アンチ-ロマンチシズムと文学との幸福な共存を謀ります。当面、「炭鉱のカナリア」になる決意をしました。第二次安倍政権の発足以来、国民は墨を塗られるだろうと予測していましたが、嫌な予感が現実になりつつあります。日本人の心性や「日本国憲法」の問題などを取り上げながら、自分の明日は自分で決めることの大切さを、訴えていきたいと思います。
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

先日、居酒屋で夕食をとったとき、ライム風味の酎ハイを飲んだ。
その酎ハイがどうも変で、アルコールが入ってないのではないか、と思われる代物だった。飲んでいるうちに酔ってきたので、焼酎は確かに入っていたのだと分かった。ただ、何というか、アルコールの味がしないのだった。
メニューの表紙にも、綴りの違う英単語がデカデカと印刷されていて、店全体も何とも変であった。

盆栽convert

それで私は、小樽の或るレストランでの出来事を思い出した。
壁際のテーブルで食事をしていると、店員が別の家族連れを、私の隣のテーブルに導いた。ホールはとても広く、他のほとんどのテーブルが空いているにもかかわらず。
私は何でだ?と思ったが、私のテーブルにくっ付くようにして据えてある席に案内された家族の側も、いくぶん怪訝そうな顔をしていた。遠くから見ると、その親子4人連れと私たち夫婦は、1つのグループみたいに見えただろう。ともかく、2つのグループは、あからさまに席を変えてくれとも言えず、お互いに遠慮しながら大人しく食事をしていた。
親子連れのうち中年の母親は、3歳くらいの男の子に何か促すようなことを言う以外は、黙々と食べている。その男の子は、食べることより遊ぶことの方に気を引かれている様子だった。
そのうち、サラリーマン風の父親が、明るいはっきりした声で「うん、美味しい」と言った。

枝

少しの間、皆、黙っていた。バイキング形式の大皿から取ってきた料理は、どれもこれも、美味しいとはとても言えないものだった。辛すぎるとか、甘すぎるとか、脂っこいとか、そういう事ではなくて、どう言っていいか分からない類いのマズさだった。それで、その父親だけが、屈託のなさそうな勇ましいような様子で、パクパク食べているのが、一群から浮いた形になっていた。
その時、小学校4,5年生くらいの娘が、「味がない」とポツリと言ったのである。私はハッとした。まさにそのとおりだった。肉も、魚も、野菜も、その素材の味が全くと言っていい程なかった。父親はというと、娘のつぶやきが聞こえなかったという風に、相変わらず快活そうに、そのマズい料理をパクついている。おそらく、その父親は子供たちに手本を示すべく、快活さを自分に命じていたのだろう。一家の長として普段から、食べ物の事で文句を言ってはいけない、という風に子供に教育しているのではないか。それをよく知っている妻も、内心の不満を表に出さないようにしているらしかった。私は、その父親は良い親だと思った。そして、それ以上に、小学生の娘の、理解力・表現力に感心したのである。
その店を出てから、夫も、「あれだけ不味く作るのは難しいのではないか」と首をかしげ、それにしても「味がない」とは的確だと言った。私は、自分が日常的に食材を扱っている経験から、「冷凍と解凍を繰り返したりすると、衛生上は問題なくても、食材の味は格段に落ちるから」というような意見を言ってみた。要するに、あの不味さは、料理法の問題ではなく、良くない食材を使っている事に原因があると思う。

札幌の青空1

そして先日、焼酎の“味がない”酎ハイを飲みながら、小樽での少女の事を思い出した。私は、その少女と同年代だった頃の、子供時代の自分を、見直してやるべきかな、と思った。
子供の頃の私は、恒星の死に惹かれたり、ノストラダムスの大予言が気になって仕方がなかったりした。が、果たして“世界の終わり”を期待していたか? 密かに終末を待望していたと解釈するのは、大人になった自分の“荒廃”ではないか? 確かに、子供の私は、未来の破局にオノノイていたのだけれど、それは歓びからだとも言えるし、悲しみからだとも、畏れからだとも、どのようにでも言える性質の事だろう。
遠藤周作も短篇「雲仙」のなかで、こう書いている。
小説を書きだして十年彼はすべての人間の行為の中にエゴイズムや虚栄心などを見つけようとする近代文学が段々、嫌いになってきた」。エゴや虚栄心を除いた後の「残余の動機こそ、人間にとって、大切なものではないのか」と。
私は、子供なりに、恒星の生き死になどに心を惹かれながら、それを思うことで、生きようとしていた。そういう心の動きについて、性急に断罪せず、よく考えてみるべきなのだろう。私は、生きようとしていたのだから。


