私は歩くのが好きである。バス停など、わざわざ1つ前で降りて歩いたりする。
雪や氷で歩きづらい冬には、その点でストレスを感じることもある。
だからという訳でもないが、この冬ハマっていたのがサカナクションというバンドの音楽。
この躍動感がたまらない。早足で歩いているような錯覚が、脳で起こるのか?
聴いていると、ウォーキング後のように身体が爽快である。
(Victor Entertainment がYouTubeに投稿)
北海道出身のバンド。白い肌にブルーがよく似合う。雪女みたいな(!)ベーシスト。
最初、パソコンの貧弱なスピーカーで聴いていたが、『kikUU-iki』(キクウイキ)というアルバムを買ってちゃんとした再生装置で聴いてみると、意外に重低音が効いている。
ジャンル分けしようとすると、エレクトロニカとか、エレクトロ・ポップとか、テクノ・ロックとか、色んな言葉が出て来るらしい。
私は、YMOや散開後ソロになった坂本龍一の音楽を聴いて育った人間である。
シンセサイザーを駆使した音楽(そして、作り込んだもの)が嫌いでなければ、このサカナクションというバンドには、興味が湧くかもしれない。
「バッハの旋律を夜に聴いたせいです。」のPVなんて、YMOへのオマージュではないか?
影響関係は知らないけれど。
テクノカット、人形など小道具の使い方、チャイナドレスの美女(フィーチャリング麻生久美子!)。
(Victor Entertainment がYouTubeに投稿)
極めて偏った聴き方をしていて、坂本龍一とラヴェルとフォーレくらいしか知らない私が、音楽談義のような事をしているのは、要するにお茶を濁しているのです。
声を聞くと惹かれ すぐに忘れ つらつらと♪(熟々と?)
保田与重郎を読むのに時間を取られて、何日もパソコンを起動しないで。
気まぐれな僕らは 離ればなれ つらつらと♪
訪問返しもせず…。すみません…。
こうして書いている方が、精神衛生上も良いのですが。
読むことも書くことも、至極当然に孤独なことです。
保田与重郎(1910-1981)。
難解といえば難解ですが。文章自体が難解というより、参照項が多いのです。
参照項の多さでは、遠藤周作や堀辰雄など比ではありません。
参照するものとして、本居宣長、上田秋成、和歌と連歌・俳諧についての議論、などなど。
興味は尽きませんが。
宣長が大人物で、秋成が小人物だなどと言われると(『後鳥羽院』)、キレそうになりますが。
戦後、憎悪の的のようになったこの批評家を、私は一度公平に見てみたいのです。
誰に頼まれた訳でもない、物好きのこだわりですので、自分の納得のいくように、時間をかけて料理したいと思います。
雪や氷で歩きづらい冬には、その点でストレスを感じることもある。
だからという訳でもないが、この冬ハマっていたのがサカナクションというバンドの音楽。
この躍動感がたまらない。早足で歩いているような錯覚が、脳で起こるのか?
聴いていると、ウォーキング後のように身体が爽快である。
(Victor Entertainment がYouTubeに投稿)
北海道出身のバンド。白い肌にブルーがよく似合う。雪女みたいな(!)ベーシスト。
最初、パソコンの貧弱なスピーカーで聴いていたが、『kikUU-iki』(キクウイキ)というアルバムを買ってちゃんとした再生装置で聴いてみると、意外に重低音が効いている。
ジャンル分けしようとすると、エレクトロニカとか、エレクトロ・ポップとか、テクノ・ロックとか、色んな言葉が出て来るらしい。
私は、YMOや散開後ソロになった坂本龍一の音楽を聴いて育った人間である。
シンセサイザーを駆使した音楽(そして、作り込んだもの)が嫌いでなければ、このサカナクションというバンドには、興味が湧くかもしれない。
「バッハの旋律を夜に聴いたせいです。」のPVなんて、YMOへのオマージュではないか?
影響関係は知らないけれど。
テクノカット、人形など小道具の使い方、チャイナドレスの美女(フィーチャリング麻生久美子!)。
(Victor Entertainment がYouTubeに投稿)
極めて偏った聴き方をしていて、坂本龍一とラヴェルとフォーレくらいしか知らない私が、音楽談義のような事をしているのは、要するにお茶を濁しているのです。
声を聞くと惹かれ すぐに忘れ つらつらと♪(熟々と?)
保田与重郎を読むのに時間を取られて、何日もパソコンを起動しないで。
気まぐれな僕らは 離ればなれ つらつらと♪
訪問返しもせず…。すみません…。
こうして書いている方が、精神衛生上も良いのですが。
読むことも書くことも、至極当然に孤独なことです。
保田与重郎(1910-1981)。
難解といえば難解ですが。文章自体が難解というより、参照項が多いのです。
参照項の多さでは、遠藤周作や堀辰雄など比ではありません。
参照するものとして、本居宣長、上田秋成、和歌と連歌・俳諧についての議論、などなど。
興味は尽きませんが。
宣長が大人物で、秋成が小人物だなどと言われると(『後鳥羽院』)、キレそうになりますが。
戦後、憎悪の的のようになったこの批評家を、私は一度公平に見てみたいのです。
誰に頼まれた訳でもない、物好きのこだわりですので、自分の納得のいくように、時間をかけて料理したいと思います。
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kenkenkids 予志銘さんがサカナクションを・・・
意外なようで意外でもないようなw
山口くんはイイ趣味してますよね。
寺山好きというだけあって、詩もイケております♪
Re: タイトルなし
小谷予志銘 最近まで知らなかったのは不覚でした。
音楽については、色々と聴こうとは思わなかったのですが。
「三日月サンセット」(ビクターがネット上に流しているのではないもの)、痺れます。
春雨や降るとも知らず牛の目に 来山
しかし北海道は、まだ冬である。3月に入ってやっと、最高気温が0度を上回るようになった。
本州の各地で梅が満開、との花だよりを聞きながら、私は未だダウンジャケットを着込み、フェイクファーを貼り付けた冬靴を履いている。
北海道と一口に言っても、九州と四国と山口県を合わせた程の広さがある。
気候も、緯度や標高、内陸部か沿岸部か、といったことで随分違う。
ただ、北海道全体について言えることは、夏が極めて短い(というか夏がほぼ無い)ということ。
本州で春夏秋冬と呼ぶところを、北海道の気候に当てはめると。
冬春秋冬
それでも最近は、温暖化の為か、梅雨のような長雨と夏のような暑気があったりする。
この頃の北海道の気候は、言うなれば…。
冬春エゾ梅雨夏秋冬
沖縄の子供達がシモヤケを知らないように、道産子の子供達は最近までツユを知らなかった。

