見らめ
潟なしと 人こそ見らめ
よしゑやし 浦はなけども
よしゑやし 潟はなけども
鯨魚(いさな)取り 海辺(うなひ)を指して
渡津(わたづ)の荒磯(ありそ)の上に か青なる玉藻(たまも)沖つ藻
朝羽(あさは)振る 風こそ寄せめ
夕羽(ゆふは)振る 浪こそ来寄れ
浪の共(むた) か寄りかく寄り
玉藻なす 寄り寝し妹を 露霜(つゆしも)の 置きてし来れば
この道の 八十隈(やそくま)ごとに 万(よろづ)たび 顧り見すれど
いや遠(とほ)に 里は離(さか)りぬ
いや高(たか)に 山も越え来ぬ
夏草の 思ひ萎(しな)えて 偲ぶらむ 妹が門(かど)見む
靡(なび)けこの山
反 歌
石見のや高津濃(たかつぬ)山の木の間より 我が振る袖を妹見つらむか
篠(ささ)の葉はみ山もさやにさやげども 我は妹思ふ 別れ来ぬれば
この長歌の「か寄りかく寄り」までは、「玉藻なす寄り寝し妹を」を導き出すための序詞であり、妻のいる石見の浦の様子を述べている。たとえ浜がなくても、干潟がなくても、鯨漁が行われ、磯には美しい藻が寄せる、というふうに。
長歌の末五句の、
夏草の 思ひ萎えて 偲ぶらむ 妹が門見む 靡けこの山
について、山本健吉は、‘反歌を有しながら、長歌の末五句が完全に短歌形式の感覚を具えている’例として取りあげている。
(『古典と現代文学』「抒情詩の運命」)
長歌の末五句には、そもそも、‘短歌成立’の主要な動機が在ったらしい。
折口信夫の推測によれば、‘長歌の一部が最後に繰りかえし歌われる習慣があり、詞章の最後の三句ないし五句が独立の機運をはらむように’なった。
つまりそれが、五・七・五・七・七の詩型の発端である。
古く、記紀時代の長歌や『万葉集』の冒頭の長歌などには、反歌は付いていない。
だが、‘短歌類似の’末五句が唱和されているうちに、次第に、長歌に反歌が添えられるようになったというのが、折口説にのった説明である。
その反歌の本意とは、‘長歌詞章の精髄たる部分を、調子を変えて繰りかえすこと’にあった。

引用した人麻呂の歌の場合、長歌の末五句では、「靡けこの山」と言うような強い願望が歌われている。
夏草のようにうな垂れて人麻呂の帰りを待っている妻に会いたいが、せめて妻の家の門だけでも見たい、邪魔な山は傾いて伏せてしまえ!と。
「靡けこの山」とは、かなりオーバーな表現である。
山本健吉は、この末五句の‘誇張された声調’に対して、‘反歌は打って変わった、沈潜した声調である’とする。
折口信夫の説によれば、「石見のや」と「篠の葉は」の反歌二首は、‘鎮魂の歌’なのだそうだ。
鎮魂といっても、この場合、鎮めるのは死者の魂ではなく、生きて旅をしている人麻呂自身の魂である。「靡けこの山」と、激しく波立つ人麻呂の心。
「石見のや」の反歌では、妻の魂を呼ぶ‘魂乞い’によって、波立つ心の平安を求める。
「篠の葉は」の反歌では、夜寝つかれないままに、篠の葉の響きを聞きながら、心を澄ましている。
「さやに」「さやぐ」などの言葉は、鎮魂に関係して用いられるのであって、ここでは篠の葉がざわついているのに対して、逆に心を鎮めて妹のことを思っているのだ。
(『古典と現代文学』「抒情詩の運命」)
‘鎮魂’ということは、むしろ生者にとって切実に必要とされるのではないか、と私は思うことがある。生きている人間の不安定な心に、悩まされ続けてきた者として……。
このブログだって、自分の魂を(もし可能なら読者の魂も)鎮めるために書いているのだ。
それもただ鎮めるだけでなく、魂を生き生きと動揺させつつ、同時に鎮めることができたら……。

