アンチ-ロマンチシズムと文学との幸福な共存を謀ります。当面、「炭鉱のカナリア」になる決意をしました。第二次安倍政権の発足以来、国民は墨を塗られるだろうと予測していましたが、嫌な予感が現実になりつつあります。日本人の心性や「日本国憲法」の問題などを取り上げながら、自分の明日は自分で決めることの大切さを、訴えていきたいと思います。
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大塚英志の小説『木島日記』(2000年7月,角川書店)は、民俗学者の折口信夫が奇怪な人間達にさんざんに振り回される、という仰天のフィクションである。

折口信夫が父親代わりになったという設定の娘・美蘭(メイファン)と、美蘭の夫である陸軍大尉・一ツ橋光治。
‘娘’夫婦に無理やり連れられて、折口博士が到着した青森県八戸には、キリストの日本渡来に由来する‘渡来神宮’があり、そこには‘厩戸宮’なる‘偽天皇’が鎮座している……。

八戸小唄寿司1

作中の折口博士でなくとも、‘軽い目眩’を覚える。
なにせ大塚英志は、昭和初頭の右傾化する日本で、オカルティズムと日本軍の一部が接近した歴史を、素材としているのだから。
トンデモ本『失われたムー大陸』の著者、ジェームス・チャーチワード(しかも替え玉)の講演会に、折口が招待され、「河豚計画」を主導した陸軍大佐・安江仙弘(やすえのりひろ)も同じ場に居合わせたとか(*゜∀゜)。
「河豚計画」とは、1930年代に日本で画策されたという、ユダヤ難民の満州国への移住計画のことだ。

八戸小唄寿司2

『木島日記』は、小説の文体としては何の魅力もないが、全体構成は立派である。
大塚英志は、漫画の原作者で評論家。
『人身御供論―供犠と通過儀礼の物語』や『「彼女たち」の連合赤軍―サブカルチャーと戦後民主主義』を私は読んだことがあるが、どちらもインスピレーションを掻き立てる内容だった。

『木島日記』では、‘折口邸は恐らく一種の結界あるいは無縁の如き空間’だとされる。
つまり、折口の屋敷は、‘世俗の人間を拒む代償として世俗とは交わりにくいエトランゼたちを’呼び寄せてしまう場として機能する。
私が面白いと思ったのは、折口の屋敷以上に、民俗学の権威である折口信夫そのものを、一種の‘結界’として、うまく書いている点だ。

大塚英志にそれができたのは、折口信夫を‘来歴否認の人’としてとらえているからであろう。

近代という時代が「日本人」という自意識を生み出していく過程であったとすれば父や母との関係を懐疑し、自らの来歴を否定しようとする感情はどこかでそのことへの微かな異議なり違和の表明としてあったのではなかったか。「日本人の伝統」を捏造することに最も強く寄与したといえる二人の民俗学者すなわち、柳田國男と折口信夫がともに来歴否認の人であったことはあまりに象徴的だ
(『木島日記』,第五話「若水の話」)

民俗学とは偽史である’と大塚が言うとき、私は、文芸評論家・山本健吉への新たな視角も生じると思う。
折口の直弟子でありながら、民俗学というより文芸評論の方へ向かった山本健吉は、幾重にも‘来歴否認’を重ねていることになるのだろうか?

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[2012/04/17 14:38] | 大塚英志の仕事
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大塚英志の『多重人格探偵サイコ--小林洋介の最後の事件』(小説版,2002年,講談社)をパラパラめくりながら、私は、軽いめまいに襲われた。

奇数ページの柱、つまり章名に、大江健三郎の小説・エッセイのタイトルが、印刷されているではないか!

第1章 遅れてきた青年
第2章 壊れものとしての人間
第3章 案内人
第4章 個人的な体験
第5章 洪水はわが魂に及び
第6章 生け贄男は必要か
第7章 治療塔
第8章 身代わり山羊の反撃

なお、第3章の「案内人」は、大江の短編連作『静かな生活』に収められた、3番目の短編のタイトル。大江はこれに、「ストーカー」とルビを付けている。

『サイコ』を読みながら、ページを繰っても繰っても、左上に刻印されている大江健三郎が気になって、なんだか落ち着かない読書になってしまった。

サイコ小説版

まったく、大塚英志という作り手を、カワイイと評すべきか? 底意地が悪いと評すべきか?

大塚がなんでこんな仕掛けをしたのか? 大江の文学をどう評価しているのか?
私は、大塚の考えを以前に読んだ気がするが、忘れてしまった。
しかし、私なりの大江への評価を重ね合わせてみれば、案外、大塚の気持ちも分かるような気がする。
たぶん、愛憎が入り交じっているのだろう。
ロマンチック文学の王道を行くOeへの憎悪と、小説というものを破壊していくアバンギャルドなOeへの愛着。


『多重人格探偵サイコ』などと、いかにも軽薄そうなタイトルを付した漫画のノベライズを手にした読者が、あたかも、大江の重厚な本を手にしているような、不思議な感覚に悩まされる…。
とりわけ悩ましいのが、第5章の「洪水はわが魂に及び」という文字列。
私は、奇数ページ上方を見ながら、パラパラ漫画の要領で『サイコ』をパラパラさせる。
『サイコ』の語り手‘ぼく’は、大江公彦(おおえきみひこ)と名乗る……。

サイコ表紙

大江健三郎が『洪水はわが魂に及び』(1973年)を執筆していた最中に、「浅間山荘事件」は起こった。
それで、大江の小説世界と外界が符合してしまった。
人間の内部の小さな空洞が膨らんで、ついに私刑が行われる、という事が、小説の内と外で同時に起こった。
その空洞の周りには、ヒッピー・ムーブメントだの、ニューエイジ思想だの、様々なものがまとわりついている。

