アンチ-ロマンチシズムと文学との幸福な共存を謀ります。当面、「炭鉱のカナリア」になる決意をしました。第二次安倍政権の発足以来、国民は墨を塗られるだろうと予測していましたが、嫌な予感が現実になりつつあります。日本人の心性や「日本国憲法」の問題などを取り上げながら、自分の明日は自分で決めることの大切さを、訴えていきたいと思います。
この十日ほど、「EPUB」文書を作っていて、かなりストレスがたまってしまった。

電子書籍フォーマットの規格「EPUB3.0」では、縦書き表示など、日本語組版特有のレイアウトが可能になった。
とはいうものの、PCで「EPUB」のファイルを読むのは、現時点ではちょっと……。
つまりは、PC上での表示の問題。リーダーと呼ばれるソフトが追いついてないのである。

espur(エスパー)は、縦書き表示ができる。ルビも傍点も表示できる。
しかし、「一太郎」で作った「EPUB」書籍をエスパーで開いて見ると、最悪!!!
枠をはみ出して表示できない行があったり、ページの境目が文字列の上に来て、1行が左右に割れてたり。( ;∀;) ウヒャ…。
まあ、試作版だから仕方がない。「正式版」は開発中らしい。待つべし。待つべし。

espur(エスパー)試作版・ダウンロード←click←縦書き表示可能なWindows用リーダー

Adobe のDigital Editions。こちらは、横書きのみだが、行が表示されない等ということはない。
「一太郎」で作った目次から、ジャンプもできる。
(espur試作版ではジャンプできない。)
ただし、せっかく「一太郎」で付けた傍点も振り仮名も、表示されてない。
未対応ソフトだからだ。
“くの字点”も/\に、ゲジゲジと毛が生えたようで不細工。
フォントも、字と字の間隔がミョーに広がったり狭まったりしているのも、美しいとは言い難い。

Adobe® Digital Editions・ダウンロード←click←Windows用リーダー

110915_1349~01_0001

PC上ではストレスなしに見られない「EPUB」書籍だが、スマホやタブレットではどうなのだろう?

実は私、スマホもタブレットも持っておりません。('ェ';)
複数開いた作業画面をディスプレイ上に並べて、睨んでいたりするのが常ですので…。
小さなディスプレイに手を出す気になれなかったのです。
でも、気が変わりました。なんとか今年のうちに、iPadを購入して、「EPUB」の表示具合を見たいものです。

それで、無責任とは思いましたが、未だタブレット上での表示具合も確認せぬまま、「EPUB」書籍を出しました。
↓↓click
『小林多喜二随筆集』

電子書籍のプラットホーム「パブー」は、2012年2月の時点では、縦書き表示に未対応である。
だから、いくら「一太郎」で縦書きにルビまで振って作成した「EPUB」文書をアップロードしても、「パブー」上では、他と変わらぬ横書き文書でしかない。
傍点も、ルビも、インデント設定も「パブー」上では、無いのと同じ。
しかし、「パブー」からダウンロードした「ePub」を「エスパー」で開くと、傍点もルビも表示できた。データーとしては、きちんと組み込まれているのだ。

(スマホやタブレットをお使いの方。かつ、お時間のある方。
無料ですので、ダウンロードの上、どんな表示具合かコメントしていただけたら、大変嬉しいです。)

110925_1614~01

その『小林多喜二随筆集』。
このブログで公開してきた電子テキストに、二つの文章を追加し、私の序文など付けてみた。

「『機械の階級性』について」という文章を収録するために、入力・編集をしていて、小林多喜二に横っ面をはたかれたような気がした。
中世の神学者が説く善悪論に寄っかかって、癒やされているだけでは駄目だ。

「『機械の階級性』について」は、直接にはシュール・レアリズムの一派を批判したものだ。しかし、シュール・レアリズム以外の‘人たち’も少なからず、耳が痛いはずだ。

まず第一に、この社会は彼等の手に負えなかったことだ。――こういう時に多くの人たちが陥入るように、彼等も亦、その注意を「個人」に向けてゆく。然しその個人は、社会関係から離された個人、「ロビンソン」の個人である。又それは、人間は本来何々のもの也式の「抽象人」である。――この人たちは、人間の全本質というものが、その個々別々の人間を引っ張ってきてドンナにいじくり廻したとしても、断じて分るものでないということ、人間の本質というものは、歴史・社会に於てはじめて現実的に展開するものであり、そこから離れてしまった人間の本質は単に「種属」としての、純粋の「生物学」上の個人でしかないということを知らない。
(「『機械の階級性』について」)

