はじめまして。
小谷予志銘といいます。
「銘」は「金属板などに刻みつけた名」というほどの意味ですので、その名を願いと一緒に広げていく、といったニュアンスの名前。言ってみれば、名前についての名前、メタフィクションならぬメタ名前を持つ者です。

私は、とても個人的な小さな小さな所で、40年近くも“闘争”を続けてきたのですが、最近それが終わりました。と言っても、勝ったわけでも負けたわけでもありません。長い時間を費やして闘争からの圏外脱出を遂げた、というのが実際のところです。
そうして我が身を振り返ってみると、そこには我ながら受け入れがたい程に、険しくて荒廃した自分がいました。また、辛抱強く私を支えてくれた大切な人を、傷つけ深く疲労させてしまいました。
どのように間違ったのだろう? とずいぶん考えました。
いま感じていることですが、どうやら私も私の周囲の人も、これまで本当には知らなかった“軽蔑する”ということの意味が、分かってしまったようなのです。自他に対する軽蔑。
軽蔑することなど、本当に知りたくはありませんでした。残念でなりません。
このブログでは、私が終えた“闘争”について並べ立てることはしません。
そんなことをすれば、私もこのブログを読む人も、ひどく損なわれてしまうからです。むろん、ひたすら無垢で脳天気であるのが良いとも思いません。
しかし、暗く醜い感情を抱くことは簡単でも、それを乗り越えて再び前向きになることは、口で言うほど簡単ではない。その現実を、にがくにがく噛み締めています。
今の私が願っているのは、飲んでしまった毒を中和することと言えるでしょうか。
私の手元に遠藤周作の『牧歌』があります。昭和58年第10刷の新潮文庫で、ページの中の方まで茶色に変色しています。(現在は古書しか買えないようです。)
この本は私が大学生だった時に買ったものですが、文学部の国文科の学生だったにもかかわらず、当時の私には遠藤の書いていることがサッパリ分かりませんでした。特に、「フランスにおける異国の学生たち」で、「ぼく」が何故「フォンスの井戸」を覗き込むのかが。
いかにも幼稚でした。私は、「ぼく」が非道徳的かつ鈍感であるように思い、受け入れられなかったのですから。
今になって思うのは、当時の私が「フォンスの井戸」の恐ろしいイメージを回避せず、淡々と受け止めることができるような人間だったなら、かえって今の精神的荒廃は避けられたのではないか、ということです。
逆説的です。「ぼく」は、まるで科学者が望遠鏡でも覗くような探求心を持って、「フォンスの井戸」を覗くのですが、そのような人間を、ついこの間まで私は理解できませんでした。
勉強し直すしかありません。
このブログがどこに行くのか、私自身よくわかりません。
他人のロマンチシズムによって、さんざん踊らされてきた私は、イズムの支配力に辟易しており、あらゆるイズムと無関係でありたいとさえ思います。しかしそれは、実際には無理な望みであって、なかでも巧緻なロマンチシズムを警戒し続けていると、弱い私は次第に、孤独に耐えられなくなってきます。

小谷予志銘といいます。
「銘」は「金属板などに刻みつけた名」というほどの意味ですので、その名を願いと一緒に広げていく、といったニュアンスの名前。言ってみれば、名前についての名前、メタフィクションならぬメタ名前を持つ者です。

私は、とても個人的な小さな小さな所で、40年近くも“闘争”を続けてきたのですが、最近それが終わりました。と言っても、勝ったわけでも負けたわけでもありません。長い時間を費やして闘争からの圏外脱出を遂げた、というのが実際のところです。
そうして我が身を振り返ってみると、そこには我ながら受け入れがたい程に、険しくて荒廃した自分がいました。また、辛抱強く私を支えてくれた大切な人を、傷つけ深く疲労させてしまいました。
どのように間違ったのだろう? とずいぶん考えました。
いま感じていることですが、どうやら私も私の周囲の人も、これまで本当には知らなかった“軽蔑する”ということの意味が、分かってしまったようなのです。自他に対する軽蔑。
軽蔑することなど、本当に知りたくはありませんでした。残念でなりません。
このブログでは、私が終えた“闘争”について並べ立てることはしません。
そんなことをすれば、私もこのブログを読む人も、ひどく損なわれてしまうからです。むろん、ひたすら無垢で脳天気であるのが良いとも思いません。
しかし、暗く醜い感情を抱くことは簡単でも、それを乗り越えて再び前向きになることは、口で言うほど簡単ではない。その現実を、にがくにがく噛み締めています。
今の私が願っているのは、飲んでしまった毒を中和することと言えるでしょうか。
私の手元に遠藤周作の『牧歌』があります。昭和58年第10刷の新潮文庫で、ページの中の方まで茶色に変色しています。(現在は古書しか買えないようです。)
この本は私が大学生だった時に買ったものですが、文学部の国文科の学生だったにもかかわらず、当時の私には遠藤の書いていることがサッパリ分かりませんでした。特に、「フランスにおける異国の学生たち」で、「ぼく」が何故「フォンスの井戸」を覗き込むのかが。
いかにも幼稚でした。私は、「ぼく」が非道徳的かつ鈍感であるように思い、受け入れられなかったのですから。
今になって思うのは、当時の私が「フォンスの井戸」の恐ろしいイメージを回避せず、淡々と受け止めることができるような人間だったなら、かえって今の精神的荒廃は避けられたのではないか、ということです。
逆説的です。「ぼく」は、まるで科学者が望遠鏡でも覗くような探求心を持って、「フォンスの井戸」を覗くのですが、そのような人間を、ついこの間まで私は理解できませんでした。
勉強し直すしかありません。
このブログがどこに行くのか、私自身よくわかりません。
他人のロマンチシズムによって、さんざん踊らされてきた私は、イズムの支配力に辟易しており、あらゆるイズムと無関係でありたいとさえ思います。しかしそれは、実際には無理な望みであって、なかでも巧緻なロマンチシズムを警戒し続けていると、弱い私は次第に、孤独に耐えられなくなってきます。

スポンサーサイト
[tag] 遠藤周作 フォンスの井戸 イズム
トラックバック:(0) |
管理人のみ閲覧できます
-
管理人のみ閲覧できます
-
Re: Yさんへ
小谷予志銘 コメントありがとうございました。
メールアドレス宛に、返信送っておきました。
やけなかまじし3 久しぶりにコメントいたします
誠に勝手なお願いながら、小谷さんに下のブログ記事に対するコメントを頂きたく存じます。
http://yakenakamajishi.blog90.fc2.com/blog-entry-218.html
お忙しいところ、恐れ入ります
本年もよろしくお願い申し上げます
Re: やけなかまじしさんへ
小谷予志銘 やけなかまじしさんへ
こちらこそ、本年もよろしくお願いします。
http://yakenakamajishi.blog90.fc2.com/?no=218
にコメント返ししておきました。
-
管理人のみ閲覧できます
-
Re: Yさんへ
小谷予志銘 コメントありがとうございました。
メールアドレス宛に、返信送っておきました。
やけなかまじし3 久しぶりにコメントいたします
誠に勝手なお願いながら、小谷さんに下のブログ記事に対するコメントを頂きたく存じます。
http://yakenakamajishi.blog90.fc2.com/blog-entry-218.html
お忙しいところ、恐れ入ります
本年もよろしくお願い申し上げます
Re: やけなかまじしさんへ
小谷予志銘 やけなかまじしさんへ
こちらこそ、本年もよろしくお願いします。
http://yakenakamajishi.blog90.fc2.com/?no=218
にコメント返ししておきました。
| ホーム |