気候変動の結果とは、過ごしやすくなるのとは逆で、苛酷な方へ向かうらしい。
猛暑日(酷暑日)、ゲリラ豪雨、エゾ地の梅雨???
それでもまだまだ、私のような暑気に弱い人間には、北海道は天国だ。
摂氏35度を超える夏の炎天下、車のドアを開けると車内から熱風が押し寄せ、いつまでも冷めないシートに座って気分が悪くなる、なんてこともない。
是ほどの三味線暑し膝の上 来山
こんな暑さが懐かしい、と言ったら、猛暑と戦っている西日本の人に叱られるだろうか?
(檀林末期に新風を描いた小西来山(1654-1716)の、上方商家風美意識。)
西瓜や茄子とは、暑さから身を守るための食べ物なのだ、とつくづく思う。
北海道で暮らし始めて、西瓜を食べたいと思う事がめっきり減った。
スーパーの棚にカット西瓜が並んでいるのを見ると。見るだけで寒い……。
食べる事で身体が温まる、という事を実感する毎日である。
アツアツの味噌汁なんかを摂ると、口の中まで冷えているのに気付く時がある。

焼き肉店で、エゾシカを食した。
オーストラリア産牛肉か? と思って噛んでいると、じんわり野性味が出てくる。
一時絶滅したと思われていたエゾシカは、天敵のエゾオオカミがこっちは本当に(?)絶滅したため、北の大地でどんどん殖えている。
JR北海道の特急列車は、“野生動物”とぶつかって時々止まる。
原生林の樹皮を食べられるという食害もあるので、殖えすぎたエゾシカは“駆除”されている。
それを人間様が食っちまおう、ということであった。
しかし北海道は、まだ冬である。3月に入ってやっと、最高気温が0度を上回るようになった。
本州の各地で梅が満開、との花だよりを聞きながら、私は未だダウンジャケットを着込み、フェイクファーを貼り付けた冬靴を履いている。
北海道と一口に言っても、九州と四国と山口県を合わせた程の広さがある。
気候も、緯度や標高、内陸部か沿岸部か、といったことで随分違う。
ただ、北海道全体について言えることは、夏が極めて短い(というか夏がほぼ無い)ということ。
本州で春夏秋冬と呼ぶところを、北海道の気候に当てはめると。
冬春秋冬
それでも最近は、温暖化の為か、梅雨のような長雨と夏のような暑気があったりする。
この頃の北海道の気候は、言うなれば…。
冬春エゾ梅雨夏秋冬
沖縄の子供達がシモヤケを知らないように、道産子の子供達は最近までツユを知らなかった。

