去る9月29日、キリスト教文学会の北海道支部会に出席した。
研究発表のテーマは、ホーソンの『緋文字』についてだった。
発表者のT先生は、藤女子中学高等学校で教諭をされている、まだ歳の若いシスターであった。
キリスト教文学会の全国学会でも、広い講堂の隅に、年配のシスターが座っているのを遠くから見ることはあった。
しかし会議室程度の広さの部屋で、まだ20代後半から30代前半と思われる修道女が話す姿を間近で見て、私は、軽い衝撃を受けてしまった。
その衝撃の中身が、自分自身にも混沌としているので、困っている。
眼鏡をかけて化粧っ気ひとつないT先生は、黒とグレーのコンビの修道服を纏い、背筋を伸ばして立っている姿が、泥沼に咲いた一本の白い蓮のように(仏教的だけど)美しかった。
よく通る声には説得力があり、英文学とカトリックについて、ハードな修練を経てきたことを感じさせる。
あるレベルに若くして着実に到達している、そういう姿に、私は感動したらしい。
T先生の経歴については何も知らないが、背景に想像される、洗練された方法論。
加えて、すっぴんの頬に差す赤みが象徴する、心身の健康さと活力、ということを感じ取った。
同時に、世俗を棄てて修道生活に入らせた、その信仰とはどんなものであるか、とても奥ゆかしかった。

ストレスの塊である自分は、最近いわゆる“抵抗疲労”さえ覚えていて、このまま摺り減ってしまわないためには、我流ではない堅牢な何かが必要だ。
信者にはなりたくないが、“悪魔”に抵抗するための方法論は、カトリックが蓄積しているに違いない…。
たわい無くそんなことを考えつつ、衝撃の余韻にひたっていると、伊藤整が書いた「女子修道院」という短い文章のことを思い出した。
昭和31年に河出書房から出された全集の第6巻に収められた、初出が不明のエッセイである。
私はここまで書いて来て、キリスト教徒でない私が、ただもの珍しさで、その人たちの信念や修業をあやまり伝えるようなことをしてはいないか怖れている。
(「女子修道院」)
伊藤が函館のトラピスチヌ修道院を訪問したのは、1937(昭和12)年前後らしい。
その際のことを書いたエッセイの最後あたり、伊藤は上のように言っている。

そうだ、私も。
もの珍しさが手伝って、T先生のことをあやまり伝えてはいけない。
私の勝手な思いつきを書いて、迷惑をかけてはいけないから、‘T先生’としたのでもある。
でも、伊藤整が次のように書いている事について、私はT先生を見て、実例に触れたような気がした。
伊藤が修道院を見学した時、部外者に応対した修道女について、こう書いている。
私はその人を立派だと思って見た。たとえばこの人が学校の教師であっても、いたわりのある立派な教師であろうし、また人妻であってもしとやかな頭のいい人妻であり得るだろう。そしてまた変なことだが、酒場か喫茶店の女主人としても、この人なら十分に、品格を保ったまま人を使って仕事ができるだろう、などとひとりで考えた。
(「女子修道院」)
今日からみると古くさい価値観を帯びた箇所だが、カトリックの修道生活について、一つの洞察がなされていると思う。
曾野綾子の『不在の部屋』に書かれた修道者の堕落、という事も、反面の現実なのだろうが…。
洗練された方法論に則って、人間性や“霊性”が真っ直ぐに開花すれば、その人はどこに立っても他者に力を与え、姿勢は美しく、眼に見えぬ光を放つのだろう。

私の外から、また私の無意識から、何かが足をすくおうとして、いろいろと仕掛けてくる……。
そのモヤモヤしたものに抵抗し続けるため、学会に出て以来、私はあちこち掃き清めたり、ピカピカに磨いたりしている。
研究発表のテーマは、ホーソンの『緋文字』についてだった。
発表者のT先生は、藤女子中学高等学校で教諭をされている、まだ歳の若いシスターであった。
キリスト教文学会の全国学会でも、広い講堂の隅に、年配のシスターが座っているのを遠くから見ることはあった。
