アンチ-ロマンチシズムと文学との幸福な共存を謀ります。当面、「炭鉱のカナリア」になる決意をしました。第二次安倍政権の発足以来、国民は墨を塗られるだろうと予測していましたが、嫌な予感が現実になりつつあります。日本人の心性や「日本国憲法」の問題などを取り上げながら、自分の明日は自分で決めることの大切さを、訴えていきたいと思います。
「心理職」とは、心理に関する職業のことで、その業務に従事する人を日本では心理士とかカウンセラー等と呼んでいる。

2014年は、長らく進展しなかった(というか精神科医の団体から横槍を入れられてきた)心理職の「国家資格」化が一気に進みそうな勢いを見せた。
安倍総理のご都合解散で一旦廃案になったけれど、2015年には、カウンセラー達を精神科医団体の支配下に置きたいという悲願は達成されるのだろう。

カウンセラー達と言っても、国家資格としての「公認心理師(仮称)」以外を、精神科医といえども支配することは無理だ。
なぜなら、「公認心理師」というのは所謂「名称独占」であって「業務独占」ではないはずだから、「公認心理師」以外も心理相談を行うのは勝手である。

「公認心理師」が国家資格化された場合に、可決されようとしている法案が後々いろんな問題を引き起こすことは、容易に予想できる。

「公認心理師」は医療機関の外でクライアントに接する時も、精神科医の「指示」に従うべしと、法律で決まりそうな動きなのだ。

病院以外の、心理師個人のカウンセリングルームでクライアントに接している時も、精神科医から「指示」を受けるべし、となれば事態はかなり混乱するだろう。

こういう危うい事を議論を尽くさず強行するのは、いつものことなのだが・・・。

精神科医が信頼できないと判断して「公認心理師」に助言を求める様なケースで、クライアントの人権を侵すことにもなりかねない。
素人考えだが、訴訟の挙げ句に「違憲」判決に行き着くような危うさは無いんだろうか?
最初から、精神的な問題で苦しむ人を第一にした法律にすべきだが、強権を持った「ギルド」は競合者を弱らせることしか頭にない。

こういう心配を、「臨床心理士」の団体や、病院で治療を受ける側が抱くのは、結局、日本の精神科医が悪質すぎるからだ。(中には稀に、良心的で研鑽を怠らない精神科医も居るだろうが。)
私は10代の頃から極度の不眠症で、ベンゾジアゼピンを処方してもらう為に15人程の精神科医と顔を合わせたが、リピートしても良いと思ったのは、たった2人だった。

だいたい日本では、「心理学」なんかロクに知らなくても精神科医になれる。
医学部のシラバスを見ても分かる様に、内科と外科に関する科目がメジャーな教育内容で、精神医学は付け足しみたいなものだ。
診療しながら勉強している医師も居るには違いないが、外科の勤務医を退職して設備投資が少ないからと心療クリニックを開業する医師も居る。(゜∀゜)

そういうことで、私が顔を合わせた精神科医の全員が(まともな2人も含めて)、心理療法と言いつつ「世間話」と「身の上相談」の域を出ない対応しか出来なかったのは、当然とも言える。
恐らく、あの全員がユングの著書さえも読んだことがない。
グレートマザーの概念をロクに知らずにノイローゼの人間に接して、どれ程の事が出来るだろう?
それに、日本では精神科医も、「脳」という「臓器」に投薬して脳内物質の量を加減する、といった発想の上に立ちがちだ。


日本の精神科医は「心の専門家」じゃなく「臓器の専門家」です!

結局私が言いたいのは、「公認心理師」が国家資格になって心理相談が保険適用になっても、精神科医の支配下にあるカウンセラーなんて、頼るだけムダかもしれない、ということ。


金太郎マルヤマン_convert_20150219181628

あと、「公認心理師」の議論では、雑な水掛け合いがされている。例えば。
*大学院卒じゃなく学部卒では力量不足だ!
*心理相談は、「医療行為」かどうか?

