アンチ-ロマンチシズムと文学との幸福な共存を謀ります。当面、「炭鉱のカナリア」になる決意をしました。第二次安倍政権の発足以来、国民は墨を塗られるだろうと予測していましたが、嫌な予感が現実になりつつあります。日本人の心性や「日本国憲法」の問題などを取り上げながら、自分の明日は自分で決めることの大切さを、訴えていきたいと思います。
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弁護士の伊藤 真氏は、「憲法の価値は個人の尊重(尊厳)にあり、憲法は国家を縛るための道具だ」と、「立憲主義」について、30年以上に亘って言い続けてきたという。

第2次安倍政権が「日本国憲法」第96条を先行改正しようと動き始めたのに対し、それを阻止する根拠として、「立憲主義」という思想が、にわかに知られるようになってきた。
しかしまだまだ不十分で、伊藤氏が「9条の会」などで講演した際にも、「いまだに初めて聴いた」と言われるそうだ。
憲法について常日頃運動している「9条の会」会員でさえ、知る機会が無かったのだから、学校教育でも「立憲主義」については教わらない私達の間で、ほとんど知られて来なかったのは無理もない。
だが、今後は「立憲主義」が広く認知される必要がある。
仮に安倍総理があっけなく退陣したとしても、自民党とその「日本国憲法改正草案」(2012.4)が存在する限りは。

『憲法は誰のもの?-自民党改憲案の検証』(2013.7.4発行、岩波ブックレットNo.878)は、その伊藤氏が「立憲主義」について、また自民党「改正草案」の危険性について、分かりやすく書いたもの。全63頁だが、中身は濃い。

目次
第1章 誰のため、何のための憲法なのか
第2章 平和主義から「戦争のできる国」へ
第3章 人権の縮小、義務の拡大
第4章 なぜ九六条を変えてはいけないか

そもそも、憲法は何のためにあるのだろうか?
その疑問に対して、伊藤氏は15年くらい前からは、「法律と憲法では矢印の向きが逆だ」と説明しているという。この説明は最近、キーワード的に知れ渡るようになってきた。

法律は国民の権利を制限したり、義務を課するものであるのに対して、憲法は、国民が国に守らせるためのものです。(p5)

現行憲法を「壊憲」してしまおうとする勢力がなりをひそめていた時には、私達は、「そもそも憲法は何のためにあるのだろうか?」と考える必要さえなかったわけだ。
しかし、「改正草案」を出してきた自民党と同調勢力にとっては、憲法の存在理由としての「立憲主義」ほど邪魔なものはなかろう。自民党の思惑どおりに、憲法が為政者を縛るものでなくなったら、どうなるか?

草案は(中略)、「個人の人権を守るために国家を縛る憲法」から、自民党の政治家が自分たちの作りたい国家を作るために、「国民を支配する道具としての憲法」に転換するものと言ってもよいでしょう。(p4)

安倍総理が「2020年に憲法は改正済みになっている」と産経新聞で語ったのは、主に9条の事を言っているのだろう。しかしそうやって、他の条項も次々と、「改正草案」通りに憲法が変えられてしまったら、どうなってしまうのだろう?
伊藤氏の鳴らす警鐘に基づいて、私流に考えてみよう。

現行憲法のもとにある各種の法律、刑法や民法なども、自民党の憲法に合うように書き換えられるはずだ。
そうすると、「国民の権利を制限したり、義務を課する」法律の上に、「国民の権利を制限したり、義務を課する」憲法が乗っかることになってしまう!
「立憲主義」に則った現行憲法下でなら、国民に不利な法律が作られたとしても、「違憲立法」だと判断されれば修正することが出来る。
憲法が「国家を縛る」とは、例えばそういう事だ。
この前の「特定秘密保護法」でも、実際に逮捕者が出る事態になれば被告第1号には1000人の大弁護団をつけるべく準備をしているらしい。稀代の悪法でも、そういう訴訟を通して現行憲法の理念に合うように変えさせることが、可能だ。
しかし、憲法が「改正草案」通りになれば、「特定秘密保護法」も「合憲」となってしまうだろう。
そうなれば、もはや憲法は最終的に国民を守ってくれるものではなく、国民を縛る2本目の縄、しかも法律の縄よりも太く頑丈な解けない縄になることが、眼に見えている。