しかし会議室程度の広さの部屋で、まだ20代後半から30代前半と思われる修道女が話す姿を間近で見て、私は、軽い衝撃を受けてしまった。
その衝撃の中身が、自分自身にも混沌としているので、困っている。
眼鏡をかけて化粧っ気ひとつないT先生は、黒とグレーのコンビの修道服を纏い、背筋を伸ばして立っている姿が、泥沼に咲いた一本の白い蓮のように(仏教的だけど)美しかった。
よく通る声には説得力があり、英文学とカトリックについて、ハードな修練を経てきたことを感じさせる。
あるレベルに若くして着実に到達している、そういう姿に、私は感動したらしい。
T先生の経歴については何も知らないが、背景に想像される、洗練された方法論。
加えて、すっぴんの頬に差す赤みが象徴する、心身の健康さと活力、ということを感じ取った。
同時に、世俗を棄てて修道生活に入らせた、その信仰とはどんなものであるか、とても奥ゆかしかった。

ストレスの塊である自分は、最近いわゆる“抵抗疲労”さえ覚えていて、このまま摺り減ってしまわないためには、我流ではない堅牢な何かが必要だ。
信者にはなりたくないが、“悪魔”に抵抗するための方法論は、カトリックが蓄積しているに違いない…。
たわい無くそんなことを考えつつ、衝撃の余韻にひたっていると、伊藤整が書いた「女子修道院」という短い文章のことを思い出した。
昭和31年に河出書房から出された全集の第6巻に収められた、初出が不明のエッセイである。
私はここまで書いて来て、キリスト教徒でない私が、ただもの珍しさで、その人たちの信念や修業をあやまり伝えるようなことをしてはいないか怖れている。
(「女子修道院」)
伊藤が函館のトラピスチヌ修道院を訪問したのは、1937(昭和12)年前後らしい。
その際のことを書いたエッセイの最後あたり、伊藤は上のように言っている。

そうだ、私も。
もの珍しさが手伝って、T先生のことをあやまり伝えてはいけない。
私の勝手な思いつきを書いて、迷惑をかけてはいけないから、‘T先生’としたのでもある。
でも、伊藤整が次のように書いている事について、私はT先生を見て、実例に触れたような気がした。
伊藤が修道院を見学した時、部外者に応対した修道女について、こう書いている。
私はその人を立派だと思って見た。たとえばこの人が学校の教師であっても、いたわりのある立派な教師であろうし、また人妻であってもしとやかな頭のいい人妻であり得るだろう。そしてまた変なことだが、酒場か喫茶店の女主人としても、この人なら十分に、品格を保ったまま人を使って仕事ができるだろう、などとひとりで考えた。
(「女子修道院」)
今日からみると古くさい価値観を帯びた箇所だが、カトリックの修道生活について、一つの洞察がなされていると思う。
曾野綾子の『不在の部屋』に書かれた修道者の堕落、という事も、反面の現実なのだろうが…。
洗練された方法論に則って、人間性や“霊性”が真っ直ぐに開花すれば、その人はどこに立っても他者に力を与え、姿勢は美しく、眼に見えぬ光を放つのだろう。

私の外から、また私の無意識から、何かが足をすくおうとして、いろいろと仕掛けてくる……。
そのモヤモヤしたものに抵抗し続けるため、学会に出て以来、私はあちこち掃き清めたり、ピカピカに磨いたりしている。
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「あのう、あなたはりっぱな詩人になったのでしょうか、それとも正しい人間になったのですか?」
(「幽鬼の街」)
「幽鬼の街」(昭和12年)で伊藤整が描いた、リアルであると同時に奇妙に歪んだ‘街’と人々。
悪い夢の中でもがいているような、そんな肌寒く曇った街で、15年前のまだ中学生だった自分に出会ったら。そして、「あのう、あなたは・・・・・。」と問いかけられたら、どんな気持ちがするだろう。
文学に限らず美的なものに執着してきた人間なら、やはり、なんとなく顔が赤くなってしまうだろうか。
