アンチ-ロマンチシズムと文学との幸福な共存を謀ります。当面、「炭鉱のカナリア」になる決意をしました。第二次安倍政権の発足以来、国民は墨を塗られるだろうと予測していましたが、嫌な予感が現実になりつつあります。日本人の心性や「日本国憲法」の問題などを取り上げながら、自分の明日は自分で決めることの大切さを、訴えていきたいと思います。
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

『民意のつくられかた』(岩波書店)や『「心」と「国策」の内幕』(ちくま文庫)などの著者、斎藤貴男。
民意のつくられかた_convert_20140303154515

今回は、その斎藤氏の『安倍改憲政権の正体』(2013年6月,岩波ブックレットNo.871)から。
安倍改憲政権の正体_convert_20140303154614

目次
一 安倍政権をどう見るか
二 アベノミクス、TPP参加が意味するもの
三 衛星プチ帝国の臣民を育てるために -教育は誰のものか-
四 改憲への意欲
五 恥ずかしい国へ

東南アジアやアフリカで、道路や鉄道、港湾、その他あらゆるインフラを建設し、資材を供給し、完成後の運用まで引き受ければ、企業は莫大な利益をあげられる。
かつて植民地帝国を築いた欧米先進国は、現在も「インフラの海外輸出」をやっているし、中国も派手にそれを進めて、現地の顰蹙を買ったりしている。
日本も国家戦略として、2010年6月、時の民主党政権が、「新成長戦略」の中でインフラ輸出を強力に打ち出している。
そういう独自でも何でもないアイディアを今、大企業偏重の安倍晋三は、将来のリスクも顧みず推し進めている。

「パッケージ型インフラ海外展開」という国策は、斎藤氏の考えでは、大きく二通りの危機を招くという。第一に、「だから原発の再稼働だ」という流れが形成されること。

自国の技術を信用できず、「危ないから」と既存の原発を停止し続けている国の原発を、外国は買ってくれません。現物が動いていないのでは、相手国の要人を接待のために招待する口実も作れない。かくて日本列島は国を挙げて原発のショールームとされるのであり、この国で暮らしている人間はそれだけで、いつの間にか株式会社オールジャパンの命知らずのカミカゼ・セールスパーソンに仕立て上げられてしまいかねないのです。
(『安倍改憲政権の正体』p51-52)

第二の問題は、日本人と「テロ」を関連づけ、邪魔な憲法9条を壊そうとする動きにつながること。

パッケージ型インフラ海外展開が推進されていけば、それに関わる日本国民が海外でトラブルに巻き込まれる可能性は飛躍的に高まります。ましてや安倍政権のように、ここに資源の権益確保を絡ませれば、二〇一三年一月にアルジェリア・イナメナス郊外の天然ガスプラントが武装グループに襲撃され、一〇人の日本人を含む約四〇人もの関係者が殺害された事件のようなテロリズムに直面するケースさえ、珍しくなくなっていくでしょう。
(『安倍改憲政権の正体』p52)

要するに、「日揮」のような企業のために、安倍自民は、自衛隊(国防軍)をアフリカに送り込みたいのだ。そのためには、9条が邪魔。
日揮の事件を受け、海外での緊急時に自衛隊による在留邦人の陸上輸送を可能とする改正自衛隊法が成立した(2013.11.15)。今後、安倍政権は邦人救出のために武器も使えるよう法改正なり解釈改憲なりを目指すはずで、いっそ9条を撤廃してしまえば、彼らは何でも出来るようになる。

