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アンチ-ロマンチシズムと文学との幸福な共存を謀ります。当面、「炭鉱のカナリア」になる決意をしました。第二次安倍政権の発足以来、国民は墨を塗られるだろうと予測していましたが、嫌な予感が現実になりつつあります。日本人の心性や「日本国憲法」の問題などを取り上げながら、自分の明日は自分で決めることの大切さを、訴えていきたいと思います。
遠藤周作の書いたものは、小説よりも批評のほうが良いように思う。(本人もどこかで、自分より上手い小説を書く作家はいくらでもいる、と書いていた。)
遠藤の小説を読んでいると、観念的なところが気になって面白くないと感じることがあるが、批評となると途端に筆がよく伸びて、私などは引き込まれてしまう。
この作家は基本的に、大変な読み巧者であり、戦後間もない頃にフランスのカトリック文学を研究するために渡仏するような、目利きである。
だから彼の書いたものは、政治と宗教(と文学)の難しい関係について考えようとする時、一つの足場であり続けるのだろう。

『イエスの生涯』(1973年,新潮社)は、遠藤50歳の時に出されたイエス・キリストについての評伝である。
この書で遠藤が、「期待はずれの預言者」・「無力な男」である‘人間イエス’を書いたことは、一部のキリスト教徒から顰蹙を買ったらしい。
キリストを信仰する人々にとってイエスは‘子なる神’なのだから、イエスを単なる‘有徳の人’で済ませたり、ましてや「無力な男」にしてしまうのは許せない事だというのは、私のような者にも分かる気がする。信徒である以前に小説家・批評家であるとして、遠藤の信仰の弱さを突くこともできよう。

しかし遠藤が、「汝等は徴(しるし)と奇蹟を見ざれば信ぜず」(ヨハネ福音書,四-四十八)という、イエスの嘆きに焦点を合わせようとするとき、読者は、‘政治と宗教’という1つの難問に向けて誘導されている。
そうして、その難問に出くわした人間には、信仰を持つことが出来る人間の幸福とは異種の幸福があるのかもしれない。

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聖書によると、当時のユダヤの人々は、イエスの処刑と引き替えに「革命家バラバ」の釈放を求めた。
苦しい生活を強いられていた民衆が、イエスの説く「神の愛」よりも、「革命家バラバ」が発揮する現実世界での力と効果に期待した為である。
遠藤曰わく、‘政治’とは、力と効果を要求するものであり、「人間は現実世界では結局、効果を求めるから」である。
イエスの「生涯の課題」が、遠藤の言うとおり「神の愛の証明」という事にあったのならば。そして、「現実における愛の無力さ」をイエスがよく分かっていたならば。イエスの苦しみは、「汗、血のごとくしたたる」ほどに極まったであろう。

だが愛は現実世界での効果とは直接には関係のない行為なのだ。そこにイエスの苦しみが生まれた。

苛酷な現実に生きる人間は神の愛よりもはるかに神のつめたい沈黙しか感じぬ。苛酷な現実から愛の神を信ずるよりは怒りの神、罰する神を考えるほうがたやすい。
(『イエスの生涯』)

なるほど、貧困、病、争いごと、離別に死別、と「苛酷な現実」に悩まされていた人々は、「神の愛」よりも、神の怒りや罰を思いがちだろう。「愛の神」なんかより、鬼でも邪でもいいから、その苦悩を実際に何とかしてくれる存在の方が有り難かったりする。

そこで、‘貧病争’の解決、いわゆる現世利益を売りにするような宗教(きわめて‘政治’的な性質を持つ宗教)が、おこってくる訳だ。またそういう「現実世界での効果」を謳う宗教には、信者が群がって来る。

ある仏教系新興宗教の信者達が、よく言っていた。
ハリツケになった神さんなんか信じてもなんにもならん。

要するに、その新興宗教は‘結果をいただける’信仰であるという点で、キリスト教なんかよりも優れているという事だったらしい。‘霊界のお手配’で、事業が回復し、病気が治り、家庭円満になった、という「奇蹟」についての‘体験談’が、まるでテンプレートに個々の事例をはめ込むようにして、量産されていた。