中世のトマス・アクィナスも、まさか、人間を動植物と同じレベルで扱っているわけではなかろう。
→→前の記事,遠藤周作の『菜穂子』論-トマス・アクィナスの導き

考えるべきは、動植物の「本能的」開花に留まらぬ、人間の「歴史・社会的」開花である。
さらにその先に、人間の「本性(ほんせい)的」開花、とは何かという問題が広がっている。

カトリックの神学者は、人間の「本性」を提示してくれるだろうと、トマスを読んでいない私にも想像がつく。
が、カトリックでない私が、一神教の神が担保してくれる開花した人間像を、どこまで受け入れられるだろう……。

まったく、いつまでもトマス・アクィナスに慰められている訳にはいかない。
多喜二に嘲弄されそうだ。
「君は中世の神学者の善悪論で生きとおせる自信があるのか。言ってみろ。ないだろう。ないだろう。ソンならば、さっさと次に行きたまえ!」と。

スポンサーサイト

[2012/02/23 07:30] | 情報の発信・蓄積・管理
トラックバック:(0) |

iPhoneにて
森井聖大
一太郎承購入されたのですね。

しかし、iPhoneにてiBOOKというアプリにダウンロードしたら、横書きで表示されてしまいました。
僕自身あまり詳しくないので理由はよくわかりませんが、ご報告までに。
結局電子書籍というツールは、今のところ、読みものより見るもの向けかなと感じます。
絵本とかは向いているような気がします。
音声あり動画ありというリッチコンテンツで電子書籍的なものは普及していき、読みものとしては、やはりまだ本しかなく、超えられないし、この先もまだ先が見えてこない気がします。

また何故か、液晶端末なんかでは、横書きの方が読みやすい気もします。
以前携帯小説が流行り、それらは携帯上でもちろん横書きでしたが、しかし書籍化され本でも横書きで発売したものを読むと、そうするとやはり違和感がありました。


Re: iPhoneにて
小谷予志銘
> 一太郎承購入されたのですね。

私は、ずっと以前からの(マック版があった頃からの)一太郎ユーザーなんですが、今回3年ぶりにバージョンアップしました。

> しかし、iPhoneにてiBOOKというアプリにダウンロードしたら、横書きで表示されてしまいました。
> 僕自身あまり詳しくないので理由はよくわかりませんが、ご報告までに。

ありがとうございます。iBOOKでは横書き表示なんですね。
要するに、アプリが「EPUB3.0」に対応するには、まだ時間が要るという状況なんでしょう。
年数が経ってハード・ソフトが進化すると、今の苦労が笑い話になるような日も来るんでしょうね。

縦書きか横書きかという問題は、説明が難しいですが、思考のスタイルとか文体とかに影響しているような気がするので、私としては、どこまでも技術の進展に期待したいです。

ついでに、「一太郎承」にバージョンアップしてみての感想。
紙に出力する場合に、その機能が余すことなく生かされる、という感じです。
まさに至れり尽くせり。以前はプロに依頼していた事でも、アマが自宅でやれる。
しかし、私のように、紙に出力せず、ネット上で共有するのが目的の人間には、複雑すぎて使いにくいです。
一太郎で「EPUB」保存する前の段階で、もうイラついてました。

コメント:を閉じる▲
“自分探し”とは、いつ頃からなされてきたのだろう?