安倍の賛同者達は、対中国の問題ばかり見ているのかもしれないが、いつかは民主化され崩壊さえするかもしれない中国共産党より、イスラム武装勢力の方が余程厄介だと、私は心配でならない。
中国では最近、雲南省での無差別切りつけ事件等が起こっているが、国内の不満が高まり政権崩壊に至れば、共産党の幹部なんて国外に逃亡してアッサリ終わりだろう。(混乱はあるだろうが、敗戦時の日本人が全体主義者たちを排除できてホッとしたように、中国人は民主的な政権を喜んで受け入れるだろう。)
しかし、イスラム武装勢力は、そう簡単には引いてくれない。一神教を背景にして、過激な行動と信念に命をかけている勢力である。「我こそが未完の革命を成し遂げる」というイスラム過激派の声は絶える事がないという(仏戦略研究財団副所長ジャンフランソワ・ダギュザン氏)。
そういう武装勢力が跋扈するアフリカに、日本の「軍隊」が足を踏み入れることを、日本人はなんと考えるのだろう?


靖国にクリスチャンまで合祀して何とも思わない様な、「一神教」に理解の欠片もない暗愚の政治家がやらかすことだ。さぞかし、日本に大きな危機を招いてくれるだろう。
甘い見通しでのこのこ出かけて、自衛隊が現地人を殺傷するようなことが起これば、日本人が過激派の憎悪の的になる可能性だって、安倍の下でならあり得る。
今後もし本格的に日本人の「右翼化」が進んでいけば、日本人は現人神崇拝の「異教徒」だ、という従来とは違った「日本人像」で見られかねない。総理とその取り巻きの思慮分別のない発言が、瞬時に世界に伝播される時代だ。

今回(註-日揮の事件)は、施設にいた外国人技術者を一網打尽にしたものとみられ、特に日本人を狙ったものとは考えにくい。だが、イスラム過激派にとって日本人は、フランス人や米国人ほどではないにしても「邪教徒」であることに変わりはない。
(フランス研究情報センター主任研究員アラン・ロディエ氏,『朝日新聞』2013.1.18)

神の子池+雪2_convert_20140305165942

そのフランスがマリに軍事介入して、どんな泥沼にはまっているか。
日揮の事件当時の新聞記事などを引っ張り出して読んでいたのだが、これが骨折りである上に憂鬱な中身だ。
目を通すのに何日もかかってしまった。ε=(・o・*) フゥ

そもそも、日揮の事件の引き金になったのが、アルジェリアの隣国マリへの、フランス軍による空爆だったとされている。フランスはマリやアルジェリアの旧宗主国。マリとその周辺国には、フランス系住民も多く、金やウランなどの鉱物資源が豊富だから、西アフリカ一帯の治安の悪化はフランスの「国益」への脅威になる訳だ。そのマリでは、反政府勢力が北部全域を制圧し、無政府状態になっているところへ、複数のイスラム武装組織が相次いで入り込んでいる。そこを仏軍が空爆し、武装勢力側に数百人の死者が出るなど、戦闘が激化した。資料を継ぎ接ぎ、要約すると、こういうことになる。

アフリカ諸国とその資源を狙う先進国との間で起こる問題は、恐ろしく複雑だ。日中や日韓の問題も十分に複雑だが、それ以上だ。
そもそもアフリカ諸国では、政治不安が起こりやすい。アフリカの場合、政治不安は国境を容易に越えるから、関係する国の数も多くなる。マリの情勢不安はアルジェリアに飛び火する。
政治不安となれば、意見の対立なんて優しい状況ではなく、内戦にまで進む。イスラム過激派は、その内戦を巧みに利用する。
最も厄介なのは、アフリカの国民とイスラム武装組織は必ずしも敵ではない事。そこに先進各国の国益が絡む。
オセロの石が、白から黒へ一挙に変わるように、うっかりしているとパーツの意味が逆になっている。
どこの肩を持つのか、が非常に難しい。自衛隊はどの方向に銃口を向けるのだろう?イスラム武装組織のみを排除するのは、上の事情を考えれば不可能なのだ。
日中・日韓関係さえうまく処理できない暗愚の安倍政権には、これらの事情を理解することが、先ず難しいだろう。
彼らは、理解を補う想像力も持ち合わせていない。