小樽では、食べ物の恨みは残ったが、街歩きは面白かった。小樽文学館では、小林多喜二のデスマスクに触れて、その顔の小ささに驚いたり、伊藤整の‘回転する資料棚’をギイギイまわしてみたりした。
やっと伊藤整だ。この文章のタイトルは、「伊藤整の青春(1)」だった。

黒雲1


伊藤整は、大正15年に最初の詩集『雪明りの路』を自費出版した。出来上がった詩集を百人程の詩人たちに贈った後で伊藤は、突然、自分の詩集がどういう風に詩人たちに読まれているかを想像し、後悔の念に襲われている。

「私は、ああっ、と叫び出したいような居たたまらぬ恥ずかしさを感じた。今それを感じたって、どうにも取り返しようのないことであった。消えてなくなれ、というような言葉が自分の口から出そうなのを、私は我慢した。」
(『若い詩人の肖像』昭和31年)

伊藤整は、一見優雅そうに見えて、このように実はジタバタジタバタしている。「消えてなくなれ」って…。その必死の抵抗ぶりが、面白い。



スポンサーサイト

[2011/08/21 00:22] | 伊藤整をめぐる冒険
[tag] 子供の知性 終末思想 原理主義
トラックバック:(0) |
伊藤整(1905-1969)を鳥に喩えるなら白鳥だと、私はずっと思っていた。
文学作品の受け止め方が年齢とともに変わる、というのは実にありふれた事だが、自分が40歳を過ぎてよく見ると、伊藤整という作家はなんだか、白鳥というよりも『白鳥の湖』のオデット/オディールを懸命に踊っているプリマのようではないか。

白鳥の湖

伊藤が21歳のときに出した最初の詩集『雪明りの路』は、“口語文の自由詩形式”に則って書かれたものである。伊藤自身が30年後に顧みているように、やや「幼稚」であるように感じられる面もあるが、それは「易しい言葉を並べる方法を取った」ことに原因の一つがあるのだろう。

「私は文語体が苦手で、象徴的表現を操れなかった。ただ私は自由詩の粗大さを嫌って、できるだけ圧縮した、無駄のない表現で、散文そのものにならない強さを得ようとして努力した。」
(『若い詩人の肖像』 6「若い詩人の肖像」)

『若い詩人の肖像』には、詩集の出版や発送や批評等のことで、伊藤が心を掻き乱されている様が詳細に書かれている。
詩の表現を自分の心の本当の表現だと信じていた」伊藤には、草野心平の「冬眠」は我慢がならなかったらしい。
「冬眠」の本文は ● という、黒丸1つである。それを、「全然誤魔化しかでたらめで人を驚かすような詩」だと、切って捨てている。
伊藤は、自分が書いた詩の価値を何とか見極めようと神経を尖らせる日々において、批評家としての資質を磨いていったのだろう。
これから世に出そうとしている詩がすでに「流行遅れになりかかって」いることを気にしつつ、「公平に言ってやっぱり自分の詩は悪くない」と思う。
その一方で、丸山薫の「病める庭園」(やめるにわ)を読んで、丸山の方が自分よりも詩が上手いと思い、不安になったりしている。

「丸山薫、こいつだけはオレの予定を狂わせた、と考え、きっとこの男は、痩せて、眼のぎょろぎょろした交際しにくい青年だろうと想像した。」

丸山の「病める庭園」は、百田宗治主宰の同人雑誌『椎の木』創刊号に、伊藤の「馬」と共に掲載された。伊藤が『若い詩人の肖像』に引いているのは、次のような詩だ。

静かな午さがりの庭さきに
父は肥つて風船玉の様に籐椅子に乗つかり
母は半ば老いてその傍に毛糸をば編む
いま春のぎようぎようしも来て啼かない
此の富裕に病んだ懶い風景を
では誰れがさつきから泣かすのだ
オトウサンヲキリコロセ
オカアサンヲキリコロセ

それはつき山の奥に咲いてゐる
黄ろい薔薇の葩びらをむしりとり
又しても泣き濡れて叫ぶ
此処に見えない憂鬱の顫へごゑであつた
オトウサンナンカキリコロセ!
オカアサンナンカキリコロセ!
ミンナキリコロセ!