気候変動の結果とは、過ごしやすくなるのとは逆で、苛酷な方へ向かうらしい。
猛暑日(酷暑日)、ゲリラ豪雨、エゾ地の梅雨???
それでもまだまだ、私のような暑気に弱い人間には、北海道は天国だ。
摂氏35度を超える夏の炎天下、車のドアを開けると車内から熱風が押し寄せ、いつまでも冷めないシートに座って気分が悪くなる、なんてこともない。
是ほどの三味線暑し膝の上 来山
こんな暑さが懐かしい、と言ったら、猛暑と戦っている西日本の人に叱られるだろうか?
(檀林末期に新風を描いた小西来山(1654-1716)の、上方商家風美意識。)
西瓜や茄子とは、暑さから身を守るための食べ物なのだ、とつくづく思う。
北海道で暮らし始めて、西瓜を食べたいと思う事がめっきり減った。
スーパーの棚にカット西瓜が並んでいるのを見ると。見るだけで寒い……。
食べる事で身体が温まる、という事を実感する毎日である。
アツアツの味噌汁なんかを摂ると、口の中まで冷えているのに気付く時がある。

焼き肉店で、エゾシカを食した。
オーストラリア産牛肉か? と思って噛んでいると、じんわり野性味が出てくる。
一時絶滅したと思われていたエゾシカは、天敵のエゾオオカミがこっちは本当に(?)絶滅したため、北の大地でどんどん殖えている。
JR北海道の特急列車は、“野生動物”とぶつかって時々止まる。
原生林の樹皮を食べられるという食害もあるので、殖えすぎたエゾシカは“駆除”されている。
それを人間様が食っちまおう、ということであった。
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kenkenkids エゾシカ、今はそんなに増えているのですね!
じんわり野性味・・・私はお肉が苦手なので、ちょっと無理かもしれませんが、うちのワンズは狂喜乱舞することでしょうw(スイマセン。基準が全てソコなものでw)
害獣だからといっても命を奪うからには無駄にしてはいけませんものね。
Re: タイトルなし
小谷予志銘 明治期に人がエゾシカを乱獲したせいで、エゾオオカミが馬を襲うようになって、オオカミの駆除が始まったそうです。生態系が壊れたんですね。
野性味の強い肉は、ローズマリーと合わせると美味かもしれません。羊肉がそうなので、エゾシカもきっと。
堀辰雄は、昭和16年(1941年)10月に奈良を旅行し、唐招提寺の松林のなかで古代世界に憧れ、‘此処こそは私達のギリシアだ’と記している。(『花あしび』,「十月」)
古代ギリシャ。キリスト教に教化される以前の、汎神の世界。
堀は奈良を旅しながら、1つの小説を書こうとしていた。
それは、‘イディル風なもの’、‘ギリシア語では「小さき絵」というほどの’意味のものだった。
‘イディル’の中には‘物静かな、小ぢんまりとした環境に生きている素朴な人達の、何物にも煩わせられない、自足した生活だけの描かれることが要求されている’のだという。
大和の古い村を背景にして、万葉集的な気分を漂わせた、そんな小説を書きたいと、「十月」で堀は述べている。
しかし、堀が意図したものは、結局書かれなかった。