「幽鬼の街」の鵜藤(伊藤整を思わせる人物)は、故郷の小樽に戻り、道行く先々で「鬼ども」に責められ、追いかけられる。
古着街の店先にかかっている派手な長襦袢が、鵜藤を手招きして、しゃべり出す。
「ねえ、私をおぼえているでしょう。ほら私はあの秋日和に汗ばんだ顔をして井戸のはたで水を飲んだ洋子よ。」
それを聞いた女学生の赤い袴が、「まあひどい鵜藤さん、あなたは私にも・・・・」と言ってすすり泣く。
そんな無数の古着がむくむくと起きあがり、押し寄せてくるのを蹴散らしながら、鵜藤は逃げ出す。逃げ出した所に、15年前の鵜藤少年がいて、「あのう、あなたは・・・・・」と問いかけるのである。
「りっぱな詩人」と「正しい人間」を同格的に並べられると、奇襲をかけられたようで、質問された側はちょっと混乱するだろう。なんだか出鱈目であるようにも思う。
それでも鵜藤少年の問いを素通りできないのは、その問いかけが、斬新であり、かつ古典的な問であるからだろう。
どう大切なのか説明しにくいが、ともかく大切な問いかけであるような気がして、引っ掛かってしまう。
遠いところからの聞き取りにくい声なので、注意して聞くのを怠っていたが、たまさか聞こえてしまうと、聞いた人間にショックを与える問いかけ。

この鵜藤少年は、こんな事も言ってくれる。それは、私が「幽鬼の街」を初めて読んだときから25年以上、年を追うごとに増える飛蚊症のうるさい影のようだ。
「今だから言ってあげますが、理想というのは絶対に実現ということを目あてにしているのではないのです。そんなのは野心です。」
こんな、不当なような、正当なような批判をされると、批判された側としては黙っている訳にもいかない。
途方に暮れた鵜藤は「大人の言いわけ」をするが、納得しない鵜藤少年は、泣きながら去ってゆく。大人の鵜藤は胸が痛い。
伊藤整の読者も、胸が痛い。自分の胸にあるのは、理想か? 野心か?
考えても仕方がない? 考える必要はない?
プロレタリア文学(小林多喜二)のことが念頭にあって伊藤はこんな事を書いたのだ、と考えれば、読者は少しは気楽だ。しかし、不都合なことに向き合っていたほうが、文学として粗雑にならず、良いものを引き出せるだろう。
だから私は、こういう愚問まがいの問を、これからも頭の隅に置いておこう。
日常の色んな力学に左右されて、自分自身の土台を内側から崩してしまわないためにも。
そういう、少なからぬ物書き達がおかした失敗を、性懲りもなく反復しないためにも。
どうも私は、詩でも、小説でも、エッセイでも、学術書でも、読むことで記憶の古い層が動揺するようなものに、気が付くと手を伸ばしている。その記憶とは、私個人のものというより、‘集合的無意識’に近いものだろうか。
夢のような世界を描いた小説は多々あるが、「幽鬼の街」は上に書いた事を含め、色んな意味で‘悪夢’である。
鵜藤を責める「ゆり子」にしても、彼女が不幸になったのは、なにも鵜藤のせいだけではない。
神仏も、社会も、ゆり子の親や夫も、ゆり子自身も、誰も責任をとろうとしないので、鵜藤はひたすら自分が悪いような気がしてくるのである。
「何の交渉もなかった人への関心が、いま十年の後にかえって強く残っていることがあってみずから驚いているんですよ。こういうものでしょうか。」
「意味は八方へひろがり、すべてのものにつながっていて、考えればみな締めくくりがつかなくなるのですよ。これはどういうことでしょう。」
「もし生活の一片ごとに誠実であろうとしたならば、僕は命を百持っていてもたりなかったでしょう。こういう考えはおかしいでしょうか? 」
(「幽鬼の街」)
「幽鬼の街」(昭和12年)で伊藤整が描いた、リアルであると同時に奇妙に歪んだ‘街’と人々。
悪い夢の中でもがいているような、そんな肌寒く曇った街で、15年前のまだ中学生だった自分に出会ったら。そして、「あのう、あなたは・・・・・。」と問いかけられたら、どんな気持ちがするだろう。