札幌タワーから2

そうやって本当に幸福でいられるのなら、そういう「現実世界での効果」がある信仰に入れ込むのも1つの生き方か、と私は思う。
しかし、‘貧病争’が‘ある程度まで’解決されてもなお、私の回りの大人達は、あまり幸せそうではなかった。例えば、その夫や父親が戦死したことを、彼らは嘆き続けていた。(たぶん、今も嘆き続けている。そしてそれは、ちゃんとした‘喪の仕事’とは似ても似つかぬものである。
そういう姿を見ていた私は、彼らの夫や父親が生きて帰っていたならば、彼らの嘆いてばかりの毎日は違っていたのか? と疑いを抱くようになった。そして、その夫や父が無事に復員していても彼らは別の嘆きを見つけ出しているだろう、と私は見定めた。その時には、長い年月が無為に過ぎ去っていた。

彼らのような人々は、たとえ人ひとりの人生を食い潰しても、その渇きがおさまることはなく、かえって渇きが増してしまう。
これはもう、現世利益の宗教では、手当てが不可能である。
そもそも、現世利益の宗教で救われる人なら、わざわざ宗教を奉じる必要はなく、政治(現実的な効果を見込める合理的努力)を行っていれば良いとも言える。
彼らの癒えない渇きに真に必要なのは、次のような逆説であるかもしれない。

だが我々は知っている。このイエスの何もできないこと、無能力であるという点に本当のキリスト教の秘儀が匿されていることを。
(『イエスの生涯』)

遠藤のこういう説明もまた、キリスト教徒の顰蹙を買うのか、或いは賛同されるのか、私にはよく分からない。
しかし、可能ならば自分も、この「秘儀」に通じてみたい。それは、理屈で分かるという事ではなく、直観的に、啓示に打たれるような出来事なのだろう。

遠藤の上の言葉を読むと、私は、論理の向こうに何かがヒラメクように思う。

口惜しいが、私にはそのヒラメクものをつかむことはできず、‘回心’には至れそうにない。
ただ私は、イエス・キリストを鼻先であしらったり、蹴っ飛ばしたりはできない。
『イエスの生涯』で遠藤が書いた、苦しむ人の側に一晩中座ってじっと手を握っているだけのイエス。そんなイエスに逆説を見ることが出来ない大人達を、反面教師にできたこと。それが、私が受け継いだ数少ない資産であるようだ。

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[2011/10/31 05:00] | 遠藤周作の文学
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「あのう、あなたはりっぱな詩人になったのでしょうか、それとも正しい人間になったのですか?」
(「幽鬼の街」)

「幽鬼の街」(昭和12年)で伊藤整が描いた、リアルであると同時に奇妙に歪んだ‘街’と人々。
悪い夢の中でもがいているような、そんな肌寒く曇った街で、15年前のまだ中学生だった自分に出会ったら。そして、「あのう、あなたは・・・・・。」と問いかけられたら、どんな気持ちがするだろう。
文学に限らず美的なものに執着してきた人間なら、やはり、なんとなく顔が赤くなってしまうだろうか。

「幽鬼の街」の鵜藤(伊藤整を思わせる人物)は、故郷の小樽に戻り、道行く先々で「鬼ども」に責められ、追いかけられる。
古着街の店先にかかっている派手な長襦袢が、鵜藤を手招きして、しゃべり出す。
「ねえ、私をおぼえているでしょう。ほら私はあの秋日和に汗ばんだ顔をして井戸のはたで水を飲んだ洋子よ。」
それを聞いた女学生の赤い袴が、「まあひどい鵜藤さん、あなたは私にも・・・・」と言ってすすり泣く。
そんな無数の古着がむくむくと起きあがり、押し寄せてくるのを蹴散らしながら、鵜藤は逃げ出す。逃げ出した所に、15年前の鵜藤少年がいて、「あのう、あなたは・・・・・」と問いかけるのである。

「りっぱな詩人」と「正しい人間」を同格的に並べられると、奇襲をかけられたようで、質問された側はちょっと混乱するだろう。なんだか出鱈目であるようにも思う。
それでも鵜藤少年の問いを素通りできないのは、その問いかけが、斬新であり、かつ古典的な問であるからだろう。
どう大切なのか説明しにくいが、ともかく大切な問いかけであるような気がして、引っ掛かってしまう。
遠いところからの聞き取りにくい声なので、注意して聞くのを怠っていたが、たまさか聞こえてしまうと、聞いた人間にショックを与える問いかけ。