『「雨の木」を聴く女たち』(1982年,新潮社)は、その辺りの不可思議な状況を取り込んで仕立て上げられた、大江文学の最高峰(だと、私は思っている)。

洪水はわが魂

『洪水はわが魂に及び』から『「雨の木」を聴く女たち』にかけて、充実の極みにあった大江健三郎の文学。
その世界を掠めるようにして、『サイコ』の物語は、第2巻、第3巻と展開していく。

そんなわけで私は、『サイコ』について(2巻・3巻も含めて)、次回も記事を書きたい誘惑に駆られている。(また寄り道か!?!)
漫画版も気になるが、時間・金・少しの勇気、の全てが私に欠けているので、漫画版は後回しにしよう。
あちこちの県で「有害図書」に指定されている漫画版である。(T_T)
小説版でも、第1巻の第7章、‘長い絶望の咆哮’が小林洋介の口から発せられるくだりは、ちょっと動悸がした。
その‘オブジェ’の破壊力は、絵にすると、増すのか減るのか?
少なくとも、大塚英志が、その知力と情念を尽くしてケンカを売っていることは、私にもよく分かった。

平成のある種の小説家たちに対して…。www



[2012/05/15 16:30] | 大塚英志の仕事
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小説版『多重人格探偵サイコ』の第2巻「西園伸二の憂鬱」(2002年,講談社)では、童話やお伽噺の主人公を模倣した事件が、次々と起こる。

事件を起こすのは、精神科医・津葉蔵幸治(つばくら・こうじ)の患者達。
津葉蔵は、民話療法(患者達に童話をモチーフにした寸劇を演じさせる治療法)を施す医師として知られている、という設定だ。
しかし、「白雪姫」も、「アリとキリギリス」も、実は‘自己実現の物語’になっておらず、‘暗く救い難い欲望が横たわっている’だけのように、津葉蔵には思えてきた。
長い思案の末、津葉蔵は、暗い欲望に身をまかせて初めて患者達が癒やされる、という‘仮説’を実行に移した……。

何とも、救いようのない話だ……。

『木島日記』(2000年)では、喪失と思慕の甘ったるーい物語は、軽やかに茶化されていた。
おちゃらけた大塚英志の筆致が、慕わしいほどだ。

「いやーん、いけすかない」
(『木島日記』,第5話, ‘おかま’のドイツ人・ヘーガーの嬌声。www)

木島日記

しかし、『サイコ』では、シャイな少年、内田保(うちだ・たもつ)が、渋谷センター街の雑踏で日本刀を振り回す。
これは、2008年に秋葉原で起きた悲惨な通り魔事件を、予見しているかのようだ。

『サイコ』の漫画版を「有害図書」に指定して、18才未満から遠ざけるべきなのだろうか?
『サイコ』は、犯罪を誘発するだろうか?
逆じゃないか。無差別的怨恨がどんな風に生じるか、深く理解できる大人もいるのだという、希少なメッセージになり得るかもしれない。
(まあ、絵を見ていないから、柔らかい心が受け止められる範囲かどうか、分からないけれど。)

勿論、話の分かりそうなオタクがマスコミに一人や二人いるからと言って、それで苦痛から解放されるほど、現実は甘くなく。
『サイコ』も、理解の通路が一目で見えるほどには、単純な構造をしておらず。
『サイコ』の複雑な物語は、甘くない現実を知っている大塚の、屈折の反映にも見えて…。

いやーん、いけすかない!

西園伸二の憂鬱

“誰でもよかった”と、直接の加害者でない人間に刃を向けさせるような怨恨とは、因果律を認めさせない力が働いて起こる。
(あの、飼い犬を殺処分されたという恨みで、元官僚宅が襲われた事件。飼い犬を保健所に引き取らせたのは、犯人の家族だと報道されていたが。)
原因を直視させない力によって、無差別的に人間への恨みが発生する。

あらぬ方へ八つ当たりして、怨恨を晴らすやり方は。この期に及んで、自戒すべし。
かといって、恨みを内向させて、自分自身を破壊する行為も、やっぱり却下だ。
原因を作った張本人に、正当にやり返す。これは、因果律に則っているぶん、上の二つよりマシだ。
ただ、悪趣味で不毛だから、私はこれも却下する。
では、内に渦巻いている恨みを、どう解決すればいいのか?
原始的な‘刺激’に躍らされている人間について知悉し、まがまがしい力を消化してしまうこと。
私には今のところ、それ以外に、方法が見つからない。
その方法で、どこまで人が立ち直るか? 私が実験台だ。


人間について知悉しようとする時、次のような感覚は、不可欠に思われる。

死体にビデオカメラを向けたジャーナリストはその受け手の好奇心をただ代行するだけだ。カメラを向けられた瞬間、いかなる絶望も戦争も、多分、ホロコーストさえもポルノグラフィーとして加工される
(『多重人格探偵サイコ』--西園伸二の憂鬱,第4章)

津葉蔵の患者達が引き起こす凶行を、ビデオに収録してまわる渡久地菊夫(とぐち・きくお)。
凶行の実況中継をする、電波ジャックのDJ・純内聖人(すみうち・きよひと)。
ラジオから流れてくる絶望と呪詛を、‘ワイドショーの視聴者’よろしく、‘性的昂奮’を覚えながら、‘消費’する語り手、大江公彦(おおえ・きみひこ)。

『サイコ』にひしめいている、快楽主義のしもべ達。

いやーん、いけすかない!!

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[2012/05/22 06:00] | 大塚英志の仕事
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