「――いま事務所でおれにあてがわれている仕事なんぞは此のおれでなくったって出来る。そんな誰にだって出来そうな仕事を除いたら、おれの生活に一体何が残る? おれは自分が心からしたいと思った事をこれまでに何ひとつしたか? おれは何度今までにだって、いまの勤めを止め、何か独立の仕事をしたいと思ってそれを云い出しかけては、所長のいかにも自分を信頼しているような人の好さそうな笑顔を見ると、それもつい云いそびれて有耶無耶《うやむや》にしてしまったか分からない。そんな遠慮ばかりしていて一体おれはどうなる? おれはこんどの病気を口実に、しばらく又休暇を貰って、どこか旅にでも出て一人きりになって、自分が本気で求めているものは何か、おれはいま何にこんなに絶望しているのか、それを突き止めて来ることは出来ないものか? おれがこれまでに失ったと思っているものだって、おれは果してそれを本気で求めていたと云えるか? 菜穂子にしろ、早苗にしろ、それからいま去って行ったおよう達にしろ、……」
(「菜穂子」十六)

これは、太平洋戦争の開戦前に堀辰雄が書いたものである。「菜穂子」は、1941年3月の『中央公論』に掲載された。
平成の小説の文章だといっても不自然ではない程に現代的である。
私は、あれっ、(。_゜)、と思って堀辰雄の年譜を確認した。大戦後、堀は病気療養のため床に伏しがちで、代表作は、みな戦前戦中に書かれている。1953年没。
間違いない。

現代人が‘おれ’と同じような思いに襲われることは、珍しくなかろう。
誰にでも出来るような仕事をしている、取り替え可能な、スペアとしての自己…。今の自分は本来のあるべき姿を見失っているという感覚。
こうした感覚は元来、現代というより近代の産物なのだろう。
“実存(個別具体的で主体的存在)”は孤独・不安・絶望につきまとわれ、絶えざる自己超克を強いられている。という、西洋哲学の古くて新しい課題。


それにしても、近代化において大幅に後れを取った日本が、歪んだ悲劇的な道を進もうとしていた状況下。
そんな中で堀辰雄はすでに、物心両面で近代化を果たしていた訳だ。
一人の先駆者である。

上の述懐をしている‘おれ’の名は、都築明。
堀辰雄が立原道造(1914-1939)をモデルとして書いたといわれる作中人物で、黒川菜穂子の幼馴染みという設定である。

120216_1509~01

しかし、都築明の“自分探し”の旅は、失敗に終わった。
理由は、遠藤周作が「実存の悲劇(都築明の旅)」で指摘するとおりだ。
明が‘暗黒に向って飛び立つ夕方の蝙蝠のように’、ただやみくもに‘生の衝動’に駆られて飛び出したからである。
(遠藤はこういう‘衝動’を‘悲しき決意性のヒロイズム’と呼んでいる。私は、ヒロイズムほど厄介なものは無いと思っている。

「おれはとうとう自分の求めているものが一体何であるのかすら分らない内に、何もかも失ってしまった見たいだ。そうして恰《あたか》も空っぽになった自分を見る事を怖れるかのように、暗黒に向って飛び立つ夕方の蝙蝠《こうもり》のように、とうとうこんな冬の旅に無我夢中になって飛び出して来てしまったおれは、一体何を此の旅であてにしていたのか? 今までの所では、おれは此の旅では只おれの永久に失ったものを確かめただけではないか。」
(「菜穂子」二十)

‘神を失える’人間、都築明は、どんな方向を選択すればよかったのか?
‘方向と目的’が分かれば誰も苦労しない。或いは、これも身の丈と、目的を小さいところで区切ってしまえるならば…。
小さくまとまるにしても、何が良くて何が悪いかは見極めねば…、まとめようがないではないか。
神も仏も失った私だが。遠藤周作の次の主張には、甘く苦く、胸に染み込んでくるものがある。


悪とは何であるか。聖トマスの形而上学に依れば善は存在の完成に他ならない。樹が成熟し花を咲かせ、果実を結ぶ事、即ち樹そのものの「存在を完成さす」事は樹にとって善である。花にとって善とは何であるか。それはその花にとって最も美しい色と馨りとを果し群がる蜜蜂に蜜を与え果実を結び媒介と職能を終え少女を楽します事である。個々の存在物のその固有の存在フォルムを完成さすことが善である。
(「実存の悲劇(都築明の旅)」,『堀辰雄覚書』)

しかし、しかしですよ。
人間は、樹や花のように単純ではないでしょう? 遠藤先生……。
人間の‘固有の存在フォルム’とは、何なのでしょう? どこまで行けば完成するのでしょうか? 先生。

どさんこ君斜め後ろ

仕事もして、結婚もして、母親にもなって、国会議員になっても金メダル取って、とか……。
そのどこまでが‘固有の存在フォルム’でしょうか?
トマス・アクィナス。中世の神学者ですか……。
近代の病を癒やすためには、やはり先祖返りですか?