こういう点に対しても、言いたいことはある。
もちろん「心理学」の専門的な知識は必要だが、知識だけではダメで「感性」とか「洞察力」によってクライアントが救われることもある。
また、「心理相談」を必要としている人々の多くは、狭義の「精神病」ではなく、ノイローゼとか「神経症」でしょうが!!!

私の「不眠症」には医師が出すベンゾジアゼピンが効いた事は事実だが、私の「脳」は器質的な病変を起こしていない。
幻覚も幻聴も妄想もない。
つまり、「病的」ではあったが、以前も今も私は「病気」ではない。
医師以外に薬を処方できないので仕方なく、多くの人が「ノイローゼ」で精神科に行っているのである。

本来は、精神科の領域は「統合失調症」などで幻覚や幻聴があるなど、明らかな「病気」に限るべき、というのが私が経験から導き出した答。
しかし、シロアリの様な精神科医は鬱病を「発明」して「セロトニン」の量がどうだこうだと、「薬漬け」状態を作りたがっていると、あちこちでバクロされる始末。
「病気」でないものを取り込みたい、という彼らの基本的な姿勢が、「心理職」の国家資格化でも貫かれているのだ。

実は私は、あるカリフォルニア州公認カウンセラーのセラピーを続けて受けている。
自分の悩みに真に効果があるのは何か見極め、諦めず探し続ける事が先決。
そして、チョットした不眠くらいなら、かかりつけの信頼できる内科医にでも相談した方が良いかもしれない。
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[2015/02/19 18:25] | ユングを通して見る日本・「私」
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musashi44
以前、心療内科の本を読んで共感するところがありました。また、医大の友人がもっとも優秀な人が精神科に進むと言っていたので、精神科医を信頼していましたが、そんなことないのですね!
 いつも記事に勉強させていただいております。
 

Re: タイトルなし
小谷予志銘
musashi44さんへ

musashi44さんの御友人が、優秀な部類に属する精神科医である可能性は、あります。
精神科医に限らず、ピンからキリまでいますから、御友人は信頼できる医師かもしれませんよ。

でも、日本人に強いお医者様信仰は、大袈裟ではなく患者の安全にとって良くありません。
私立の医学部なんて、学費の高さから医師や会社経営者の子弟でもなければ、進学不可能です。
つまり、「公平な競争」は最初から無いわけです。
医師の国家試験で一定の担保がされているものの、公平な競争を経ていればもっと優秀な人が医師になっているはずなのです。

あと、「ノイローゼ」等で軽い薬が必要なケースは、逆に本当に注意して医師を選んだ方が良いです。
外科医でも眼科医でも、急に精神科医に転身して「標榜」できるのが日本の制度ですから。
だったら、軽い睡眠薬くらいなら内科医に出してもらった方が安心かもしれないという事です。

どの診療科でも、薬の処方に慎重な医師、健康保険の財政の事を考える医師は、優秀な傾向があります。


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こんな私ですが、自分はどうやら相当にエキセントリックで偏狭な人間らしい、と気付いてはいるのです。

まっとうな人間である私の夫と夫の家族に出会って、ごく普通の日常が如何なるものかを知って驚いたのが、既にオバサンになってから…。
それまで知りませんでした。人を呪う言葉を2、3日に1度も聞かないで済む、日常、というものを。
私は、呪詛が飛び交う「お祭り」、非日常の中で育ったようなものです。
「どうしてそう、ゼロか100か思考なんだ!」と夫から散々叱られましたが、三つ子の魂百までと言うように、染みついたものを落としきるには、もう暫く時間がかかりそうです。