文学に限らず美的なものに執着してきた人間なら、やはり、なんとなく顔が赤くなってしまうだろうか。
「幽鬼の街」の鵜藤(伊藤整を思わせる人物)は、故郷の小樽に戻り、道行く先々で「鬼ども」に責められ、追いかけられる。
古着街の店先にかかっている派手な長襦袢が、鵜藤を手招きして、しゃべり出す。
「ねえ、私をおぼえているでしょう。ほら私はあの秋日和に汗ばんだ顔をして井戸のはたで水を飲んだ洋子よ。」
それを聞いた女学生の赤い袴が、「まあひどい鵜藤さん、あなたは私にも・・・・」と言ってすすり泣く。
そんな無数の古着がむくむくと起きあがり、押し寄せてくるのを蹴散らしながら、鵜藤は逃げ出す。逃げ出した所に、15年前の鵜藤少年がいて、「あのう、あなたは・・・・・」と問いかけるのである。
「りっぱな詩人」と「正しい人間」を同格的に並べられると、奇襲をかけられたようで、質問された側はちょっと混乱するだろう。なんだか出鱈目であるようにも思う。
それでも鵜藤少年の問いを素通りできないのは、その問いかけが、斬新であり、かつ古典的な問であるからだろう。
どう大切なのか説明しにくいが、ともかく大切な問いかけであるような気がして、引っ掛かってしまう。
遠いところからの聞き取りにくい声なので、注意して聞くのを怠っていたが、たまさか聞こえてしまうと、聞いた人間にショックを与える問いかけ。

この鵜藤少年は、こんな事も言ってくれる。それは、私が「幽鬼の街」を初めて読んだときから25年以上、年を追うごとに増える飛蚊症のうるさい影のようだ。
「今だから言ってあげますが、理想というのは絶対に実現ということを目あてにしているのではないのです。そんなのは野心です。」
こんな、不当なような、正当なような批判をされると、批判された側としては黙っている訳にもいかない。
途方に暮れた鵜藤は「大人の言いわけ」をするが、納得しない鵜藤少年は、泣きながら去ってゆく。大人の鵜藤は胸が痛い。
伊藤整の読者も、胸が痛い。自分の胸にあるのは、理想か? 野心か?
考えても仕方がない? 考える必要はない?
プロレタリア文学(小林多喜二)のことが念頭にあって伊藤はこんな事を書いたのだ、と考えれば、読者は少しは気楽だ。しかし、不都合なことに向き合っていたほうが、文学として粗雑にならず、良いものを引き出せるだろう。
だから私は、こういう愚問まがいの問を、これからも頭の隅に置いておこう。
日常の色んな力学に左右されて、自分自身の土台を内側から崩してしまわないためにも。
そういう、少なからぬ物書き達がおかした失敗を、性懲りもなく反復しないためにも。
どうも私は、詩でも、小説でも、エッセイでも、学術書でも、読むことで記憶の古い層が動揺するようなものに、気が付くと手を伸ばしている。その記憶とは、私個人のものというより、‘集合的無意識’に近いものだろうか。
夢のような世界を描いた小説は多々あるが、「幽鬼の街」は上に書いた事を含め、色んな意味で‘悪夢’である。
鵜藤を責める「ゆり子」にしても、彼女が不幸になったのは、なにも鵜藤のせいだけではない。
神仏も、社会も、ゆり子の親や夫も、ゆり子自身も、誰も責任をとろうとしないので、鵜藤はひたすら自分が悪いような気がしてくるのである。
「何の交渉もなかった人への関心が、いま十年の後にかえって強く残っていることがあってみずから驚いているんですよ。こういうものでしょうか。」
「意味は八方へひろがり、すべてのものにつながっていて、考えればみな締めくくりがつかなくなるのですよ。これはどういうことでしょう。」
「もし生活の一片ごとに誠実であろうとしたならば、僕は命を百持っていてもたりなかったでしょう。こういう考えはおかしいでしょうか? 」
北海道拓殖銀行小樽支店に勤めていた小林多喜二が左翼運動をしているという漠然とした噂は、当時、伊藤整の耳にも入っていた。