悪とは従って、聖トマスに依れば存在者の存在の欠如、存在の下降、フォルムの不毛を意味する。一切の存在をして欠如と下降と不毛に至らしめるものは悪である。従って善とは如何なる社会的契約や人間の日常的契約によっても計られず「存在」そのものによって計られる。
(「実存の悲劇(都築明の旅)」,『堀辰雄覚書』)

‘固有の存在フォルム’の完成を邪魔する連中。沢山おります。
‘欠如と下降と不毛に至らしめる’ために、躍起になっているニセモノの仏教とか。
こういう連中へのウラミは、腹の奥に結石のように、現に在って。どうしようもなく在るのです。どうしようもなく在る、ということは、それは“真実”なのでしょう。

中世の神学者の言葉は、無意識の裡に追いやった“真実”を呼び覚ますだけの力を持っております。
この善と悪についての言葉は、何処かとても暖かい……。

どさんこ君ポーズ

私は、遠藤の次の言葉を支えに、ぼちぼち勉強を続けていこう。‘人間の条件’とは……。

都築明は美と真とを混同する。それはまた堀辰雄氏の欠陥である。この似而非(えせ)プラトニズムの影響は、堀氏が一つの思想家として僕たちの前にあらわれる時、僕たちが考察せねばならぬ事であろう。今日若い僕たち世代にとって、実存者の生に対する無償の犠牲、かなしくも美しい詩人の悲劇性ほど魅力あるものはないであろう。然しそれを乗りこえる為には、まさしく存在者をして存在の条件に則せしめる思考が必要なのである。
(「実存の悲劇(都築明の旅)」,『堀辰雄覚書』)

【関連記事】
遠藤周作の『風立ちぬ』論-‘力みかえった弟’(その1)
遠藤周作の『風立ちぬ』論-‘力みかえった弟’(その2)


[2012/02/16 17:25] | 遠藤周作の文学
トラックバック:(0) |
『風立ちぬ』(1938年)の‘私’は、節子を亡くして一人、3年半ぶりに雪に埋もれた‘K…村’を訪れた。そして、その村からすこし北へはいった谷にある小屋を借りて、やもめ暮らしを始める。
‘私’は、節子とよく絵を描きにいった一本の白樺の立った原へも行って見て、その木に懐しそうに手をかけてみたりするが、結局、満たされない思いで小屋に帰ってくる。

 そうしてはあはあと息を切らしながら、思わずヴェランダの床板に腰を下ろしていると、そのとき不意とそんなむしゃくしゃした私に寄り添ってくるお前が感じられた。が、私はそれにも知らん顔をして、ぼんやりと頬杖をついていた。その癖、そういうお前をこれまでになく生き生きと――まるでお前の手が私の肩にさわっていはしまいかと思われる位、生き生きと感じながら……
(『風立ちぬ』第5章「死のかげの谷」)

これじゃあ、トカゲの尻尾ではないか……。

これだから堀辰雄は苦手だったのだ…、と私は、‘昭和六十二年九月十日九十刷’とある新潮文庫の奥付を見た。
90刷……。古典的名著である。本歌取りされるほどの。

函館ロープウェイ1_convert_20120209185805

逝ってしまった人間を、生者の如く感じ取るという行為。
堀の‘私’と同じ境涯に立たされたら、私はこう冷淡でいられるかどうか、断言出来ないけれど。
何事もなかったかのように、死者が此岸によみがえる。
切れたトカゲの尻尾が生え、プラナリアの頭が生える。
なんとも羨ましい壊れにくいものたち。
しかし、何事もなかったかのようには出来ない事があるハズだ。
死者を弔う理由の一つ。残った者の人間性を守るために、きちんと弔いをするのであろう。

堀辰雄の美とは、遠巻きに見る者に、羨望と嫌悪の混じった溜め息をつかせるような美だ。
デパ地下でひと玉が一万円を超えるような、マスクメロン。しかも完熟の…。

あぶないなあ! と食傷しそうだった私は、小説の最後から4ページ目に入った所で気を取り直した。やはり、25年も前に90刷に達しているだけのことはあるか?