(丸山薫,「病める庭園」)

伊藤はこの詩に、「題のない詩」や「さびしい来歴」で萩原朔太郎が創始したイメージが使われている、と指摘している。
「鳥の啼き声の擬人法だって、朔太郎の「とうてくう、とうるもう、とうるもう」というのがある。しかし真昼の空しい空虚感とよしきりの啼き声を「オトウサンヲキリコロセ」という言葉で示した効果は鋭かった。私はこの詩を作ったのが自分でないことが残念であった。」


馬の銅像

しかし、伊藤整の「馬」も、決して「悪くない」、素直で強い歌である。

馬よ いくら首を振らうとも
鈍重な車は離れないのだ。
馬よ さうして俯向いてゐても
もう考える事にも飽いたゞらう。
今朝も泥道は長々と続いて
せなかのこはい毛はさか立ち
馬具は古び 馬車追は貧しい。
もう諦めたことも忘れた頃だが
この泥道をたどる時は
ずつと昔の悲しみが少しは心を刺すらしい。
でも峠を登りつめて
青い朝風が谷から吹き上げると、
おまへは昔の
みやびた足なみを思ひ出してか
坂を下るにも何かたのしさうではないか。

(『雪明りの路』)

しかし、考えすぎの伊藤整は、丸山薫が発揮している“直感”によって傷つくのを、怖がっているのかもしれない。

詩の表現以外の言語表現を、私は真実のものと見ていなかった」ということと、「詩の中の感情や、詩の中の判断を日常生活の中に露出すれば、人を傷つけ、自分も傷ついて、この世は住み難くなることを、私は本能的に知っていた。」ということ。(『若い詩人の肖像』 1「海の見える町」)

この両方にまたがってできあがったのが『雪明りの路』なのだろう。


FC2blog テーマ:詩・ことば - ジャンル:小説・文学

[2011/08/29 19:30] | 伊藤整をめぐる冒険
[tag] 文学史 詩論 伊藤整 若い詩人の肖像 百田宗治 草野心平 丸山薫
トラックバック:(0) |
伊藤整は、大正14年20歳の時に、新設の小樽市中学校教諭となった。そこに、熊本の県立第一高等女学校長から新校長として転任してきたのが、吉田惟孝であった。

この広島高等師範卒の「ダルトン・プラン」の理論家は、生徒の家を毎日2,3軒ずつ訪問してまわった。
当時、家庭訪問というのは小学校の教師のすることだったらしい。中学校のまして校長が生徒の家庭を訪問するというのは、聞いたことがないと伊藤は書いている。

吉田校長は、昼の弁当を教師たちが毎日一緒のテーブルについて食べるよう取り計らい、その際、自分が続けている家庭訪問の結果を教師たちに話した。校長は、生徒一人一人の家庭の様子や、土地の人々の気風や特色を語り、教師たちは「完全にこの校長に支配されてしまったことを感じた」。

「この校長は、教育の方法があることを信じ、他人の子を教育してゆく自信を持っている、と私は感じた。教育ということを自信をもってやる人間のいることが私には意外だった。」(『若い詩人の肖像』 4「職業の中で」)

中島公園セピア

伊藤整が中学校の勤務と並行して、最初の詩集『雪明りの路』の校正と大学受験のための勉強を進めていた頃、校長の吉田惟孝は、長年抱いていた「ダルトン・プラン」の実践に取りかかった。

その教育理論は、現在でいうところの、習熟度別クラス編成・授業、に相当するようだ。
具体的には、50人ずつ2組に分けていた2年生を、成績別に30人ずつの3組に分ける。そして、成績の最も低いクラスには教科書を普通よりも緩慢に繰り返し教え、真ん中のクラスには普通の速度で教え、最も成績のよいクラスには教科書以外の内容も教える、というものだった。

