アンチ-ロマンチシズムと文学との幸福な共存を謀ります。当面、「炭鉱のカナリア」になる決意をしました。第二次安倍政権の発足以来、国民は墨を塗られるだろうと予測していましたが、嫌な予感が現実になりつつあります。日本人の心性や「日本国憲法」の問題などを取り上げながら、自分の明日は自分で決めることの大切さを、訴えていきたいと思います。
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「文学フリマ」の公式ホームページに、大塚英志の「不良債権としての文学」が掲載されている。
私は、この公式サイトの存在も、そこで大塚のエッセイが読める事も、全く知らないでいた。
(参照ページ)

「不良債権としての文学」は、『群像』2002年6月号に掲載されたのだから、もう9年も前に書かれたものだ。『群像』掲載当時、この挑発的で刺激的な内容について、笙野頼子と大塚の‘論争’と共に、話題になったのを覚えている。

9年後の今改めて読んでみると、大塚に見えていた「危機」は、解消されるどころか現在にかけて増大しているように見える。大塚の主張は次のように要約できる。

「選ばれし者たちのみの秘儀」としての文学は、その「高コスト体質」のために維持存続が難しい現実がある。「仮想敵」(大塚英志など)の向こう側にあるものと対峙することを順延せず、「文学」が「自らの生き延びる手段を模索」する必要がある。そのために、「文学コミケ」を提案する。

エッセイの中で大塚は、文芸誌『重力』が経済的自立のために行っている努力について紹介したり、大西巨人の例をあげたりしている。
「インターネット上では大西巨人氏が、その最新作『深淵』を黙々とHP上に書き紡いでおられるように、いかなる経済下でも政治下でも「文学」は生き延びてしまうものです。」

若葉

私が今さらのように「不良債権としての文学」を読んだきっかけは、「文学フリマ」について記事を書いている森井聖大氏のブログだった。そこには、大塚が見付けたがっていたところの、「そのジャンルそのものの「生き残る意志」」が、強く感じられる。

「文学フリマ」に何故、文学と漫画が同居しているのか? 森井氏のこの疑問についてはやはり、「文学フリマ」の産みの親が大塚英志であり、何かの筋道で彼のカラーが混入したと考えて間違いないだろう。大塚は、漫画やアニメの世界に軸足を置きつつノベライズ等をやっているし、「不良債権としての文学」にも、「自分が「文学」と信じる書物」を出品するように書いている。
(ただ、大塚は「文学コミケ」を「一度だけ開催します」と書いている。だから、現在の「文学フリマ」のあり方について、彼を「責任者」呼ばわりしたのは、私の間違いだった。)

私は、森井氏のブログや「不良債権としての文学」を読みながら、同人誌を出し続けることの意義について随分考えさせられた。これまでは、同人誌というものに殆ど興味がなかったのだが。

私の関心は、過去の作家の書いたものに向かいがちだ。現在なされている文芸、いわばリアルタイムの文学を、私は遠巻に見ている。
その理由は、現在の主要な「商業文芸誌」にガッカリさせられることが多いからだ。全てに対してではないが。
読んでいると、‘縮小再生産’という言葉が、どうしても浮かんでしまう。意地の悪い見方をすれば、コネがものをいう世界のようにも見える。まあ、それは私の僻みだろう。それよりも、‘傾向と対策’をバッチリ押さえたものが持つ特有の詰まらなさ、をしばしば感じる。
それで、私がブログで取り上げている伊藤整とか遠藤周作など、古典的作家を繰り返し読みたくなる。
遠藤なんてカトリック信者なのに、自分の書いた物にカトリック教会からクレームを付けられ、それでも信仰や人生や日本の社会について、文学の言葉で考えぬこうとした。
それは、‘傾向と対策’を押さえる事とは真逆の行為だから。

それにしても、リアルタイムの文学にあまり期待できない自分が寂しかったりする。
2000年代の日本文学について、後の文学史家が書くことの少なさに困る、というのも悲しいことだ。
古典的作家に連なる書き手たちが、同人誌の方から出てきてくれたら、嬉しい。