しかし小林が、小作地の争議を応援するという、銀行員としての地位を危うくする行動をしていた事は、当時の伊藤は知らなかったという。また、小林が「売笑の巷にいる女性」(田口タキ)に近づいてそれを救おうとしたが、解決できずに苦しんでいたことも、何も知らなかったらしい。
それで伊藤は、「小林はプロレタリア文学の潮に乗ろうとしているのだ、と彼の動きを文学的野心としてのみ考えていた」、と書いている。(『若い詩人の肖像』)
だが、小林を実際運動にまで駆り立てたのは、「文学的野心」だけではなく、「魂」の問題だったと、後になって伊藤は気付いたわけである。
「小林は社会的怨恨の感情というものを深く心の中に持って育った魂であったのだろう。」
(『若い詩人の肖像』)
伊藤整が1歳の頃(明治39年)、その一家は小樽近郊にある塩谷村に移った。村民の多くは貧しく、米も麦もなくて蕎麦かきで食事をするような友人の家の生活を見て、伊藤は育っている。ただ、小林の「少年時代から叔父のパン工場で働きながら通学したという経歴」と、伊藤自身の境遇とは縁遠いものだった。
「要するに私は、軍人恩給を持つ村役場吏員の子であった。私の父は常に多少でもその人たちを助けてやる立場にいた。私は、あんな風でなくてよかったと思い、また自分は漁夫や農夫と違う、という小さな優越感を持って育った。」

『若い詩人の肖像』には、当時の小樽市内に私娼窟がいくつもあったことが書かれている。若い伊藤整は、面白半分にそれらの私娼窟を歩き回り、女たちとふざけたりしたという。
田口タキを救い出そうとした多喜二とは対照的な態度である。
「もし私が私娼にかかずらわり、その女性の中にちゃんとした人間を見出すことがあったとしても、私は小林のようにその女性の救済に身を入れることはできなかった。」
伊藤整の多喜二に対するコンプレックスが最大限に膨れあがるのは、伊藤が実際運動に関わらなかったという事に加えて、人間性の問題が意識された時なのだろう。
遠藤周作はこう言っている。
「我々の人生には、その人の純粋さを考えれば、自分の賤しさに心が痛むというような誰かに時としてめぐりあうことがある。」(『イエスの生涯』)
純な人だったらしい、小林多喜二。多喜二が借金してまで田口タキを身請けしたのは、竹内結子風の美人であったタキに惚れたから、といった単純なことだけではなかったように思う。
多喜二がタキに宛てた手紙には、こんなことが書かれていた。
「どこに「自分のようなものなんか…」と云う必要がある。そんな事は絶対にないのだ。いいかい。」
(小林多喜二書簡 1927年2月 田口瀧子宛)
多喜二は、タキが自分を卑下するのを止めてもらいたかったという事。身請けして、彼女を従属させたいのではない。私娼の境遇から解放し、次には人間としての解放を考えていた。

しかし、私は人のコンプレックスをあおりたくはない。
他人の為にどこまで自分の身を削れるか。
中野重治は、獄から出るにあたって共産党を捨てた。戦前の警察という密室の中で本当のところは知りようもないと思うが、多喜二の頭には、‘転向’という事が全くよぎらなかったのだろうか。
イエス・キリストは‘人’ではないのかもしれないが、小説家は‘人’だから、追いつめられれば保身を図りたくもなるだろう。
‘人’が‘人’のままでいられなくなる幻想も、今さらどんなものか。
その幻想のために、これまで散々な目に遭ってきただろうに。
伊藤整の今日的な価値というのは、幻想に流れそうになる弱さを周到に抑えながら、文学として成り立っている点にあるのだと思う。
政治と文学という問題に関連してあげるなら、少し長いが次の詩だろうか。
2連目には、無遠慮さと細やかな情とが同居した、伊藤らしい表現が見られる。
雄鶏が啼きやんで羽搏きをする。
七月の緑とアカシアの白い花をつけた道を
行商の洋傘が下りて来るでもなく
村はただ忘れられて眠ってゐる。
砂丘を越えた所では 海がのつたりと静まり
魚等も人気ない岩陰を出入りするだけだ。