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この鵜藤少年は、こんな事も言ってくれる。それは、私が「幽鬼の街」を初めて読んだときから25年以上、年を追うごとに増える飛蚊症のうるさい影のようだ。

「今だから言ってあげますが、理想というのは絶対に実現ということを目あてにしているのではないのです。そんなのは野心です。」

こんな、不当なような、正当なような批判をされると、批判された側としては黙っている訳にもいかない。
途方に暮れた鵜藤は「大人の言いわけ」をするが、納得しない鵜藤少年は、泣きながら去ってゆく。大人の鵜藤は胸が痛い。

伊藤整の読者も、胸が痛い。自分の胸にあるのは、理想か? 野心か?
考えても仕方がない? 考える必要はない?
プロレタリア文学(小林多喜二)のことが念頭にあって伊藤はこんな事を書いたのだ、と考えれば、読者は少しは気楽だ。しかし、不都合なことに向き合っていたほうが、文学として粗雑にならず、良いものを引き出せるだろう。
だから私は、こういう愚問まがいの問を、これからも頭の隅に置いておこう。
日常の色んな力学に左右されて、自分自身の土台を内側から崩してしまわないためにも。
そういう、少なからぬ物書き達がおかした失敗を、性懲りもなく反復しないためにも。


どうも私は、詩でも、小説でも、エッセイでも、学術書でも、読むことで記憶の古い層が動揺するようなものに、気が付くと手を伸ばしている。その記憶とは、私個人のものというより、‘集合的無意識’に近いものだろうか。

夢のような世界を描いた小説は多々あるが、「幽鬼の街」は上に書いた事を含め、色んな意味で‘悪夢’である。

鵜藤を責める「ゆり子」にしても、彼女が不幸になったのは、なにも鵜藤のせいだけではない。
神仏も、社会も、ゆり子の親や夫も、ゆり子自身も、誰も責任をとろうとしないので、鵜藤はひたすら自分が悪いような気がしてくるのである。

「何の交渉もなかった人への関心が、いま十年の後にかえって強く残っていることがあってみずから驚いているんですよ。こういうものでしょうか。」

「意味は八方へひろがり、すべてのものにつながっていて、考えればみな締めくくりがつかなくなるのですよ。これはどういうことでしょう。」

「もし生活の一片ごとに誠実であろうとしたならば、僕は命を百持っていてもたりなかったでしょう。こういう考えはおかしいでしょうか? 」



[2011/10/24 00:05] | 伊藤整をめぐる冒険
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図書館で文学全集を借りるとき、目当ての文章がどの巻に収められているのか分からない事がある。
開架から手に取って見ることが出来る場合、1冊1冊棚から出して目次を見る。
いちいち見るのは面倒だったりする。書庫にあるものを頼んで出してもらう場合は、もっと厄介だ。

最近はネット上に出回っている古書も多いから、全集の内の必要な巻のみを買いたいときもあるが、やはり各巻の内容が分からないことが多い。
そんなことで困っていたとき、全集の目次をデーターベース化し公開しているサイトを見つけた。
↓↓↓
研究余録~全集目次総覧~

私がこのブログで記事を書いている作家については、こういう目次のデーターを自分で作るしかないかな、と思っていたが、世の中には志の篤い人がいるものだ。
図書館で全集を借りることも多い私には、大変有り難い。

私の自宅の6畳間は、本置き場と化している。書斎なんて格好の良いものではない。
窓や入口を塞ぐことは出来ないから、それ以外の壁に目一杯に高い書棚を並べ、腰高窓の下のスペースも無駄にせず低い棚を置いてある。
各棚に収めた本の手前には更に別の本を並べているから、もう奥にどんな本があるのか、自分でも分からない。それでもスペースが足りないので、前後2列に並べた本の上の隙間に、今度は横にして収めて。今は、本棚の前の床に本が積み上げられている。