日本企業の為にアフリカに「国防軍」を送り込んでも、邦人と日本企業を守ってサヨナラ、とはならない事、日本人はよく考えておく必要がある。
アフリカ人とイスラム勢力を刺激して収拾をつけられなかったら、例によって「○○は無かった」と言って済ませる訳にはいかないのだ。
誤解を恐れずに言えば、「無かった」と言って日本人が平穏な日常を過ごせているのは、相手が中韓だからかもしれない・・・。
東アジアの枠の中で「高が知れている」者同士でガス抜きをしている、としか私には見えない。
しかしアフリカは、東アジアの同類ではない。マリの反政府勢力「アザワド解放国民運動」の様なものは、日本でも韓国でもあり得ない。
リビアのカダフィ政権崩壊時にカダフィ政権側に立って戦った、「アザワド解放国民運動」が、高性能の武器を大量にマリに持ち帰ったことから、マリ政府軍が圧倒されてしまったのだが、さらにその「国民運動」を駆逐してしまう武装勢力など、大人しいアジア人とは根本的に違う・・・。
遊牧民のトゥアレグ族の動向を見ても、日本人の感覚から言って、アフリカは別世界だ。思考回路も体質も違う。

マリ政府は北部を勢力圏に置いていた遊牧民のトゥアレグ族を冷遇した。不満を募らせたトゥアレグ族はイスラム武装勢力に近づき、反政府闘争を勢いづけるための道具として過激なイスラム思想を利用した。北部で政府軍を瞬く間に撃退し、サハラ砂漠の一帯に無政府状態が生まれた。
(仏戦略研究財団副所長ジャンフランソワ・ダギュザン氏,『朝日新聞』2013.1.26)

その国の「支援」をしつつ日本企業が儲ける「Win-Win」のうまい話だ、と得意がっていたら、いつ日本への「好印象」が一変するか、計り知れないものがあると、ダギュザン氏の言葉は示している。
「まずは経済」と安倍流の軽い頭で関わろうとしているのだろうが、欧米の軍隊と連携する事態になれば、日本は否応なく「価値観」の中に引きずり込まれる。
フランス軍が介入するのが良いとは言わないが、少なくともフランスの場合は泥沼に陥っても「民主化」の「旗」を降ろす気はない。方や、日本国内を「非民主化」しようとしている日本は、どんな建前で銃口を向けるのだろう?
もはや有害な「建前」もない日本は、フランスより高潔だとでも、自負する気か?
日本は「ウチは経済だけです」といって、他国で武器を使う気だろうか???

アフリカのその国が、民主化を求めているのか?イスラムの宗教的価値を重んじる政治を目指しているのか?
その点一つとってみても、外国が判断し関与するのは、至難の業だ。
そして、その国自体が混乱の中にあるとしても、その国にも主権があり、国内で起こっていることをどう処理するか、決めるのはその国だ。

10年に及ぶ内戦を経験し、数千人がテロの犠牲になったアルジェリアは、欧米や日本の感覚とはまったく違う対応をするのが常だ。主権へのこだわりは尋常ではない。今回も英国やフランスは人質を救出するための特殊部隊の派遣を持ちかけたようだが、アルジェリア側が優先していたのはテロリストを壊滅することだった。国の権威を守ろうと強硬策にふみきり、人質の命は後回しにされた。
(仏戦略研究財団副所長ジャンフランソワ・ダギュザン氏,『朝日新聞』2013.1.26)

日本が人質を救えなかったのは、「特定秘密保護法」がなくて情報をもらえなかったからだろうか?
自衛隊がアルジェリアで武器を使えなかったからだろうか?
アフリカの事情は安倍自民が考えるより複雑で、「産官学」総動員で情報を共有する必要がある。秘密主義や武器依存では逆に、アフリカと日本の安定を壊すだろう。