喧嘩の強い青年たちはみな街へ行つて、
髪の毛を長くし ナツパ服に油を滲ませ
大建築にたかる虱のように
女等の胸を悪くしてゐる。
意気地のない向ひの総領息子だけが
母親のいとしいばかりに
畑でピカピカ鋤を光らしてゐるのだ。
そして巴旦杏みたいな少女たちは
思ふことも言はぬうちに売られて行つて
何処かの売春窟を出て来る頃は
紙のやうに魂がなくなり、
行き倒れて慈恵院で死んでしまふ。
考へて甘い故郷なんか嘘だ。
頼り合ふには誰も彼も疲れ果てゝゐる。
私なんか子供みたいな日向の老人を相手に
何時来るかも解らぬ世のことを語つたりしてゐるが
明日にでも売つた家は空けねばならないから
見も知らぬ街で わびしい人の二階を借り
たつた一つの若さを せつせと摺りへらして働くのはいゝとしても
それで父が心にかけた弟たちを
暖くし 飢ゑさせずに行ける見込もつかないのだ。
あゝ何かしら のしかゝる灰色の怪物があつて
私たちを田園故郷から追ひ
遂には生きて行けない世の果てまで追ひつめるのだ。
(「田園故郷を失ふ」『冬夜』所収)
伊藤整は、政治からの文学の自律にこだわる方向を選んだ。(それは、多喜二的なものに脅かされ続ける事につながった。)自分のこの詩について、次のように説明している。
「私は、この詩法の方向へもう一歩行けば、プロレタリア詩の形になるのを感じた。そしてそうなりそうな叙述を辛くも叙情の衣で包んで引きとめたのを知った。そして私は、こんな題材に引っかかったら、詩を書けなくなると思った。」
(『若い詩人の肖像』)
「叙情の衣」で包んでいるというものの、「考へて甘い故郷なんか嘘だ」と言い切るあたり、伊藤整は甘くないのだ。田口タキも伊藤の幼友達である娘も、彼女らの故郷で、私娼として売られた。
現代人が地縁血縁を離れ、根無し草的である事を、色んな問題の根源であるかのように言いたがる人々がいる。
しかし、「考へて甘い故郷なんか」、それこそ幻想だと思う。
しかし小林が、小作地の争議を応援するという、銀行員としての地位を危うくする行動をしていた事は、当時の伊藤は知らなかったという。また、小林が「売笑の巷にいる女性」(田口タキ)に近づいてそれを救おうとしたが、解決できずに苦しんでいたことも、何も知らなかったらしい。
それで伊藤は、「小林はプロレタリア文学の潮に乗ろうとしているのだ、と彼の動きを文学的野心としてのみ考えていた」、と書いている。(『若い詩人の肖像』)
だが、小林を実際運動にまで駆り立てたのは、「文学的野心」だけではなく、「魂」の問題だったと、後になって伊藤は気付いたわけである。
「小林は社会的怨恨の感情というものを深く心の中に持って育った魂であったのだろう。」
(『若い詩人の肖像』)
伊藤整が1歳の頃(明治39年)、その一家は小樽近郊にある塩谷村に移った。村民の多くは貧しく、米も麦もなくて蕎麦かきで食事をするような友人の家の生活を見て、伊藤は育っている。ただ、小林の「少年時代から叔父のパン工場で働きながら通学したという経歴」と、伊藤自身の境遇とは縁遠いものだった。
「要するに私は、軍人恩給を持つ村役場吏員の子であった。私の父は常に多少でもその人たちを助けてやる立場にいた。私は、あんな風でなくてよかったと思い、また自分は漁夫や農夫と違う、という小さな優越感を持って育った。」

『若い詩人の肖像』には、当時の小樽市内に私娼窟がいくつもあったことが書かれている。若い伊藤整は、面白半分にそれらの私娼窟を歩き回り、女たちとふざけたりしたという。
田口タキを救い出そうとした多喜二とは対照的な態度である。
「もし私が私娼にかかずらわり、その女性の中にちゃんとした人間を見出すことがあったとしても、私は小林のようにその女性の救済に身を入れることはできなかった。」
伊藤整の多喜二に対するコンプレックスが最大限に膨れあがるのは、伊藤が実際運動に関わらなかったという事に加えて、人間性の問題が意識された時なのだろう。