現在進行形の問題が過去になれば、いま許しがたく思うことも許せるんだろうと思います。
やっぱり、渦中にあっては、どうも難しいです。
というか、食われるんですよ。こっちが許したと見るやいなや。
これまでずっと、その繰り返しでしたから。
許して犠牲になって、逃げるべきか食われるべきか決断できず、過呼吸発作を起こして心身が硬直して、精神科へ搬送されてベンゾジアゼピンだのパキシルだのを飲まされて…。離脱症状で路上で失神して。
「親子じゃないか」と頭を撫でられ抱きつかれて、元の木阿弥…。
結構崖っぷちですよ。本当に危なかったんですから。

これを何十年と繰り返して、「もう嫌だ!生きている間は決して許さない」という所へ至ったのでした…。

で、ここ2、3か月焦燥心が昂じて「奇行」に走り、心配して下さる人の意見を読んでいて、ふと思ったのです。
あの妖術使いの魔女達よりも、私が先に死んだらどうなるんだろ?!(爆)
笑っている場合じゃないです。あり得ます。
なんせ、相手は魔女なので。
私や弟を見る目が、視線はこっちを見ているのにガラス玉みたいで、要は自分自身の内側にしか向かってない、対象を見てない目なんです。

やっぱり、イエス・キリストは人であって人ではないんだと思います。
私は、食われぬよう相手を拒否し、なおかつ許すように、努めるべきなのでしょう。
曲芸のようですが、今ならば、不可能でもない気がします。

幸い今の私は、不眠症でさえありません。
毎日のように美味しい道産の小麦や野菜を食べて、風雪をしのぐ住居に住んで。
何より、何の利益ももたらさないばかりか、こんなひどい迷惑をかけている私を、許容してくれている夫と夫の家族がいて。友達もいて。
せめて私は、もしかして悔しいのかもしれない夫の両親の心を、慮っていこうとおもいます。ひょっとすると悔しいのかもしれない夫の心も(爆)。
何の利益ももたらさないものを、損得勘定ではなく受け入れる行為。
私の血族にはそういう大きな人間がおらず、あの魔女達を許容してくれる大人は唯の一人もいなかったようです。それで、彼らは子を食うようになった…。
あっ、大丈夫です。私は犠牲の子羊になれる器ではないですから。噛み付かれたら、本能的に逆襲する人間ですから。


こちらへ移住して何年目だったか、家の中で、誰が褒めてくれるわけでもない掃除をしながら、額のあたりに何処かから光が射すような気がして(そんな気がしただけなんですけどね)、何故か、自由、という言葉が心に浮かびました。

それまで思っていた自由のイメージとは全く違ったものでしたが、魔女が栄えようが滅びようが、私は私として生きて、ただ、その自由を自分のものにしたいと思います。

「グレートマザー」と「賢老人」のことを教えてくれたユングは、私の精神の父ですが、対極にあるグレートマザーと賢老人は、地下深くで繋がっていると、言っていたようないなかったような…。

これからまた例の「売文」をやらねばならないので、ブログは2~3週お留守にします。
有り難う。ご機嫌よう。


[2014/06/18 18:17] | ユングを通して見る日本・「私」
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伝道者の書
ちやこ
許すことなんてそうそう出来ることではありません。
出来ないことを出来たからイエス様は神様の子であったわけですもの。
いいのではないでしょうか急がなくて。

赦すにも時があります。
すべてに「時」があるのですから、大丈夫。
いまは、いまの時です。



Re: 伝道者の書
小谷予志銘
ちやこさんへ

コメントありがとうございます。

時間は無償の賜物なんでしょうか。フツーの人間は「いまは、いまの時」を生きる。

イエスは人であって人でないということを、以前は全く意味不明だと思っていましたが、最近はほんのちょっと、分かる、ような、気がします。

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河合隼雄が「場の倫理」と呼んでいるものは、今も昔も、日本人の根っこに存在する。

「場の倫理」は、7月17日の記事で取りあげた、「母性原理」(言い換えれば「ベタ塗り」原理)に基づいている。

母性原理に基づく倫理観は、母の膝という場の中に存在する子どもたちの絶対的平等に価値をおくものである。それは換言すれば、与えられた「場」の平衡状態の維持にもっとも高い倫理性を与えるものである。
(『母性社会日本の病理』)