奈良の旅の成果は、『曠野』(昭和16年12月,『改造』)という王朝風の物語だった。
『曠野』は、『今昔物語集』巻30第4話「中務太輔娘、成近江郡司婢語」を下敷きとしたものだ。
西の京の六条のほとり、中務大輔(なかつかさのたいふ)の娘は、両親を失い、婿も通ってこなくなり、崩れかかった屋敷で暮らしていた。やがて、近江の国の郡司(ぐんじ)の息子が通ってくるようになり、近江の国へ下女として同行する…。‘自分を与えれば与えるほどいよいよはかない境涯に堕ちてゆかなければならなかった一人の女の、世にもさみしい身の上話’(「十月」)である。
‘何物にも煩わせられない、自足した生活’とは対照的な物語になってしまった。
万葉風の牧歌が書けないので、堀はこんな言い訳をする。
古代の人々の生活の状態なんぞについて、いまみたいにほんの少ししか、それも殆ど切れ切れにしか知っていないようでは、その上で仕事をするのがあぶなっかしくってしようがない。(「十月」)
しかし、堀の言い訳どおり、堀に古代についての知識が不足していたから、彼は万葉風‘イディル’を書けなかったのか???
堀は、大原美術館に行ってエル・グレコの「受胎告知」を見なければならない、とも考えているし。(「古墳」)
古代人の牧歌的生活なんて、堀が本気で信じていたとは、私には思えないのである。
堀は、折口信夫にひどく傾倒したりしている(『花あしび』,「死者の書」)。
…にも関わらず。
なぜって、堀辰雄は、近代のフランス文学を知ってしまった人なのだ……。

しかし、秋篠寺の伎芸天に、東大寺の月光菩薩や広目天に、法隆寺の百済観音に、堀辰雄は次々と魅了される。(如来には執着していない。おもしろい。)
遠藤周作が言うところの‘汎神的血液’(『堀辰雄覚書』)が、堀辰雄の中を流れていた。
なかでも伎芸天は、奥ゆかしい芸術の女神。
このミュウズの像はなんだか僕たちのもののような気がせられて、わけてもお慕わしい。朱《あか》い髪をし、おおどかな御顔だけすっかり香《こう》にお灼《や》けになって、右手を胸のあたりにもちあげて軽く印を結ばれながら、すこし伏せ目にこちらを見下ろされ、いまにも何かおっしゃられそうな様子をなすってお立ちになっていられた。……
(「十月」)
「ひかりこころ」さんが描いた、秋篠寺の伎芸天
↑↑↑クリック(造立当時、彩色されていたならば、こんな感じだったろう、と思います。)
東大寺・戒壇院の広目天は、男前。とても‘いい貌’をしている。
広目天←←クリック, リクエストして「ひかりこころ」さんに描いてもらいました。眉のあたりが素敵!
これはきっと誰か天平時代の一流人物の貌をそっくりそのまま模してあるにちがいない。そうでなくては、こんなに人格的に出来あがるはずはない。……
(「十月」)
しかし、『花あしび』を読んでいて、私の興味をひいたのは……。
その広目天が踏みつけている天邪鬼(あまのじゃく)に対する、堀の態度である。
堀は、友人に誘われて天邪鬼に目を落とすが、曖昧にスルーしているw

A君もA君で、何か感動したようにそれに見入っていた。が、そのうち突然ひとりごとのように言った。「この天邪鬼《あまのじゃく》というのかな、こいつもこうやって千年も踏みつけられてきたのかとおもうと、ちょっと同情するなあ。」
僕はそう言われて、はじめてその足の下に踏みつけられて苦しそうに悶《もだ》えている天邪鬼に気がつき、A君らしいヒュウマニズムに頬笑みながら、そのほうへもしばらく目を落した。……
(「十月」)
ヒュウマニズムか……。堀にうまくかわされた気がする。
しかし、この天邪鬼とは要するに、遠藤が言うところの、絶対神に反抗する者だ。
人間の中の、超自然的存在に抗おうとする部分。
堀の中にも、遠藤の中にもあったところの。
そういう部分を、括弧でくくって、他者として括り出してしまうと…、天邪鬼の出来上がりw
四天王たちは、憤怒の形相で、此奴等をしっかり踏んづけておかないと。
天邪鬼が、伎芸天の足首をつかんだりしないように。
古代ギリシャ。キリスト教に教化される以前の、汎神の世界。
堀は奈良を旅しながら、1つの小説を書こうとしていた。
それは、‘イディル風なもの’、‘ギリシア語では「小さき絵」というほどの’意味のものだった。
‘イディル’の中には‘物静かな、小ぢんまりとした環境に生きている素朴な人達の、何物にも煩わせられない、自足した生活だけの描かれることが要求されている’のだという。
大和の古い村を背景にして、万葉集的な気分を漂わせた、そんな小説を書きたいと、「十月」で堀は述べている。
しかし、堀が意図したものは、結局書かれなかった。