よその国に入っていって資源などを利用する事は、どんなに相手国の利益を強調しても、本質的に相手から疎んじられる行動だ。
技術が無い国に技術を提供してあげているという気でいても、相手国は早晩、「自分たちの手で」と考え行動するようになる。
それが主権とか主体というものだ。相手側も主権を持っていて、いつか自立する。「支援」に「Win-Winの関係」などという卑しい発想を絡める者の性根は黙って見抜いており、離れていき、追い越しさえする。
「支援」相手に追い越されるのが不満な人間は、最初から相手の為などという「作り話」をせぬがよい。


日本の国内で、国民の主権を剥奪しようと目論んでいる政治家が、アフリカに対しては自立を喜ぶだろうか?
本性は、どこかで必ずあらわになるものだ。

応援よろしくお願いします。
↓↓
にほんブログ村 小説ブログ エッセイ・随筆へ

スポンサーサイト

[2014/03/05 17:08] | 憲法問題
トラックバック:(3) |
家族は、社会の自然かつ基礎的な単位として、尊重される。家族は、互いに助け合わなければならない。
(自民党「日本国憲法改正草案」第24条)

草案は、「個人」の尊重を「人」の尊重に変える一方で、「家族」という集団を「人」と同程度に尊重しています。憲法の窮極の価値は「個人」の尊重であるはずなのに、草案が尊重するのは、個性を失った「人」であり、集団である「家族」です。個の自立(自律)は徹底的に排除されています。
(『憲法は誰のもの?』伊藤真,岩波ブックレット,p41)

どうも自民党の代議士達というのは、「集団」の中に埋没するのが好きな人たちであり、そういう自分達の好みを全員が受け入れれば社会が良くなる、と安易に思っている様だ。
家族は、社会の極めて重要な存在ですが、昨今、家族の絆が薄くなってきていると言われています。
(「日本国憲法改正草案Q&A」,Q19の回答より/p16,PDFの22枚目)
それで、(日本の心を失った自己中な)国民に、(尊い伝統を取り戻したい)代議士が「家族は、互いに助け合わなければならない」と教えを垂れるのだそうだ。

確かに「」によって救われることもあるが、「絆」が人間を抑圧する時、「絆」の強要ほど恐ろしい行為はない。
家族は、互いに助け合わなければならない」と、憲法に書かれてしまえば、そうでなくても家族の頸木を自分から進んで首に掛けがちな日本人は、どうなってしまうか??
日本の「伝統」として、中国由来の「儒教」道徳も、日本人の心に深く浸透している・・・。家族・血族の絆を重視せよ、家族は「無条件に」尊重せよ、という脅迫的な声に屈している日本人は少なくない。
すでに十分に、地縁血縁に縛られすぎの日本人である。親の介護のためなら、転勤を断って退職し、無収入にさえなる人々もいる・・・。彼らは将来、年金減額か無年金になるだろう。
その上に憲法が書き換えられれば、日本人は、取り替えのきかない「個人」であることを、完全に諦めるしかなかろう。各人は、一度きりの「人生」を、「絆」の美名で放棄させられる。
そうやって「個人」を放棄し、家族のためなら満足だ、という外ヅラをしながらも、押さえ込んだ恨みは「江戸の敵を長崎で討つ」といった形で噴き出し、マスコミはまた愚かしく、「心の闇」だと首を傾げるのだろう。
しかし、飼い犬を殺処分された「子」が、保健所に連れて行った「親」ではなく、元官僚を襲ったのは、「江戸の敵を長崎で討」ったのだ。
「集団」の価値によって「個人」を押さえ込む社会は、そういう歪んだ形で反撃を受けるということを、知っておくべきだ。押さえ込み表面を整えて得られる安心、のなんと危ういことか・・・。


行き過ぎた個人主義によって、社会が悪くなったと、自民党は主張する。しかし戦後の日本が、どれ程「個人」を大切にしてきただろう?
むしろ「個人」主義が徹底されないから、あちこちで「恨み」が噴出していると、私には見える。
日本の家族は、過度に抑圧的だからこそ、各人が潰されまいと、家族を大きく解体してしまうのだ。
逆に、家族が緩やかな「個人」のつながりなら、家族解体の方向には進まないんじゃないか。国家が上から目線で教えを垂れるまでもなく、「個人」は家族のつながりを有り難く思うだろう。