このように、「立憲主義」の否定は深刻な結果をもたらす。自民党の「改正草案」が「立憲主義」の否定の上にあることを、見逃してはいけない。

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『憲法は誰のもの?-自民党改憲案の検証』は、500円+消費税で買える。出来れば、購入して出版社を盛り立てたいところ。増税前がチャンス。('-'*)
「マスゴミ」が次々と安倍政権に飼い慣らされていく中で、岩波書店の仕事は本当に立派である。

『憲法は誰のもの?』をツカミにして、あと数回記事を書く予定だ。
自民党の「改正草案」も、「改正草案Q&A」も、どこからどう手をつけたら良いのか困惑するほど、箸にも棒にもかからない酷い代物である。
何故、自民党の案どおりに変えねばならないのか??理解できる個所の方が少ない位だ・・・。
これを、現行憲法と照らし合わせながら考えるとなると、本が何冊も書けるほど、論点が多くなってしまう。
その為か、色んなブログが「改正草案」の問題について記事を書いているのに、読んでみても「腑に落ちる」という感じには、どうもならない。
きっと、「改正草案」の問題をとらえるためには、「各論」も重要だが、まずは「総論」的に入って行くことが必要なのだろう。
『憲法は誰のもの?』は、憲法の3原則がどう壊されようとしているかを、憲法の存在理由としての「立憲主義」から光を当てることで、「総論」的に解説するものとなっている。おまけに、短くて安い。(爆)
これを一度通読することを、オススメするゆえんである。

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[2014/02/02 06:00] | 憲法問題
トラックバック:(3) |

忘れてたww
ちやこ
思い出しました立憲主義。
そういえば私、法学部で私法より公法、特に憲法は2年間にわたって詳細に勉強してたのでしたww
なのにその肝心なところを忘れていました。
そうなんですよね、憲法は皇室の部分を除けば、ほぼ国民主権で貫かれているんですよね。
そう考えると、あらためて9条を変えることの重たさに突き当りますね。
なにがなんでも、憲法改正には断然反対します。

Re: 忘れてたww
小谷予志銘
ちやこさんへ

法学部卒のちやこさんが「立憲主義」を忘れていられたほど、これまでは幸せな時代だったんですね。
気付くと、我々の人権を制限したくてたまらない議員達が、作戦を展開済み。
「天賦人権説」はキリスト教社会の考えで日本の「伝統」とは違うから、日本人は日本人らしく、西洋人と同様の人権は諦めなさい、と自民党から無理強いされている・・・。

もはや、あの連中を、「反社会的勢力」と位置づけるべきでしょう。

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しかし、そもそも立憲主義が縛ろうとしている「国」は、“country”(生まれ故郷)ではなく、“state”とか“government”といわれるものです。言い換えれば、人為的に作った権力主体としての国の権力であり、具体的には国会や内閣、裁判所などの権限です。このような権力は、「ふるさと」のような自然と違い、国民の多数意見を拠りどころにして作られたものであるだけに、過ちを犯す危険があるのです。
(伊藤真『憲法は誰のもの?』p9)

ここで伊藤氏が指摘していることは、「壊憲」とともに「愛国心」を強要されている今、あらためて確認しておきたいところだ。

日本という「国」が好きかどうか尋ねられれば、私の場合、その「国土」は好きである。
英単語としては“land”を挙げた方が分かりやすいかもしれない。日本の自然条件には、畏敬の念さえ覚える。私は日本の風土を愛している、とは言えそうだ。
言語や伝統文化と深く結びついた“nation”については、好きとも嫌いとも、一概に言えるものではない。日本を一概に賛美する「民族主義」的な愛国心は、私は御免こうむりたい。
“state”や“government”となると、そもそも愛する対象ではない。「立憲主義」の憲法によって縛るべきものである。“state”とは、国民や歴史によって客観的な評価を下される対象にすぎない。最近の国会や内閣のやり方を見て、それらが「過ちを犯す危険」を多くの国民が思い知った。