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[2011/09/04 15:30] | 情報の発信・蓄積・管理
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勉強になりました。
森井聖大
ありがとうございます。
大変、勉強になりました。
大塚氏の不良債権としての文学も読み、小谷さんが仰るように、状況としては、何も変わっていないと思いましたし、文学フリマに漫画があることを含め、漫画同人誌は時代の後押しもあり、自信に溢れ、貪欲に動き、文学フリマにおいて、自身で本当に文学だと感じているかは別にして、傍若無人に、この場においても文学が劣勢になるほどの勢いがあります。歴史がない分、漫画は遮二無二努力してきた賜物だと感じました。後で、またこの小谷さんの記事からのインスピレーションをブログに書きたい気持ちですが、プロアマ問わず、総動員で、文学もそろそろ本気で危惧しないと、全く違うジャンルだと斜に構えていても、世界規模ではどうかは別にして、日本においては、文学は生活の中から消えていく可能性もあり得ますし、世界から日本に文学はなく漫画だけがあると思われかねない。

Re: 勉強になりました。
小谷予志銘
そうですね。‘歴史がない分、漫画は遮二無二努力してきた賜物’という事を現場で見ている森井さんには、では文学はどう動けばよいか、を具体化できるのだと思います。

‘人生の友としての文学’を読み、そこから自分として何かを書く、という事なしには、私は先の見えないこの曲がりくねった路を、人間らしく生きていくことは出来ません。

今後のご活動、楽しみにブログを読ませていただきます。

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図書館で文学全集を借りるとき、目当ての文章がどの巻に収められているのか分からない事がある。
開架から手に取って見ることが出来る場合、1冊1冊棚から出して目次を見る。
いちいち見るのは面倒だったりする。書庫にあるものを頼んで出してもらう場合は、もっと厄介だ。

最近はネット上に出回っている古書も多いから、全集の内の必要な巻のみを買いたいときもあるが、やはり各巻の内容が分からないことが多い。
そんなことで困っていたとき、全集の目次をデーターベース化し公開しているサイトを見つけた。
↓↓↓
研究余録~全集目次総覧~

私がこのブログで記事を書いている作家については、こういう目次のデーターを自分で作るしかないかな、と思っていたが、世の中には志の篤い人がいるものだ。
図書館で全集を借りることも多い私には、大変有り難い。

私の自宅の6畳間は、本置き場と化している。書斎なんて格好の良いものではない。
窓や入口を塞ぐことは出来ないから、それ以外の壁に目一杯に高い書棚を並べ、腰高窓の下のスペースも無駄にせず低い棚を置いてある。
各棚に収めた本の手前には更に別の本を並べているから、もう奥にどんな本があるのか、自分でも分からない。それでもスペースが足りないので、前後2列に並べた本の上の隙間に、今度は横にして収めて。今は、本棚の前の床に本が積み上げられている。

さすがにこれは何とかせねば、と思った。(私の知り合いに、本の重みで床が抜けて大変だった人がいる。古い家だったからか?)
それで、図書館に頼れるものは頼ることにした。
伊藤整の『日本文壇史』を買いたいのだが、文庫本でも全18巻だと結構なスペースが要るので、近くの図書館に揃っているのを、必要に応じて借りたり返したりしている。
困るのは、図書館の本には書き込みが出来ない事。それで仕方なく、付箋を貼っておいて、返却前に付箋を剥がしながら、気になる本文を読書ノートに書き写している。
これで本が増えるスピードが少し緩んだ。

ただ、図書館にだって、費用やスペースの限界がある。図書館も、収蔵書の定期的廃棄や、電子化を迫られている。公立の比較的規模が小さい図書館では、商業文芸誌などは2、3年で廃棄されることが多いようだ。そうやってスペースを工面しても、新規に収蔵できる本は限られている。

それでまた仕方なく、道立図書館にも北大図書館にも入ってない本を、悩みながら買う羽目に陥る。
それがまた、大いにハズレだったりするので、泣きたくなる。
ここ最近、そうして買った本3冊が立て続けに、有っても無くてもいいようなものだった。

偶然だろうか?
どうも、図書館というのは、本を選択するにあたって、特殊な嗅覚でも駆使しているのではないか、と思ってしまう。
例えば、名著と認めていい或る本を書いている著者の、別の本で、実績と信用のある出版社から出ている本が、実際読んでみると案外詰まらなかったりする。そして、そういう本は図書館に入っていない、という事がよくある。私が、公立図書館と大学図書館をハシゴしていた若い頃から、何となく感じていたことだ。
実際に読んでから収蔵を決める訳ではない以上、本選びのプロの嗅覚(しかも商品価値に左右されない)ということがあるのだろうか? あるいは、新聞の書評なんかより格段に信用できる、何か情報源でもあるのか?(それにしても、朝日に載った斎藤環の『1Q84』評は、茫然とするほどひどかった…。)