自民党は、人間認識と状況分析を決定的に誤っている。

神の子池+川copy_convert_20140224160904

家族間で相互の助け合いが出来ている場合、そういう家族の一員である人は、幸福である。
がしかし、家族が互いに助け合うのは、「・・・ねばならない」と言われて出来るほど容易でなく、むしろ絶望的なまでに難しい場合が多い。
「密室」である家族は、「不正」の種さえ育み、搾取や「共依存」など、「個人」の恨みの温床でもある。
親子兄弟に限らず、祖父と孫、叔父と甥等まで広げれば、「不正」のために音信不通にならざるを得ないような、困難を抱えている人は、案外多いのではないか。
親戚を見渡せば、平穏な日常の「破壊者」が一人くらい居たりするものだ。
他人であれば犯罪として裁かれる「マフィア」的言動でも、家族間では「独裁者」の天国である現実さえあり、身を守るためには関わらないことが唯一の方法である場合も多い。

近年ようやく、家族の「密室」を第三者に開くことで、児童や老人への虐待に対応しようという動きが出てきた。家庭内暴力に限らず、「密室」を開いていくことは、社会改良に欠かせない、現代の潮流だ。
家庭で高齢者を虐待した人のうち、6割が「孤立介護」をしていたという、「日本高齢者虐待防止学会」などによる調査結果がある。(『朝日新聞』,2013.4.7)
「介護の社会化」も遅々として進まない中、「密室」へ逆進させる価値観を、むしろ取り除いていくべき時に、自民党は何をしようとしているのか?
憲法で「・・・なければならない」と義務づければ、家族の中だけで抱え込んでしまう人が、確実に増えるだろう。
ただでさえ、第三者に救助を求めるのは、その「密室」性ゆえに難しいのだから。

こんな甚だしい問題のある、家族助け合い義務を、25条の「生存権保障条項」のすぐ前に置いたことには意味があると、伊藤氏は言う(p41)。要は、福祉を切り捨てる為の地ならしだということ。そうして、浮いたお金は軍事費に使うという狙い。
安倍自民がやろうとしているのは、「富国強兵」という単なる時代錯誤な政策ではなく、「富国家強兵棄国民」というタチの悪い企みなのだ。

憲法や民法で規定されるまでもなく、家族相互が助け合えた方が、「個人」にとって寧ろラクなのだ。精神的支援でもあれば、格段生きやすい。それが不可能な家族には、そうなるだけの理由があって、しんどい思いをしている。
だから、憲法の義務規定は、既に出来ている家族には意味がなく、何時までも出来ない家族を標的にし、一種の「社会的弱者」抑圧にさえなるだろう。
各家族の状況については、「個人」の努力では改善できない、選択さえ出来ないことがある。
自民党は一口に「家族」というが、親子関係が夫婦関係よりも重視されがちな日本では一層、どんな「家族」の下に生まれたかが、「身分差別」と同じように機能することを、為政者は認識すべきだ。

これは、価値観の違いなどという生易しい問題ではない。
最高法規である憲法が、家族扶養の義務を唱えるようになれば、「民法」もそれに合わせて書き換えられ、私達の生活の現場は、強烈に抑圧されるようになるだろう。
良くも悪くも一生ついて回る「家族」を最高法規に持ち込み、反論する疚しさや痛みで個人を黙らせ、「天賦の」苦労だと思わせれば、為政者への批判をかわすことが出来る。
安倍自民というのは、なんと冷酷なのだろう。そして、なんとやり方が汚いのだろう。


(坂本龍一のミスタッチまで再現する、投稿者の「東風」への愛!)