「愛国」を唱える安倍総理が「売国」的ではないか?という、多くの人の違和感は正しい。
私の愛する“land”は、長きにわたる自民党中心の“state”によって、放射能で汚染されるがままだ。原発が生み出す放射性廃棄物を、この美しい“land”に押し付けるために、“state”は何処かの町村をねじ伏せるのだろう。
尖閣という“land”をめぐって、国際感覚も外交能力もゼロの“state”が危機をあおっている。戦争になれば、三菱○○といった企業はさぞかし利益を上げるだろう。
こういう“state”を批判するのは、「反日」でも「売国」でもない。
“land”を守るために、その利権もろとも“state”を退場させなければならない、と主張するのは、むしろ正統な「愛国」的行為である。

「国」という言葉の意味するものを、こんな風に分解してみると、「ネトウヨ」の感傷的攻撃に耐えることが出来る(爆)。

極端な右寄りの人々は、要するに「便乗商法」をやっている様なものだ。
“land”や“nation”と“state”とを相乗りさせ、“land”や“nation”の価値と紛らわせて、1%を利する“state”が上手いことやろうとしている。
1%を利する“state”を責めていると、“land”や“nation”まで「自虐」しているかの如く、国民に錯覚させる手法。
しかし、“land”と“state”は別物である。
現代日本人は、「別物」を「別物」として扱うべきだ。
“state”を批判していると、何か悪いことでもしている様な気がするのは、彼らの術中にはまっているのである。


「立憲主義」の縛りを解いてもらって、おまけに“land”や“nation”とごちゃ混ぜに、自民党政権を愛してもらえたら、安倍自民は大いに満足だろう。

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次にあげるのは、自民党の「日本国憲法改正草案」(2012.4)「前文」である。

日本国は、長い歴史と固有の文化を持ち、国民統合の象徴である天皇を戴く国家であって、国民主権の下、立法、行政及び司法の三権分立に基づいて統治される。
 我が国は、先の大戦による荒廃や幾多の大災害を乗り越えて発展し、今や国際社会において重要な地位を占めており、平和主義の下、諸外国との友好関係を増進し、世界の平和と繁栄に貢献する。
 日本国民は、国と郷土を誇りと気概を持って自ら守り、基本的人権を尊重するとともに、和を尊び、家族や社会全体が互いに助け合って国家を形成する。
 我々は、自由と規律を重んじ美しい国土と自然環境を守りつつ、教育や科学技術を振興し、活力ある経済活動を通じて国を成長させる
 日本国民は、良き伝統と我々の国家を末永く子孫に継承するため、ここに、この憲法を制定する。」

これを読む限り、自民党も一応、「国民主権」や「基本的人権」に則ることを表明している。
自民党は、そうせざるを得ないだろう。西田昌司議員は「国民主権」を否定しているが、その様なことを前面に出せば、いかに大人しい国民でも、自民党を敵視し始めるだろうから。
ポーズとしてでも人権尊重を謳い、各条文で人権を制限するやり方を採らざるを得ない。
(だから、あまり大人しくない私は、このブログを通じて提案したい程だ。
この「改正草案」を掲げる自民党を、「反社会的勢力」と呼びましょう!

自民党の「前文」には、「人権尊重」という言葉で国民の顔色を見つつ、「」だの「規律」だのによって国民に手枷足枷をし、「国」の為の捨石にしたい、という本音が端的に現れている。
そもそも、「国を成長させる」とかあるのも、どういう事か、よく理解できない。「新自由主義」的にグローバル企業が成長することに依るなら、私はついて行けないし、協力したくない。
ついて行くか行かないかで、各人が価値観を問われている時代なのだ。
随所に見られる二枚舌は、「改正草案」が国民への「信義」など微塵も持っていないことを現している。
諸外国との友好関係を増進」??民間の努力を邪魔しないで欲しいね。
美しい国土と自然環境を守」る??汚染水ばかりでなく廃棄物も「完全にコントロール」できる?
教育や科学技術を振興」??格差が広がって、希望や能力があっても思い通りに進学できない子供を増やしながら?