小説の最後あたり、堀辰雄の‘私’は、‘背後に確かに自分のではない、もう一つの足音がするような’気がしながら、雪の深い林を抜けて行く。節子の足音…。

 私はそれを一度も振り向こうとはしないで、ずんずん林を下りて行った。そうして私は何か胸をしめつけられるような気持になりながら、きのう読み畢《お》えたリルケの「レクイエム」の最後の数行が自分の口を衝いて出るがままに任せていた。

  帰っていらっしゃるな。そうしてもしお前に我慢できたら、
  死者達の間に死んでお出《いで》。死者にもたんと仕事はある。
(『風立ちぬ』第5章「死のかげの谷」)

これは、おそらく正しい人間の言葉である。――節子よ、‘帰っていらっしゃるな。

函館ロープウェイ2_convert_20120209185848

キリスト教文学におけるリルケの位置は、今の私には判らない。
それこそ遠藤周作の足跡をチマチマと辿って行くしかない。
ただ、堀の‘私’が「レクイエム」によって目覚めた事から分かるように、『風立ちぬ』では、カトリックのモチーフが‘私’を危険な淵から救っている。
堀の‘私’がカトリックをどう思っているかは関係なく!!!


カトリックのモチーフとは。
小さなカトリック教会が‘私’の知らない間に村に建っていたこと。『詩篇』の文句。ドイツ人の神父と‘私’のやりとり。教会で見た喪服の婦人。それからリルケの「レクイエム」。村の娘の家でクリスマスを送ったこと。である。

このドイツ人神父は、‘私’を信者にしたいらしい。‘私’の小屋を訪ねてきたり、‘私’が教会に出向いたりする。日本語が十分理解出来ない神父との会話は、ちぐはぐになりがちだが、『風立ちぬ』の主題と交錯する、こんな会話もなされる。

そうして私達はいつか黙り合ったまま、熱過ぎるくらいの煖炉の傍で、窓硝子ごしに、小さな雲がちぎれちぎれになって飛ぶように過ぎる、風の強そうなしかし冬らしく明るい空を眺めていた。
「こんな美しい空は、こういう風のある寒い日でなければ見られませんですね」神父がいかにも何気なさそうに口をきいた。
「本当に、こういう風のある、寒い日でなければ……」と私は鸚鵡《おうむ》がえしに返事をしながら、神父のいま何気なく言ったその言葉だけは妙に私の心にも触れてくるのを感じていた……
(『風立ちぬ』第5章「死のかげの谷」)

やはり、‘風立ちぬ、いざ生きめやも。’である。
小説の結びの一文では、静寂にひたる‘私’の足もとに‘風の余り’がやって来る。

又、どうかするとそんな風の余りらしいものが、私の足もとでも二つ三つの落葉を他の落葉の上にさらさらと弱い音を立てながら移している……。
(『風立ちぬ』第5章「死のかげの谷」)

猫とネズミ_convert_20120105024546

遠藤周作が『風立ちぬ』第5章に‘汎神的方面の発芽を認める’というのは、根拠の薄いことである。
そのことを言うために遠藤は、『風立ちぬ』以外の作品に多く頼って、論を構築しているから。

また、遠藤が『堀辰雄覚書』で“死の微光”と呼んだ、‘幽かにぽつんと落ちている’小さな光。
前の記事で書いたように、それを私は、死者の領域と一線を画した此岸の光、世俗の光と読みたい。
【前の記事→→遠藤周作の『風立ちぬ』論-‘力みかえった弟’(その1)

小さな光のくだり。第5章「死のかげの谷」の本文を少し、追記に出しておきます。(青空文庫からのコピペw)


[追記]