「与えられた「場」の平衡状態の維持にもっとも高い倫理性を与える」ことによって、恩恵を受ける面があることは否定しないが、平衡状態の維持とは、コピーを繰り返すようなものだから、時間と共に劣化していくのもまた、日本の現実と思われる。

「場の倫理」が悪く作用して最も弊害を生んでいるのは、「責任」の問題でだろう。
「責任」の問題を克服できないかぎり、日本は資産バブルは起こせても、社会としての再生は遠い。
(というか、行き着く先は、縮小コピーの挙げ句の無理心中だと思えて、私は最近悲観的だ。
当人達は自覚してないだろうが、無理心中したがっている人は、えてして声が大きい・・・。)

「場の倫理」というのは奇っ怪なもので、「責任が全体にかかってくるので、被害者もその責任の一端を担うことが必要となる」(p25)。
そうすると、責任の所在は限りなく曖昧になり。「日本人の無責任性」と批判を受ける事態が生じるのも、肯ける。

「賽の河原」などというのは、日本の俗信であるから、苛酷な「場の倫理」の代表例として見ることが出来る。
親に先立った幼子が「親不孝」の報いとして鬼に責められるという、恐ろしくグロテスクな信仰。(^_^;)
これは、さすがに平成の世では忘れられただろうが、そういう信仰を長らく保った心性までは、なかなか変わらないだろう。

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日本人がどんどん減少していく中で、遂にリセットとならないためには、意識的にきちんと線引きしていく態度が必要ではないか。
「個」が「個」として自立せず、「場」に依存しているままでは、必要な改革は出来ない。
(逆ギレする「女」のような「家父長」ではない、真の意味での「父性」原理を、模索することが必要だ。
「私は私、何がどうあっても私」、とはいかなる事態か?
「父」なるものとは、どういうものか?)

今問題となっている「体罰」についても、「影の補償性」という概念と「場の倫理」を合わせて、河合は大変鋭い指摘をしているが(p82-86)、個人の能力に応じてそれを生かす教育が出来ないという、日本の学校の不幸な事態についても、「場の倫理」が障害になっている事を明らかにしている(p86-89)。

「場」に依存した個人でしかないから、特定の学校とかクラスなどから外れることは「決定的敗北感」につながってしまう。
ただ、適性や能力の問題を「個人の責任において背負い処理」するためには、欧米的な「自我」が確立している必要がある。
日本では、「個」の尊重という事が、しばしば自分勝手な自己主張と同義になってしまう。
まして、「個」や「自我」についての浅薄な理解を、声を大にして唱える勢力が勢いづいている。
そんな「個」の確立が難しい中で、単純に能力差の問題を持ち出すとどうなるか・・・。
「ある個人を簡単に場から外す」ことを正当化するだけという、排除の論理になりかねない。
河合隼雄の洞察は、「日教組」風の、底の浅い平等主義とはレベルの違うものである。

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キリスト教が分からない日本人が欧米人の「自我」を理解できるはずもなく、また、欧米人と違っていて当然で、しかし、グローバリズムの中で立ち回らざるを得ない以上、線引きする思考を諦めずにやっていくしかない。
神話の時代や戦前に憧憬を抱く人は、自分の頭の中だけでやっていて欲しい。
間違っても、「個」を退かせながら「自助」を唱える、都合の良いスローガンを受け入れてはいけない。
そういう破綻した主張は、破綻したものとして、切って捨てなければならない。


よく考えてみれば、上手く線を引けない人々が、劣化する「場」の中で、「自虐」に陥っているのである。
「○○は無かった」と、「自虐」から決別したがっている人は、残念ながら、彼等の意に反して「自虐」に縛られている人々なのだ。
この問題に就いては、もう少し考えて、私なりに確信が持てたら記事にしたい。


[2013/08/05 20:30] | ユングを通して見る日本・「私」
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