中学校の「校則」でも、今時これほど、一人一人の現実を無視した厚かましいものは無いんじゃないか?
こういう「校則」並みか「校則」以下のものを、憲法として「大のおとな」に押し付ける“state”だ。
これを許せば、国民は権利を制限され義務のみを強いられ、“state”は益々強大になり、“land”や“nation”は衰弱するだろう。それは、北朝鮮の有り様に、近付くということだ。

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「前文」を引いたので、ここでどうしても注意しておきたいことがある。
現行憲法と違って、「改正草案」の「前文」には、冒頭に日本の「国体」についての記述がある。
日本国は、長い歴史と固有の文化を持ち、国民統合の象徴である天皇を戴く国家であって」というのが、恐らく自民党が一番言いたいことなのだ。
しかし「国体」(=国のあり方)護持にこだわって、ヒロシマ・ナガサキも沖縄戦もものともせず、本土決戦さえ想定していた勢力が、戦前の日本を牛耳っていた。
その「国体」を、自民党は再び、国民に「押し付け」たがっている。

万世一系の天皇が統治する尊い国。
しかも男系男子によって皇位が受け継がれてきた、古今東西に一つしかない国。女性天皇は認めない、天皇は欧州の王とは違う、特別だという主張。
NHK経営委員の長谷川三千子が、天皇は「現御神(あきつみかみ)」だと、御大層にも旧仮名遣いでものしたのは、2013年のことである。
なるほど、「日本国は、長い歴史と固有の文化を持ち」というだけでは、どの国もそれぞれに「長い歴史と固有の文化」を持っているのだから、日本は特別だ、とはならないわけだ・・・。

しかし何故、スペインもインドネシアもエジプトも皆めいめいが「長い歴史と固有の文化」を持っているのと同様、日本もまた「長い歴史と固有の文化」を持っている、では不十分なのか???
理由は、大きく見て2つだろう。

1)「固有の文化」と言葉を振りかざしてみても、心底では、自分自身にも依って立つべき伝統文化にも、自信が持てないため。
2)特別な価値を持つ国なのだから、個々の国民より尊重される、と堂々と主張したいため。


たぶん彼らは、両方である。この危険な“state”を、絶対に縛らなければならない。

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[2014/02/07 16:15] | 憲法問題
トラックバック:(2) |

便乗商法!
村野瀬玲奈
トラックバックありがとうございました。

>極端な右寄りの人々は、要するに「便乗商法」をやっている様なものだ。

この表現に納得しました。
さらに私は、「詐欺商法」でもあると思っています。landと思わせながらnationとstateを売りつけているのですから。売り手だけが儲かるようになっていて、買い手は損をする買い物。

Re: 便乗商法!
小谷予志銘
村野瀬玲奈さんへ

私達が陥っている状況について、比喩的な表現で上手くとらえたいと、記事を書くときに考えています。比喩表現って、的に中れば、ものの見方を変えるし忘れにくいですから。

村野瀬さんに納得していただけたというのは、希望が湧きます。
安倍自民の「便乗商法」+「詐欺商法」という見方を、多くの人に納得してもらえるように、努力しましょう。
うちは弱小ブログなので、玲奈さんや猪野先生の方にTBやコメントを送って、「便乗」してます(笑)。

都知事選の世代別投票先などを見ていると、私は、「オタクの文学論」にはお婆さんになっても戻れないかもしれませんねえ。
戦争体験があって安倍政権に危機感を抱く世代が亡くなり、まともな「平和教育」を受けた私のような人間も老化していけば、日本は第2の北朝鮮に成りかねないです。
決して大袈裟ではなく。「先軍政治」と「棄民」をやりたいとジミントーの憲法は言ってる様なものですから。