「私は、以前のようにどこかに分からない子がおり、どこかに退屈している子がいる、といういやな気持ちから抜け出すことが出来た。」 (『若い詩人の肖像』)

伊藤は、「ダルトン・プラン」の効果をそのように認めている。
しかし、その試みのせいで「教師の労働は加重された」。
教師は3分の1ずつ持ち時間が増え、当時の一般的な週に18時間から、週に23時間も授業しなければならなくなった。
時間数だけではない。
出来ないクラスでの、緩慢な、繰り返しの説明は苦労であった。また出来るクラスでの早い進め方や補助の教科書を使うのも苦労であった。

中島公園

何時の時代にも同じ問題がある。習熟度別クラス編成については、効果と同時に色々な弊害もあろう。今、そこには立ち入れない。
さしあたって私が言いたい事は、教育効果と効率の問題。要は財政・お金の問題を、日本の公教育はどうにも出来なかったという事だ。

最近は少子化の為もあって、小学校では1クラスの人数が減少傾向にあるようだ。しかし、高校となると別で、1クラスに40人かそれ以上もの生徒を詰め込んでいる。教師の目が行き届くはずもないが、クラス数を増やして教師を多く雇う事は、財政上の問題で出来ない。財政を遣繰りしようと、本気になっていたようにも見えない。

黒雲ソラリ

私は20代の頃、ある県の新任教員研修で、お偉方が口にした不思議な言葉を聞いた。

「私は、育ちの良い先生に、生徒達の教育に当たってもらいたいんです。育ちの良い先生というのは、生徒達の悩みを受け止めて、自分の事のようにその解決にあたる事が出来ます。」

新任研修だから、採用の辞令は既に出ている。‘育ちの良くない’新人教師が混じっていた場合、ではどうすればいいのか?
採用選考で「育ちの良さ」を探る事は、人権上の問題などから難しいはずだ。もっと言えば、「育ち」というのは経済状態や家族構成で決まるような単純な事ではないから、探りたくても出来ないというのが実際だろう。
そのお偉方は、よほど歯痒かったと思われる。彼の奇っ怪な主張は、何度も未練がましく繰り返された。私は、その度に、自分が小さくなるような気がした。

そのお偉方の持論は、たぶんこうだ。
「育ちの良い」人間は、精神的・物理的ストレスに耐性を持ち、家族などからのストレスへの支援も得やすい。そして、そういう教師個人の‘自前の資産’に頼らなければ、教育現場の困難には対処できない。

しかし、「育ちの良い」ということは‘身分’みたいなものだ。育てられる側の子供には、選ぶ事も変える事も難しい。
そういう事柄を敢えて取りあげ、「育ちの良さ」による教員の力量を期待するという、公教育のお粗末さは、今の日本の停滞とつながっている。
教員養成課程とは、そういう‘資産’を持ち合わせない者に、力量を与えるためのものじゃなかったのか。


FC2blog テーマ:教育問題について考える - ジャンル:学校・教育

[2011/09/11 00:30] | 伊藤整をめぐる冒険
[tag] 能力別クラス 授業時間数 効率
トラックバック:(0) |


kenkenkids
人としての本質は、育ちの良さでは測れませんよね。
教育者ともなれば、求められるの見識の深さと振り幅広さのように感じます。
それにはやはり、労して得たものが大きいのではないかと。

リンクの件、有難うございました。
こちらも貼らせて頂きましたので、今後とも宜しくお願い致します。

Re: kenkenkidsさんへ
小谷予志銘
”人としての本質は、育ちの良さでは測れませんよね。”
そう思います。「育ちの悪い」人間だからこそ逆に、という事もあるでしょうし。
そもそも「育ちの良い」の定義もあいまい。

だから、「育ちの良い」という事をワザワザ持ち出す人の考えが、私にはどうも分からないのです。
某県のお偉方だけではなく、大江健三郎も「育ち」のいい人間が好きみたいで(?)、読んでいるとよく出てくるのが前から気になってます。ノーベル賞作家への疑いが、ふと芽生えた瞬間でした。
彼が何を言いたいのか、いつか再読して考えてみたいですが、大江健三郎の小説、長い・・・・。



コメント:を閉じる▲
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。