遠藤周作はこう言っている。
「我々の人生には、その人の純粋さを考えれば、自分の賤しさに心が痛むというような誰かに時としてめぐりあうことがある。」(『イエスの生涯』)
純な人だったらしい、小林多喜二。多喜二が借金してまで田口タキを身請けしたのは、竹内結子風の美人であったタキに惚れたから、といった単純なことだけではなかったように思う。
多喜二がタキに宛てた手紙には、こんなことが書かれていた。
「どこに「自分のようなものなんか…」と云う必要がある。そんな事は絶対にないのだ。いいかい。」
(小林多喜二書簡 1927年2月 田口瀧子宛)
多喜二は、タキが自分を卑下するのを止めてもらいたかったという事。身請けして、彼女を従属させたいのではない。私娼の境遇から解放し、次には人間としての解放を考えていた。

しかし、私は人のコンプレックスをあおりたくはない。
他人の為にどこまで自分の身を削れるか。
中野重治は、獄から出るにあたって共産党を捨てた。戦前の警察という密室の中で本当のところは知りようもないと思うが、多喜二の頭には、‘転向’という事が全くよぎらなかったのだろうか。
イエス・キリストは‘人’ではないのかもしれないが、小説家は‘人’だから、追いつめられれば保身を図りたくもなるだろう。
‘人’が‘人’のままでいられなくなる幻想も、今さらどんなものか。
その幻想のために、これまで散々な目に遭ってきただろうに。
伊藤整の今日的な価値というのは、幻想に流れそうになる弱さを周到に抑えながら、文学として成り立っている点にあるのだと思う。
政治と文学という問題に関連してあげるなら、少し長いが次の詩だろうか。
2連目には、無遠慮さと細やかな情とが同居した、伊藤らしい表現が見られる。
雄鶏が啼きやんで羽搏きをする。
七月の緑とアカシアの白い花をつけた道を
行商の洋傘が下りて来るでもなく
村はただ忘れられて眠ってゐる。
砂丘を越えた所では 海がのつたりと静まり
魚等も人気ない岩陰を出入りするだけだ。
喧嘩の強い青年たちはみな街へ行つて、
髪の毛を長くし ナツパ服に油を滲ませ
大建築にたかる虱のように
女等の胸を悪くしてゐる。
意気地のない向ひの総領息子だけが
母親のいとしいばかりに
畑でピカピカ鋤を光らしてゐるのだ。
そして巴旦杏みたいな少女たちは
思ふことも言はぬうちに売られて行つて
何処かの売春窟を出て来る頃は
紙のやうに魂がなくなり、
行き倒れて慈恵院で死んでしまふ。
考へて甘い故郷なんか嘘だ。
頼り合ふには誰も彼も疲れ果てゝゐる。
私なんか子供みたいな日向の老人を相手に
何時来るかも解らぬ世のことを語つたりしてゐるが
明日にでも売つた家は空けねばならないから
見も知らぬ街で わびしい人の二階を借り
たつた一つの若さを せつせと摺りへらして働くのはいゝとしても
それで父が心にかけた弟たちを
暖くし 飢ゑさせずに行ける見込もつかないのだ。
あゝ何かしら のしかゝる灰色の怪物があつて
私たちを田園故郷から追ひ
遂には生きて行けない世の果てまで追ひつめるのだ。
(「田園故郷を失ふ」『冬夜』所収)
伊藤整は、政治からの文学の自律にこだわる方向を選んだ。(それは、多喜二的なものに脅かされ続ける事につながった。)自分のこの詩について、次のように説明している。
「私は、この詩法の方向へもう一歩行けば、プロレタリア詩の形になるのを感じた。そしてそうなりそうな叙述を辛くも叙情の衣で包んで引きとめたのを知った。そして私は、こんな題材に引っかかったら、詩を書けなくなると思った。」
(『若い詩人の肖像』)
「叙情の衣」で包んでいるというものの、「考へて甘い故郷なんか嘘だ」と言い切るあたり、伊藤整は甘くないのだ。田口タキも伊藤の幼友達である娘も、彼女らの故郷で、私娼として売られた。
現代人が地縁血縁を離れ、根無し草的である事を、色んな問題の根源であるかのように言いたがる人々がいる。
しかし、「考へて甘い故郷なんか」、それこそ幻想だと思う。