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「天賦」というのは天が与えたという意味ですが、それは人権は国から与えられたものではなく、誰もが生まれながらに持っているものだという意味です。与えた誰かを強いて表現すれば、天が与えたようなものだという一種の比喩に過ぎません。ですから、キリスト教社会ではない我が国の歴史、文化、伝統と相容れないと考えるべきではないのです。
(『憲法は誰のもの?』伊藤真,p18)

自民党の「憲法改正草案」が、「天賦人権説」を有名無実化するために根拠としているのは、結局、日本の「歴史、伝統、文化」である。
(西欧が掲げる)「普遍」に対して、日本の「独自」や「特殊」を持ち出して、いわば‘日本人らしい人権’という不可解なものを、捏造しようとしている。
自民党の胡散臭い言動のあるところ、またしても「伝統」ありだという事を、ここでも確認しよう。
誤魔化されてはいけない。

才能ある日本人が、ダルビッシュでも田中将大でもいいが、「天賦の才」を持っているという時、単に「生まれつきの」、「生得の」という意味で「天賦」という語を使っているのであって、「天」がキリスト教の神か天照大神か大日如来か等という事を、いったい誰が問題にするだろうか??
それを問題にするということは、「天賦」という語の意味をねじ曲げているわけだ。
「天賦人権説」にわざわざ「西欧の」と、ことわりを付ける、自民党の隠れた意図に、注意を払いたい。

それにしても開米という人は、よほど前向きな考えの持ち主なのか。自民党の「改正草案」は天賦人権説を否定していない、だから安心です、と解説する楽天的な記事を書いている。(→開米瑞浩「憲法改正デマ」(4)

開米氏の記事は、片山さつき議員の狡猾さを知るには意味がある。
しかし、「改正草案」第11条に、
国民は、全ての基本的人権を享有する。この憲法が国民に保障する基本的人権は、侵すことのできない永久の権利である。
と書かれているから安全だ、というのは、「普遍」対「特殊」という自民党の「文脈」を見ていないのである。

開米氏が「改正草案」は安全だとする理屈は、次のようなものだ。
まず、「国民は、すべての基本的人権の享有を妨げられない」という現行憲法第11条の、不自然な受動態が英文翻訳に起因する事から始まる。
次に、“confer”という英単語は“格上の者から格下の者への「与える」ということなのです”とし、“この場合「格上の者」とは明らかに「神」です”と進め、「神の下の平等」という観念を下敷きにしていると指摘。
そうやって、現行憲法の条文の上に、「キリスト教圏」における「人権概念」の残存を見出そうとしている。
だから「改正草案」は、「キリスト教圏」ではない日本で、キリスト教的なものの残存を取り去り、日本人にとって「自然な文章に直した」だけだ、と・・・。

しかし、開米氏の好意的解釈とは違って、自民党の目論見は次のとおりであろう。
「天賦人権」は元々、人種や民族に関わらない「普遍」的なものであることを、ねじ曲げたい。
その「普遍」を表現する際に、「明記」されてないキリスト教的価値がオマケのように付属していた。
そのオマケが日本に馴染まないから取っ払い、真に「普遍」的な文言に書き換える。
と見せかけ、「改正」のドサクサに紛れて、「普遍」的なものを日本の「特殊」で変質させる・・・。
こんな手の込んだことをするより、日本人には「普遍」的価値は相応しくないと、代議士達はハッキリ言ってみたらどうか?
国民に拒否されるから、誤魔化す必要があるのだろう。)

その目論見を明かし立てる証拠として見逃せないのが、
権利は、共同体の歴史、伝統、文化の中で徐々に生成されてきたもの
という「改正草案Q&A」のなかの、珍妙な「権利」観だ。