奈良の旅の成果は、『曠野』(昭和16年12月,『改造』)という王朝風の物語だった。
『曠野』は、『今昔物語集』巻30第4話「中務太輔娘、成近江郡司婢語」を下敷きとしたものだ。
西の京の六条のほとり、中務大輔(なかつかさのたいふ)の娘は、両親を失い、婿も通ってこなくなり、崩れかかった屋敷で暮らしていた。やがて、近江の国の郡司(ぐんじ)の息子が通ってくるようになり、近江の国へ下女として同行する…。‘自分を与えれば与えるほどいよいよはかない境涯に堕ちてゆかなければならなかった一人の女の、世にもさみしい身の上話’(「十月」)である。
‘何物にも煩わせられない、自足した生活’とは対照的な物語になってしまった。
万葉風の牧歌が書けないので、堀はこんな言い訳をする。
古代の人々の生活の状態なんぞについて、いまみたいにほんの少ししか、それも殆ど切れ切れにしか知っていないようでは、その上で仕事をするのがあぶなっかしくってしようがない。(「十月」)
しかし、堀の言い訳どおり、堀に古代についての知識が不足していたから、彼は万葉風‘イディル’を書けなかったのか???
堀は、大原美術館に行ってエル・グレコの「受胎告知」を見なければならない、とも考えているし。(「古墳」)
古代人の牧歌的生活なんて、堀が本気で信じていたとは、私には思えないのである。
堀は、折口信夫にひどく傾倒したりしている(『花あしび』,「死者の書」)。
…にも関わらず。
なぜって、堀辰雄は、近代のフランス文学を知ってしまった人なのだ……。

しかし、秋篠寺の伎芸天に、東大寺の月光菩薩や広目天に、法隆寺の百済観音に、堀辰雄は次々と魅了される。(如来には執着していない。おもしろい。)
遠藤周作が言うところの‘汎神的血液’(『堀辰雄覚書』)が、堀辰雄の中を流れていた。
なかでも伎芸天は、奥ゆかしい芸術の女神。
このミュウズの像はなんだか僕たちのもののような気がせられて、わけてもお慕わしい。朱《あか》い髪をし、おおどかな御顔だけすっかり香《こう》にお灼《や》けになって、右手を胸のあたりにもちあげて軽く印を結ばれながら、すこし伏せ目にこちらを見下ろされ、いまにも何かおっしゃられそうな様子をなすってお立ちになっていられた。……
(「十月」)
「ひかりこころ」さんが描いた、秋篠寺の伎芸天
↑↑↑クリック(造立当時、彩色されていたならば、こんな感じだったろう、と思います。)
東大寺・戒壇院の広目天は、男前。とても‘いい貌’をしている。
広目天←←クリック, リクエストして「ひかりこころ」さんに描いてもらいました。眉のあたりが素敵!
これはきっと誰か天平時代の一流人物の貌をそっくりそのまま模してあるにちがいない。そうでなくては、こんなに人格的に出来あがるはずはない。……
(「十月」)
しかし、『花あしび』を読んでいて、私の興味をひいたのは……。
その広目天が踏みつけている天邪鬼(あまのじゃく)に対する、堀の態度である。
堀は、友人に誘われて天邪鬼に目を落とすが、曖昧にスルーしているw

A君もA君で、何か感動したようにそれに見入っていた。が、そのうち突然ひとりごとのように言った。「この天邪鬼《あまのじゃく》というのかな、こいつもこうやって千年も踏みつけられてきたのかとおもうと、ちょっと同情するなあ。」
僕はそう言われて、はじめてその足の下に踏みつけられて苦しそうに悶《もだ》えている天邪鬼に気がつき、A君らしいヒュウマニズムに頬笑みながら、そのほうへもしばらく目を落した。……
(「十月」)
ヒュウマニズムか……。堀にうまくかわされた気がする。
しかし、この天邪鬼とは要するに、遠藤が言うところの、絶対神に反抗する者だ。
人間の中の、超自然的存在に抗おうとする部分。
堀の中にも、遠藤の中にもあったところの。
そういう部分を、括弧でくくって、他者として括り出してしまうと…、天邪鬼の出来上がりw
四天王たちは、憤怒の形相で、此奴等をしっかり踏んづけておかないと。
天邪鬼が、伎芸天の足首をつかんだりしないように。