さすがにこれは何とかせねば、と思った。(私の知り合いに、本の重みで床が抜けて大変だった人がいる。古い家だったからか?)
それで、図書館に頼れるものは頼ることにした。
伊藤整の『日本文壇史』を買いたいのだが、文庫本でも全18巻だと結構なスペースが要るので、近くの図書館に揃っているのを、必要に応じて借りたり返したりしている。
困るのは、図書館の本には書き込みが出来ない事。それで仕方なく、付箋を貼っておいて、返却前に付箋を剥がしながら、気になる本文を読書ノートに書き写している。
これで本が増えるスピードが少し緩んだ。

ただ、図書館にだって、費用やスペースの限界がある。図書館も、収蔵書の定期的廃棄や、電子化を迫られている。公立の比較的規模が小さい図書館では、商業文芸誌などは2、3年で廃棄されることが多いようだ。そうやってスペースを工面しても、新規に収蔵できる本は限られている。

それでまた仕方なく、道立図書館にも北大図書館にも入ってない本を、悩みながら買う羽目に陥る。
それがまた、大いにハズレだったりするので、泣きたくなる。
ここ最近、そうして買った本3冊が立て続けに、有っても無くてもいいようなものだった。

偶然だろうか?
どうも、図書館というのは、本を選択するにあたって、特殊な嗅覚でも駆使しているのではないか、と思ってしまう。
例えば、名著と認めていい或る本を書いている著者の、別の本で、実績と信用のある出版社から出ている本が、実際読んでみると案外詰まらなかったりする。そして、そういう本は図書館に入っていない、という事がよくある。私が、公立図書館と大学図書館をハシゴしていた若い頃から、何となく感じていたことだ。
実際に読んでから収蔵を決める訳ではない以上、本選びのプロの嗅覚(しかも商品価値に左右されない)ということがあるのだろうか? あるいは、新聞の書評なんかより格段に信用できる、何か情報源でもあるのか?(それにしても、朝日に載った斎藤環の『1Q84』評は、茫然とするほどひどかった…。)

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そんな頼りになる図書館にも限界がある以上、自分で工夫するしかない。
最近は、はやりの‘自炊’も少しやっている。せっかくの本を解体して、スキャンし、あとは資源ゴミに出す。ぎゅうぎゅう詰めの棚は、見事に空く。
そこに、検討に検討を重ねて、新しい本を買い入れる。

本が出版されても、うっかりしていると品切れになってしまう。しかも、再版予定無し、という実質的絶版状態に。
それが怖くて、将来読みそうな本は取りあえず買っておく、ということを以前はやって来たが、スペースと財力の問題から今は出来ない。在野の身になると、全部が私費だし。
時間の問題も出てきた。古今東西の星の数ほどある本のなかから、私はあと、どのくらい読むことができるだろう。
健康で平均寿命くらい生きられれば相当読めるサ! 、と楽観的にもなれない。
1冊読むと、それに伴って、読みたい本のリストに新たな何冊かが加わってしまうから。ひどいときは、1冊こなすと10冊以上加わる。
また私には、そういう、芋づる式に次の本に誘導されるような本を好んで読む癖があるので。

本を解体するのは思い切りが要るが、電子化してでも手元に置きたい本なら、まだ可能性があるということ。
次を読むにしても、次に書くにしても、次の言葉を呼ぶ本を選びたい。

そういうことでここ数日、書棚を点検中。電子化さえせずに、ブックオフに送る本を選んでいる。
オウムの問題を予見できなかった(というか、助長した側面が疑われる)、日本のニューアカデミズムの著者については、迷わず段ボール箱へ。
ニューアカの本家達(ポスト構造主義)については、脱構築も軽やかな‘逃走’も、1つの通過点に過ぎない気がするので、やはり段ボール箱へ。これらの本には、手放すことを予感してか、書き込みもしてない。

多彩な構造主義の著作には、保留したいものもある。ソシュールは現代思想の祖として相変わらず重要だと思うので、置いておこうか。そもそも、書き込みをしてあるので買ってもらえない。
フッサールやメルロ・ポンティの現象学は? きりがないので、図書館の収蔵状況をチェックして、借りられるものは売り払う。

そうして残ったものを見ると、なんだか古色蒼然としている。十字架の聖ヨハネだの、パスカルだの…。

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[2011/10/17 19:43] | 情報の発信・蓄積・管理
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