まあ、それはともかく。
山本健吉は、人麻呂に於いて優れた短歌(反歌)が結晶したのは、長歌という‘母胎’があったからこそだと説く。
人麻呂の短歌が、「篠の葉は」とか「敷妙の」(一九五)とかいった、深く沈潜した詩としての純度を獲得することができたのも、もともと長歌と対応する唱和的世界のなかで、一種の反省として、自覚として(私は批評としてと言いたいのだが)の詩と化する契機をつかむことができたからだ。そのことはひいては、長歌的なもの、叙事詩的・劇詩的なものの背景としての神話的・共同的基盤のなかに、短歌が自己結晶するためのもとを見出だしたということになる。だから、長歌の死はひとつの様式の死を意味し、短歌がその多くの聴者とともに生きる共通の地盤の喪失を意味した。
(『古典と現代文学』「抒情詩の運命」)
人麻呂は、長歌の最終的な完成者とされる。
と同時に、‘長歌の反歌としての短歌形式の優秀性を立証し、短歌の独立に道を開いた’。
そして、短歌の独立に道を開くということは、‘長歌の死’を招くということでもあった。
【関連記事】柿本人麻呂-山本健吉という批評家の後半
石見(いはみ)の海 津濃(つぬ)の浦曲(うらわ)を 浦なしと人こそ見らめ
潟なしと 人こそ見らめ
よしゑやし 浦はなけども
よしゑやし 潟はなけども
鯨魚(いさな)取り 海辺(うなひ)を指して
渡津(わたづ)の荒磯(ありそ)の上に か青なる玉藻(たまも)沖つ藻
朝羽(あさは)振る 風こそ寄せめ
夕羽(ゆふは)振る 浪こそ来寄れ
浪の共(むた) か寄りかく寄り
玉藻なす 寄り寝し妹を 露霜(つゆしも)の 置きてし来れば
この道の 八十隈(やそくま)ごとに 万(よろづ)たび 顧り見すれど
いや遠(とほ)に 里は離(さか)りぬ
いや高(たか)に 山も越え来ぬ
夏草の 思ひ萎(しな)えて 偲ぶらむ 妹が門(かど)見む
靡(なび)けこの山
反 歌
石見のや高津濃(たかつぬ)山の木の間より 我が振る袖を妹見つらむか
篠(ささ)の葉はみ山もさやにさやげども 我は妹思ふ 別れ来ぬれば
この長歌の「か寄りかく寄り」までは、「玉藻なす寄り寝し妹を」を導き出すための序詞であり、妻のいる石見の浦の様子を述べている。たとえ浜がなくても、干潟がなくても、鯨漁が行われ、磯には美しい藻が寄せる、というふうに。
長歌の末五句の、
夏草の 思ひ萎えて 偲ぶらむ 妹が門見む 靡けこの山
について、山本健吉は、‘反歌を有しながら、長歌の末五句が完全に短歌形式の感覚を具えている’例として取りあげている。
(『古典と現代文学』「抒情詩の運命」)
長歌の末五句には、そもそも、‘短歌成立’の主要な動機が在ったらしい。
折口信夫の推測によれば、‘長歌の一部が最後に繰りかえし歌われる習慣があり、詞章の最後の三句ないし五句が独立の機運をはらむように’なった。
つまりそれが、五・七・五・七・七の詩型の発端である。
古く、記紀時代の長歌や『万葉集』の冒頭の長歌などには、反歌は付いていない。
だが、‘短歌類似の’末五句が唱和されているうちに、次第に、長歌に反歌が添えられるようになったというのが、折口説にのった説明である。
その反歌の本意とは、‘長歌詞章の精髄たる部分を、調子を変えて繰りかえすこと’にあった。

引用した人麻呂の歌の場合、長歌の末五句では、「靡けこの山」と言うような強い願望が歌われている。
夏草のようにうな垂れて人麻呂の帰りを待っている妻に会いたいが、せめて妻の家の門だけでも見たい、邪魔な山は傾いて伏せてしまえ!と。
「靡けこの山」とは、かなりオーバーな表現である。
山本健吉は、この末五句の‘誇張された声調’に対して、‘反歌は打って変わった、沈潜した声調である’とする。
折口信夫の説によれば、「石見のや」と「篠の葉は」の反歌二首は、‘鎮魂の歌’なのだそうだ。
鎮魂といっても、この場合、鎮めるのは死者の魂ではなく、生きて旅をしている人麻呂自身の魂である。「靡けこの山」と、激しく波立つ人麻呂の心。
「石見のや」の反歌では、妻の魂を呼ぶ‘魂乞い’によって、波立つ心の平安を求める。
「篠の葉は」の反歌では、夜寝つかれないままに、篠の葉の響きを聞きながら、心を澄ましている。
「さやに」「さやぐ」などの言葉は、鎮魂に関係して用いられるのであって、ここでは篠の葉がざわついているのに対して、逆に心を鎮めて妹のことを思っているのだ。
(『古典と現代文学』「抒情詩の運命」)
‘鎮魂’ということは、むしろ生者にとって切実に必要とされるのではないか、と私は思うことがある。生きている人間の不安定な心に、悩まされ続けてきた者として……。
このブログだって、自分の魂を(もし可能なら読者の魂も)鎮めるために書いているのだ。
それもただ鎮めるだけでなく、魂を生き生きと動揺させつつ、同時に鎮めることができたら……。

まあ、それはともかく。
山本健吉は、人麻呂に於いて優れた短歌(反歌)が結晶したのは、長歌という‘母胎’があったからこそだと説く。
人麻呂の短歌が、「篠の葉は」とか「敷妙の」(一九五)とかいった、深く沈潜した詩としての純度を獲得することができたのも、もともと長歌と対応する唱和的世界のなかで、一種の反省として、自覚として(私は批評としてと言いたいのだが)の詩と化する契機をつかむことができたからだ。そのことはひいては、長歌的なもの、叙事詩的・劇詩的なものの背景としての神話的・共同的基盤のなかに、短歌が自己結晶するためのもとを見出だしたということになる。だから、長歌の死はひとつの様式の死を意味し、短歌がその多くの聴者とともに生きる共通の地盤の喪失を意味した。
(『古典と現代文学』「抒情詩の運命」)
人麻呂は、長歌の最終的な完成者とされる。
と同時に、‘長歌の反歌としての短歌形式の優秀性を立証し、短歌の独立に道を開いた’。
そして、短歌の独立に道を開くということは、‘長歌の死’を招くということでもあった。
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