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そんな頼りになる図書館にも限界がある以上、自分で工夫するしかない。
最近は、はやりの‘自炊’も少しやっている。せっかくの本を解体して、スキャンし、あとは資源ゴミに出す。ぎゅうぎゅう詰めの棚は、見事に空く。
そこに、検討に検討を重ねて、新しい本を買い入れる。

本が出版されても、うっかりしていると品切れになってしまう。しかも、再版予定無し、という実質的絶版状態に。
それが怖くて、将来読みそうな本は取りあえず買っておく、ということを以前はやって来たが、スペースと財力の問題から今は出来ない。在野の身になると、全部が私費だし。
時間の問題も出てきた。古今東西の星の数ほどある本のなかから、私はあと、どのくらい読むことができるだろう。
健康で平均寿命くらい生きられれば相当読めるサ! 、と楽観的にもなれない。
1冊読むと、それに伴って、読みたい本のリストに新たな何冊かが加わってしまうから。ひどいときは、1冊こなすと10冊以上加わる。
また私には、そういう、芋づる式に次の本に誘導されるような本を好んで読む癖があるので。

本を解体するのは思い切りが要るが、電子化してでも手元に置きたい本なら、まだ可能性があるということ。
次を読むにしても、次に書くにしても、次の言葉を呼ぶ本を選びたい。

そういうことでここ数日、書棚を点検中。電子化さえせずに、ブックオフに送る本を選んでいる。
オウムの問題を予見できなかった(というか、助長した側面が疑われる)、日本のニューアカデミズムの著者については、迷わず段ボール箱へ。
ニューアカの本家達(ポスト構造主義)については、脱構築も軽やかな‘逃走’も、1つの通過点に過ぎない気がするので、やはり段ボール箱へ。これらの本には、手放すことを予感してか、書き込みもしてない。

多彩な構造主義の著作には、保留したいものもある。ソシュールは現代思想の祖として相変わらず重要だと思うので、置いておこうか。そもそも、書き込みをしてあるので買ってもらえない。
フッサールやメルロ・ポンティの現象学は? きりがないので、図書館の収蔵状況をチェックして、借りられるものは売り払う。

そうして残ったものを見ると、なんだか古色蒼然としている。十字架の聖ヨハネだの、パスカルだの…。

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[2011/10/17 19:43] | 情報の発信・蓄積・管理
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「キンドル」のサービス開始に向けて、アマゾンと日本の出版社各社との交渉が、難航しているようだ。販売価格決定権を握りたいアマゾン(流通側)に対し、出版社側が反発しているらしい。(11月8日,『朝日新聞』朝刊)

(・_・?)(._. )( ・_・)(・_・ )( ・_・)(・_・?)(._. )

私は釣られて(?)、青空文庫からダウンロードした小林多喜二の『党生活者』(1932年,昭和7年 生前未発表)を、「smoopy」というソフトで開いてみた。

まず、「smoopy」のウィンドウの大きさを、読みやすさを考えて調節する。
1ウィンドウに表示される文字数が、文庫本1頁ぶんくらいになるようにしてみる。
縦書きで、1行が36字、1頁が16行程度になるように合わせると、『党生活者』は全部で130ページ余である。いわゆる中編小説である。

しかし、モニタ上で130ページというのは、なんとなく気が重い。
そこで、「smoopy」のウィンドウをディスプレイ一杯に広げてみると、40ページほどになった。しかしこれはこれで、読む気が削がれる。

電子書籍の読みにくさ・読みやすさとは、どういうことなのだろう?

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いま私が考えているのは、モニタが液晶バックライトか電子ペーパーか、という問題ではない。
現在の電子書籍の根本的問題は、量を直感的に把握できないということだ。

例えば、「smoopy」のウィンドウの下には、水平スクロールバーと1頁ずつ前後に送るためのボタンがある。
スクロールバーのノブ(つまみ)の位置を見ると、小説全体のどの辺りを読んでいるのかが分かる。同様に、ページ数で今43ページを読んでいるのであれば、全部で130頁の43ページだから、全体の3分の1あたりを読んでいるのだと見当をつけられる。

しかし、そういう風に見当をつける事は、紙の本を手にして分量を把握する事とは、異質である。
縦書きの本だと、本を読み進めるにつれ、開いた本の右側の厚みが増し、左側が薄くなっていく。
こういう量感は、1冊の本を受容する場合に、実は大切な情報だと私は考えている。分量というのは、その本文の調子とか呼吸などと関わっていて、内容の理解に間接的にせよ役立っているはずだ。