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Q14「日本国憲法改正草案」では、国民の権利義務について、どのような方針で規定したのですか?
(p13,PDFの19枚目-『日本国憲法改正草案Q&A増補版』→ダウンロード
Q14の答の一部
「また、権利は、共同体の歴史、伝統、文化の中で徐々に生成されてきたものです。したがって、人権規定も、我が国の歴史、伝統、文化を踏まえたものであることも必要だと考えます。現行憲法の規定の中には、西欧の天賦人権説に基づいて規定されていると思われるものが散見されることから、こうした規定は改める必要があると考えました。」

ここで自民党が主張する「我が国の歴史、伝統、文化」とは、如何なるものなのか?
こういう曖昧で明確にするのが困難なものを「踏まえ」て、「人権規定」をしようというのである。
「伝統」が人権制約の口実に使われると、考えない訳にはいかない。私が言う自民党の「文脈」とは、このことだ。
将来、大きな問題が起こった時、「日本研究」の分野の研究者が、「御用学者」として起用されるのだろう。本居宣長研究の長谷川三千子氏は、その先鞭みたいなものだ。

しかし、日本人には、国家による人権侵害が行われた時、救済を求める機関もない。
ストラスブールの「欧州人権裁判所」は、EUの人々のためにある機関だ。
これほど手厚い人権保障を、EU加盟国の国民は受けられて、かたや、極右勢力に内心の自由まで制限される日本人は、貧相な人権で一生を送らねばならないのだろうか?
同じ人間なのに。

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[2014/02/12 20:35] | 憲法問題
トラックバック:(3) |

固有の歴史、文化、伝統をありがたく思え
りくにす
いつも興味深く拝見しております。
そうやって人権をどんどん後退させていくのですね。
しかし「天賦の人権」を認めるだけで崩壊する「伝統」とか「国体」ってどんなもんでしょう。西欧の心ある人に堂々と主張できない伝統は誇るに値しないと思います。もっとも、それを「キリスト教価値を押し付けようとしている」という主張も可能なのですが。
最近国学に少し興味が湧いてきたのですが、なんだか気色悪くて。朱子学的価値観のほうがましな気がしますが、これだけ嫌韓的言説がはびこっているとこれに取り組もうという人はいないでしょうね。
本当の狙いは戦時体制かもと思いますが、そうなると日本の娯楽やグルメや伝統工芸は大きなダメージをこうむると思います。観光客も来なくなるから世界遺産をいくつ抱えてても意味ありません。こちらの「伝統」をダメにして滅私奉公の「伝統」だけで戦争をする意味がよく分かりません。
「日本の伝統」を喧伝する人は本当は自信がないのかな、と思ったりします。

Re: 固有の歴史、文化、伝統をありがたく思え
小谷予志銘
りくにすさんへ

「国学」への興味というのは、ど真ん中だと思います。今後、安倍政権の思い通りに憲法「改正」が進められるならば、そういう知識が必要になってきます。
経済学や憲法の「御用学者」の次には、「国学」を中心とした日本研究の「御用学者」が、人心を飼い慣らそうとするでしょう。
それに対抗するためには、「国学」を含めた日本の「歴史・伝統・文化」について、こちらが多くを知っておく必要があります。

といっても、「なんだか気色悪」いですね。本居宣長なんて、コンプレックスの固まりで、自分をなだめるために、執念深く「人工物」を造り上げたという感じです。だから私は、宣長を読むのが苦痛です。

自民党の先生方は、富国強兵と戦争に邁進したあの時代の「伝統」しか、理解できないんじゃないでしょうか?
国家神道一色に染まり、その他の「文化」は途絶えた時代です。
自民党の言う「歴史・伝統・文化」の「中身」を、問いただす必要がありますね。

空海も利休も芭蕉も、日本の「伝統」を創ってきた人々は、個人として際立っています。だから、個人が善く生きる方向へ背中を押してくれます。
しかし、あの先生方は、「個」が如何に生きるかという闘いには興味が無く、「全体」に埋没して、みんな一緒に死にたいんでしょう。
そういう「暗い欲望」を指摘してあげても、逆ギレするだけで認めないでしょうが。

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