世の中には様々な人間がいるものだが、こんなにも違うものか・・・。
気力も体力も尽きたかと思うところに、新芽が吹くような感覚を呼び起こしてくれる人間。
かたや、芽を出そう、次へ行こうとしている人間を、差し出がましく芽を摘む人間。
そう。人間は本来、次の段階へ移行しようとするものなのに。そうして、自立(自律)するのが自然なのに。

舛添要一氏は、自民党の改憲案を批判して、個人の対極には国家権力があるが、「人」の対極にあるのは動物だと言っている。
その他の政策はともかく、この点に限っては、舛添氏はマトモだ。
「個人」の「個」を除いて残るのは、「類」や「種」としての「人」である。
「個」を失ったどの「人」にも共通するのは何か?
生まれて、食べて、排泄して、寝て、・・・死んで、という動物的な部分である。自民党によって「尊重」してもらえるのは、こんな部分であり(改正草案13条)、他の人間らしい部分がどう扱われるかは、他の酷い条文に書かれてある。

応援よろしくお願いします。
↓↓
にほんブログ村 小説ブログ エッセイ・随筆へ


[2014/02/24 16:45] | 憲法問題
トラックバック:(2) |
現行憲法が国民の人権を制約する根拠は、「公共の福祉」である。

この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によって、これを保持しなければならない。又、国民は、これを濫用してはならないのであって、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ
(「日本国憲法」第12条)

「公共の福祉」とは、“public welfare”であり、“public”とは「人々の集まり」を意味します。ですから、公共の福祉による人権制約とは、あくまでも「多くの人たちの福祉のため」とか、「各々の人の幸せのため」、ある個人が人権を制限されうるという意味です。
(『憲法は誰のもの?』伊藤真,岩波ブックレット,p37)

ところが、自民党の「憲法改正草案」では、この「公共の福祉」が、「公益及び公の秩序」に置き換えられている。

この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力により、保持されなければならない。国民は、これを濫用してはならず、自由及び権利には責任及び義務が伴うことを自覚し、常に公益及び公の秩序に反してはならない
(自民党「日本国憲法改正草案」第12条)

この置き換えについて、自民党は「日本国憲法改正草案Q&A」で、理由を説明をしている。
変更の理由は2つあって、1つには「公共の福祉」という言葉が「曖昧」だから。
もう1つは、これが自民党の真の狙いであるが、人権の制約は、「人権相互の衝突の場合に限られるものではないことを明らかに」したいという理由。
「日本国憲法改正草案Q&A」(p13-14,PDFの19枚目-20枚目)から、少し長くなるが、Q15とその回答の全体を引用すると。
(アンダーラインや色文字は、あとで問題にする部分です。)
********************************************************
Q15
「公共の福祉」を「公益及び公の秩序」に変えたのは、なぜですか?


従来の「公共の福祉」という表現は、その意味が曖昧で、分かりにくいものです。そのため、学説上は「公共の福祉は、人権相互の衝突の場合に限って、その権利行使を制約するものであって、個々の人権を超えた公益による直接的な権利制約を正当化するものではない」などという解釈が主張されています。しかし、街の美観性道徳の維持などを人権相互の衝突という点だけで説明するのは困難です

今回の改正では、このように意味が曖昧である「公共の福祉」という文言を「公益及び公の秩序」と改正することにより、その曖昧さの解消を図るとともに、憲法によって保障される基本的人権の制約は、人権相互の衝突の場合に限られるものではないことを明らかにしたものです。

(国際人権規約における人権制約の考え方)
我が国も批准している国際人権規約でも、「国の安全、公の秩序又は公衆の健康保護」といった人権制約原理が明示されているところです。また、諸外国の憲法にも、公共の利益や公の秩序の観点から人権が制約され得ることを定めたものが見られます

(公の秩序の意味)
なお、「公の秩序」と規定したのは、「反国家的な行動を取り締まる」ことを意図したものではありません。「公の秩序」とは「社会秩序」のことであり、平穏な社会生活のことを意味します。個人が人権を主張する場合に、人々の社会生活に迷惑を掛けてはならないのは、当然のことです。そのことをより明示的に規定しただけであり、これにより人権が大きく制約されるものではありません。
*****************************************************