電子書籍で原稿用紙100枚以上もの小説を読むとなると、私はその量感のなさのために、しばしば挫折する。
スクロールバーのノブを見て、“今3分の1あたりだから、あとは今まで読んだ量の倍くらい読むと終わるのね”と思うことはできる。ただ、それが有効なのは一気に読み切る場合だろう。途中で置いて、その3分の1の量感を忘れたら…。そこでアウトである。分量と内容の関連について、どこかで勘を働かせていたのが、もう効かない。

電子書籍の今後の課題(技術面)は、デジタル情報の‘擬アナログ化’だと思う。
‘擬アナログ化’とは、例えばディスプレイ上で時間表示をする時、10:22 という風に表示せず、わざわざアナログ時計の短針長針を描いてみせるようなものだ。

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段ボール箱みたいだったパソコンが、そう長くない年月の間にマナ板よりも薄くなった事を考えれば、そういうことも何時か実現するのだろう。

SINさんのブログで、3D映像の仮想物体を手でつかんだり動かしたりできる技術「Holodesk」が紹介されている。
↓↓↓
【触れられる立体映像】最近のホログラムの技術が凄すぎる!

私が待ち望んでいるのは、分量についての情報を直感的に得られる電子書籍端末であるらしい。
論理的・実用的な文章ならともかく、小説のような美的なものは、今のソフトや端末では私には少しきつい。特に、小説で中編以上の長さのものは、今の電子書籍では辛い。結局、多喜二の『党生活者』を紙の本で読んだ。

日本の技術者の皆様! ユーザーはアップルの模倣よりアップルそのものを選ぶでしょう。本当に使える電子書籍関連の技術を生み出して、日本の主導権を回復して下さい!! 聞こえますかぁー。
聞こえないだろうな。(- -;*)

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『党生活者』を読むと、地下に潜行した多喜二らがどんな風に活動していたのか、想像される。「個人生活」を捨てた人間が、どういう理由で雨を喜び、どういう理由で夏が過ぎ去るのを望むか。

私にはちょんびりもの個人生活も残らなくなった。今では季節々々さえ、党生活のなかの一部でしかなくなった。四季の草花の眺めや青空や雨も、それは独立したものとして映らない。私は雨が降れば喜ぶ。然しそれは連絡に出掛けるのに傘をさして行くので、顔を他人(ひと)に見られることが少ないからである。私は早く夏が行ってくれゝばいゝと考える。夏が嫌だからではない、夏が来れば着物が薄くなり、私の特徴のある身体つき(こんなものは犬にでも喰われろ!)がそのまゝ分るからである。早く冬がくれば、私は「さ、もう一年寿命が延びて、活動が出来るぞ!」と考えた。たゞ東京の冬は、明る過ぎるので都合が悪かったが。

私は、以前の記事で、追いつめられた多喜二の頭を‘転向’という考えがよぎったかもしれない、と書いた。しかし『党生活者』の次の箇所を読むと、この人は本当に不退転だったのではないか、と思えて、少し怖くなる。

若しも犠牲というならば、私にしろ自分の殆(ほと)んど全部の生涯を犠牲にしている。須山や伊藤などゝ会合して、帰り際になると、彼等が普通の世界の、普通の自由な生活に帰ってゆくのに、自分には依然として少しの油断もならない、くつろぎのない生活のところへ帰って行かなければならないと、感慨さえ浮かぶことがある。そして一旦(いったん)つかまったら四年五年という牢獄が待ちかまえているわけだ。然しながら、これらの犠牲と云っても、幾百万の労働者や貧農が日々の生活で行われている犠牲に比らべたら、それはものゝ数でもない。私はそれを二十何年間も水呑(みずのみ)百姓をして苦しみ抜いてきた父や母の生活からもジカに知ることが出来る。だから私は自分の犠牲も、この幾百万という大きな犠牲を解放するための不可欠な犠牲であると考えている。
(『党生活者』)

イエス・キリストみたいな人間が何人もいる、という風には、私はあまり考えたくないのだけれど。


【関連記事】
伊藤整の青春.6-プロレタリア文学
『蟹工船』-小林多喜二の文学(1)



[2011/11/12 14:08] | 情報の発信・蓄積・管理
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