 十二月二十四日
 夜、村の娘の家に招《よ》ばれて行って、寂しいクリスマスを送った。こんな冬は人けの絶えた山間の村だけれど、夏なんぞ外人達が沢山はいり込んでくるような土地柄ゆえ、普通の村人の家でもそんな真似事をして楽しむものと見える。
 九時頃、私はその村から雪明りのした谷陰をひとりで帰って来た。そうして最後の枯木林に差しかかりながら、私はふとその道傍に雪をかぶって一塊りに塊っている枯藪《かれやぶ》の上に、何処からともなく、小さな光が幽《かす》かにぽつんと落ちているのに気がついた。こんなところにこんな光が、どうして射しているのだろうと訝《いぶか》りながら、そのどっか別荘の散らばった狭い谷じゅうを見まわして見ると、明りのついているのは、たった一軒、確かに私の小屋らしいのが、ずっとその谷の上方に認められるきりだった。……「おれはまあ、あんな谷の上に一人っきりで住んでいるのだなあ」と私は思いながら、その谷をゆっくりと登り出した。「そうしてこれまでは、おれの小屋の明りがこんな下の方の林の中にまで射し込んでいようなどとはちっとも気がつかずに。御覧……」と私は自分自身に向って言うように、「ほら、あっちにもこっちにも、殆どこの谷じゅうを掩《おお》うように、雪の上に点々と小さな光の散らばっているのは、どれもみんなおれの小屋の明りなのだからな。……」
 漸《や》っとその小屋まで登りつめると、私はそのままヴェランダに立って、一体この小屋の明りは谷のどの位を明るませているのか、もう一度見て見ようとした。が、そうやって見ると、その明りは小屋のまわりにほんの僅かな光を投げているに過ぎなかった。そうしてその僅かな光も小屋を離れるにつれてだんだん幽かになりながら、谷間の雪明りとひとつになっていた。
「なあんだ、あれほどたんとに見えていた光が、此処で見ると、たったこれっきりなのか」と私はなんだか気の抜けたように一人ごちながら、それでもまだぼんやりとその明りの影を見つめているうちに、ふとこんな考えが浮んで来た。「――だが、この明りの影の工合なんか、まるでおれの人生にそっくりじゃあないか。おれは、おれの人生のまわりの明るさなんぞ、たったこれっ許《ばか》りだと思っているが、本当はこのおれの小屋の明りと同様に、おれの思っているよりかもっともっと沢山あるのだ。そうしてそいつ達がおれの意識なんぞ意識しないで、こうやって何気なくおれを生かして置いてくれているのかも知れないのだ……」
 そんな思いがけない考えが、私をいつまでもその雪明りのしている寒いヴェランダの上に立たせていた。

【十二月三十日の途中から『風立ちぬ』の最後まで】
 そんな事を考え続けているうちに、私はふと何か思い立ったように立ち上りながら、小屋のそとへ出て行った。そうしていつものようにヴェランダに立つと、丁度この谷と背中合せになっているかと思われるようなあたりでもって、風がしきりにざわめいているのが、非常に遠くからのように聞えて来る。それから私はそのままヴェランダに、恰《あたか》もそんな遠くでしている風の音をわざわざ聞きに出でもしたかのように、それに耳を傾けながら立ち続けていた。私の前方に横わっているこの谷のすべてのものは、最初のうちはただ雪明りにうっすらと明るんだまま一塊りになってしか見えずにいたが、そうやってしばらく私が見るともなく見ているうちに、それがだんだん目に慣れて来たのか、それとも私が知《し》らず識《し》らずに自分の記憶でもってそれを補い出していたのか、いつの間にか一つ一つの線や形を徐《おもむ》ろに浮き上がらせていた。それほど私にはその何もかもが親しくなっている、この人々の謂《い》うところの幸福の谷[#「幸福の谷」に傍点]――そう、なるほどこうやって住み慣れてしまえば、私だってそう人々と一しょになって呼んでも好いような気のする位だが、……此処だけは、谷の向う側はあんなにも風がざわめいているというのに、本当に静かだこと。まあ、ときおり私の小屋のすぐ裏の方で何かが小さな音を軋《き》しらせているようだけれど、あれは恐らくそんな遠くからやっと届いた風のために枯れ切った木の枝と枝とが触れ合っているのだろう。又、どうかするとそんな風の余りらしいものが、私の足もとでも二つ三つの落葉を他の落葉の上にさらさらと弱い音を立てながら移している……。



追記を閉じる▲

[2012/02/10 19:09] | 遠藤周作の文学
トラックバック:(0) |