まず草案は、「公共の福祉」は「人権相互の衝突の場合に限って、その権利行使を制約するもの」という学説が「曖昧」だとする。
しかし、伊藤氏が言うように「公共の福祉」という概念は、「人権への制約を最小限度に抑える発想になじみます。公共の福祉の具体的な内容は個別・具体的に判断される」(p39)という事を前提にすれば、特に「曖昧」とする程ではない。
(むしろ、前回の記事に書いたように、日本の「伝統」などという「曖昧」なものに従って人権を制約しようとしているのを、自民党は反省すべきだろう。)
「街の美観や性道徳の維持」などの問題で、「人権相互の衝突」が生じた場合、現在は「条例」などを設けて対処ができている。
「街の美観」。例えば、マクドナルドの派手な看板が京都の町並みに合うかどうか、といった問題は、企業と市民と都市の各々の権利について、話し合いで決定し、必要なら修正すれば済むことだ。
「性道徳の維持」。これは、いわゆる「児童ポルノ」、漫画の表現規制などを想定しているのだろうか??
それならば、やはり「条例」と、「条例」を議論するなかで決めていくべき事だろう。
ここで「性道徳」を持ち出しているのが、いかにも自民党らしく、怪しい。「性道徳」が、個々人の生き方に関わるところまで含んでいるなら、そんな事を主張するのは、恐ろしい考えを持った人間の集団だ。国民の「性道徳」を、「人権相互の衝突」以外のところで縛る意図があるならば、非人道的な規制に陥るだろう。

このように、「曖昧さの解消」とは、国民を言いくるめる為に取って付けたようなもので、真の狙いは「憲法によって保障される基本的人権の制約は、人権相互の衝突の場合に限られるものではない」とすることだ。
そこで、「人権相互の衝突の場合」以外に、国民の人権を制約するのが、「公益及び公の秩序」なのである。

「公益」は“national interest”であり、伊藤氏が指摘するように「国益」につながる。
国民の「性道徳」という、本来極めて個人的な部分まで、「公益」=「国益」と「公の秩序」に反しない範囲で保障する、と言いたいのだろう。
もう、国民が家畜に見えているんだろう・・・。

(公の秩序の意味)という項で、「「反国家的な行動を取り締まる」ことを意図したものではありません」と明言されても、「Q&A」は「憲法」ではないから。
「特定秘密保護法」の場合と同じで、自民党が丁寧な「説明」をしても何の意味もなく、あくまでも「条文」がどうなっているかが問題なのだ。

たとえば、インターネットで与党を批判したり、原発情報を調査することは、今よりも制限されるでしょう。政府の政策を批判すれば、それを政府は国益に反する発言と判断して規制できます。原発の安全性への疑念を抱かせる情報は、国民に不安を与えたり、国策としての原発推進を妨げるため、社会的混乱を招くと判断されるでしょう。また、漫画やアニメも、〈お上〉の判断で残虐だとかわいせつだという理由をつけられれば、即座に規制されます。特に、クリエイティブな仕事をしている人たちが受ける打撃は大きいでしょう。芸術などの世界では、既存の価値観に批判的であったり、理解しにくいものが最先端の表現であることも多いものです。当初は顔をしかめられる表現が、後に文化や芸術を進歩させることはよくあることです。(後略)
(『憲法は誰のもの?』,p38-39)

**************************************************************
ここで、いつもながらゴチャついた記事を、もっとゴチャつかせる写真を1枚。
北海道斜里郡清里町(オホーツク総合振興局内)にある「神の子池」。憲法についての一連の記事で、「神の子池」とその周辺の写真をupしてます。池の水は、本当にこういう神秘的な青色です。池にたどり着くのは、秘境探索の如く、けっこう大変です。

神の子池+青い_convert_20140217200436

**************************************************************

今日の最後に、(国際人権規約における人権制約の考え方)の項について。
「Q&A」のこの項では、「国際人権規約」や「諸外国の憲法」でも、人権が制約されているのだから、自民党が「改憲」して人権を制約するのは正当だ、と主張したいらしい。
「諸外国の憲法」とは、具体的にどこの憲法のことを言っているのか、自民党に確かめる必要があるが、それにしても私達は、発展途上のものに合わせる必要があるだろうか?
言い換えると、レベルの低いところへ降りていくべきだろうか???
誰が好きこのんで、管理され搾取される家畜に近付きたいかw。


それに、「国際人権規約」といった、厳格に「普遍的」である立場と比較すると、「国連の規約人権委員会」と「日本政府」との間では、人権を「制約」する基本的な態度に、そもそもズレが生じているのだ。
どういうことかと言うと、「国際人権規約」の条文の英語“public”を、日本政府が「公(おおやけ)」と翻訳する際に、「日本語的な権力性」が入り込んでしまう、ということだ。
「浦部法穂の憲法時評」(→→「憲法の言葉」シリーズ②「公共」または「公」)は、「国際人権規約自由権規約第18条」の英語の正文とその日本語訳(日本政府訳)を比べて、興味深い論を展開している。

“Freedom to manifest one's religion or beliefs may be subject only to such limitations as are prescribed by law and are necessary to protect public safety, order, health, or morals or the fundamental rights and freedoms of others.”

「宗教又は信念を表明する自由については、法律で定める制限であって公共の安全、公の秩序、公衆の健康若しくは道徳又は他の者の基本的な権利及び自由を保護するために必要なもののみを課することができる。」

詳しい議論は「憲法の言葉」シリーズ②を読んでいただくとして、要点を抜き出してみると。

日本語の「公(おおやけ)」とは。
朝廷による支配が確立していく段階で、「おおやけ」は朝廷そのものを指す言葉として使われるようになり、天皇を頂点とする権力機構としての「おおやけ」が形成されていくことになる。その「おおやけ」は「わたくし」の入り込むことのできない領域であり、「わたくし」に優位する権力としての「おおやけ」というものが観念されることになるのである。

現代日本語の「公」という言葉は。
英語の「public」の「みんな」という意味合い、中国語の「公」の倫理性をもった意味合い、そして日本語の「おおやけ」の「権力性」という意味合いが、渾然一体となった形のものとなっている。(中略)
日本語の「おおやけ」は「わたくし」が入り込むことの許されない「わたくし」に優位するものであるから、「わたくし」の権利は「おおやけ」の利益よりも当然一段下に置かれることになる。しかも、そこには「公」の中国語的な意味合いも入り込むから、それが倫理的にも正しいことだ、とするニュアンスさえ込められることになる。


つまり、日本政府が「国際人権規約」に沿っていると主張しても、「公共」から「公」 に書き換える事で、「日本語的な権力性」が強く入り込み、「権力側の都合や利益」が拡大すると言える。
おまけに、現行憲法の「公共」でさえ、「日本語の「おおやけ」のニュアンス」が「渾然一体となっている」。だから、
「公共の福祉」も、「みんなの福祉」という意味にとどまらず、そこに「権力性」が当然のように入り込み、権力側の利益が「公共の福祉」の内容として認められるのは当然のこととされる。
そういう「公共の福祉」という言葉に対し、「国連の規約人権委員会はこれまで再三にわたり、日本政府に対して、そのようなあいまいで抽象的な規定による人権制限は国際人権規約に適合しないという趣旨の勧告をしている。」と、浦部氏は述べている。

自民党「草案」では、「曖昧」という点だけは当たっているのだが、悪いことに「国際人権規約」から一層外れる方向に変えようとしているのだ。

応援よろしくお願いします。
↓↓
にほんブログ村 小説ブログ エッセイ・随筆へ


[2014/02/17 20:25] | 憲法問題
トラックバック:(2) |
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。